40年ぶりで「ぎっくり腰」というものになって2週間ほど経ったが、いまだ椅子に坐ると腰に鈍痛と言うか、嫌な感覚が生じる。
中学時代の運動がひびいているらしい。
陸上部で走っていたのだが、腹筋や背筋のいわゆる「筋トレ」で、妙な負荷がかかったようた。
幸いよい鍼灸医に診てもらっているけれど、患部になかなかヒットしない。
よほど深いところとみえる。
寝ている間にも、事態は進行していた。
業界メディアはほんの申しわけ程度にしか触れなかったが、いわゆる「20ミリシーベルト」事件というか問題というか、福島の親ごさんたちが文部科学省門前で、雨中座り込みまでやったおかげで、「大臣」の「1ミリシーベルトを目指す」という言質をようやく引き出した。
校庭の放射性物質汚染表土の削平も、国の費用でやらせるところまでもってきた。
新宿区百人町の東京都健康安全センターに設置されている、文部科学省の放射線モニタリングポストも、地上18メートルという非常識な位置から、人体への影響を測るのに適切な、地上1メートルに訂正されるらしい。
石原がそう言ったと。
都の担当者は、市民の抗議や疑問には、「文部科学省の仕事を請け負っているだけだから」という、木で鼻をくくる返答しかしなかったのだ。
昔話に、「江戸のカエル、大坂のカエル」というのがあったが、役人というのは、目が上にしかついていないカエルみたいなものだな。両生類としてのカエル目(もく)には大変失礼だが。
けれども、水や食品の放射性物質汚染の基準値は、ずいぶんとまた上げられたから、実際は日本列島の広範囲なエリアで汚染と体内被曝は進行しているとみたほうがいい。
「国の基準値内」だから大丈夫、と言われても、誰もそのまま信用する者はいない。
「隣りの国」や半球の反対側ではなくて、「自国」エリアで原発事故が発生すると、その「国」では、基準値自体を上げざるを得ないのだな。
生産者や被害者への補償、そして「避難地域」の拡大や、膨大な「難民」の発生、そしてパニックに対処しなければならないからな。
なにせ、いまの列島東半分は、チェルノブイリをはるかに凌ぐ、放射性物質汚染の長期実験場だからな。
そうして、すべては、「ただちに影響はな」く、5年先、10年先、20年先に「結果露呈」する話だからな。
またカエルを持ち出すとすれば、熱湯に放り込むのではなく、水からすこしずつ温度を上げてやれば、カエルはおとなしく「煮殺されて」しまう、というあの例え。
情報は、関心が低下してから、少しずつ、「驚愕」の事実を後出しする。
そうすれば、カエルは、そのうち往生してくれる。
為政者は、「民百姓」がおとなしく「往生」するのを待っているようだ。
しかし、現実のカエルは水温が一定限度以上となれば、我慢なんぞするわけがない。
与えられた水槽を捨て、その外に飛び出すのだ。
小社の「フィールド・スタディ文庫」も、4年かかってようやく6冊目。
この20日までには、それが出来あがる予定。
ISBN978-4-902695-13-7 四六判226ページ 本体1800円+税
1969年渋谷区生まれの著者が、「渋谷川」に目ざめて約20年。
そして、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員として、平成20年9月に行われた《「春の小川」が流れた街・渋谷》展を大成功させた。
その展示図録はたちまち完売。いまでは、「渋谷」や都内の「川歩き」に関心のある向きには「幻の資料」として垂ぜんの的。
しかし本書はその展示会のはるか以前から企画されていたもので、その間、著者は膨大な一次資料にあたり、暗渠をくぐってオリジナルな調査をつづけていた。
渋谷や渋谷川、さらには川歩きに関する本はあまたあるが、本書はそれらに卓絶する「渋谷・渋谷川原典」と言うにふさわしい。
図版・地図約160点。
折込地図「渋谷川とその支流」を付した本書は、「日本の都市河川」の来し方の典型を示し、「都市と川の未来」を語るうえでも欠かせない一冊。
「原発事故直後、元放射線医学総合研究所の研究員木村真三さん(43歳)は勤務先の研究所に辞表を出し、福島の放射能汚染の実態調査に入った。
強烈な放射線が飛び交う原発から半径10キロ圏にも突入、土壌や植物、水などのサンプルを採取、京都大学、広島大学などの友人の研究者たちに送って測定、分析を行った。
かつて、ビキニ事件やチェルノブイリ事故後の調査を手がけた放射線測定の草分け・岡野真治さん(84歳)が開発した測定記録装置を車に積んで、汚染地帯を3000キロにわたり走破、放射能汚染地図をつくりあげた。
その課程で見つけた、浪江町赤宇木の高濃度汚染地帯では、何の情報もないまま取り残された人々に出会う。
また飯舘村では大地の汚染を前に農業も居住もあきらめざるを得なくなった人々の慟哭を聞き、福島市では汚染された学校の校庭の土をめぐる紛糾に出会う。
国の情報統制の締め付けを脱して、自らの意志で調査に乗り出した科学者たちの動きを追いながら、いま汚染大地で何が起こっているのか、を見つめる。」
以上は、今度の日曜日、5月15日(日)22:00~23:30に放映予定の、NHK教育テレビETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2カ月」の「あらすじ」。
「地図」を研究する者としては、1854年の8月から9月にかけて、10日間で500人の死者を出したロンドンのソーホー地区のコレラ大発生の原因をつきとめた「地図」(S・ジョンソン『感染地図』、S・ペンペル『医学探偵ジョン・スノウ』などの翻訳書がある)をも連想するが、これは「津波浸水地図」や「震災被災地図」などのレベルをはるかに超えた、今日もっとも切迫した「地図学」のテーマである。
必見。
震災と原発ですっかり中止状態になった当ブログ不定期連載の「江戸の崖・東京の崖」だが、某出版社には同じタイトルで単行本1~2冊分の原稿は渡し済みだし、毎月1回、もう四十数回つづけている淑徳大学の公開講座名もこの春から「江戸・東京崖っぷち紀行」と変更したわけだし、日本、いや日本列島そのものが地震と津波と原発ですでに崖っぷちであることが世界中に知れわたったのだから、「崖話」もそろそろ開始してよいと思われる。
もちろん、かくいう当人が経済的にはますます崖っぷちで、辛うじて国分寺崖線の崖際にとどまっていることに変わりはないのです。
で、崖男の崖話を再開。
六本木ヒルズと東京ミッドタウンというきらびやかなランドマークを擁して、いまやトーキョーの顔となった感のあるロッポンギとその隣のアザブ地区だけれど、ロッポンギはいざ知らず、アザブが「崩壊地形」を意味する「アザ」「アズ」という語に由来する、とは当ブログ「江戸の崖 東京の崖」その18(昨年10月16日)で述べた通り。
だから、この一帯には、大小さまざまな崖が、捜せばあちこちにみつかるのです。
たとえば、
地下鉄大江戸線の六本木駅から地上に出、ミッドタウンガーデンを背にして外苑東通りを横断し三差路の南の並木道をくだると昔の陸軍歩兵三聯隊跡(1962年から2000年頃まではその建物を東京大学生産技術研究所に転用していた)、今、国立新美術館と政策研究大学院大学の二つの施設が割拠する一角に至るのですが、その並木道が妙なのですね。
奥が東京ミッドタウン、手前左が国立新美術館、右手が東南となる
ご覧のように、東南側が切られたように最深部で1.5メートルほど落っこちている。そうして、東南一帯はそのまま低い土地である。
これを崖と言うか否かはさておいて、どうしてこんな形になったのか。
放射能汚染地域ではあるまいし、わざわざ道の片側だけを掘り下げ、広範囲に表土を削り取るわけはないから、むしろその逆だと考えるほかない。
この道を下って、旧東大生産技術研究所の向いの低地の角地は、70~80年代は夜な夜なお盛んなところだったとは、土地の人からの話だけでなく、筆者も確かに覚えのある場所。今ではビルの一階でもガラスを透かして倉庫然として見えるけれど、昔は結構広くて、知的そうなママさんがいた店(バー)ではなかったか知らん。某文芸評論家との間にできた子がいるとの話だったが、その評論家は新宿方面でも子をつくっているので、あちこちに「落として」いたのだな・・・。
右手は国立新美術館に隣接する政策大学院大学。その下の土地は大分落ち込んでいる。左奥は六本木ヒルズ
さて、そのかつての夜の街の一画はというと、これも都市繁華街の立地定式にもれず、実は渋谷川支流、正確に言うとその下流の古川の支流、笄(こうがい)川のそのまた支流が侵食した跡なのですね。もちろん水の流れが切り立ったように削ったわけではなく、外苑東通りの尾根筋から支路を通すため、低地に道の部分だけ盛土したのでしょう。
『川の地図辞典 江戸・東京23区編』から、該当部分(渋谷川支流の笄川の谷
結局は人間の手が加わってつくりだされたかたちでしょうが、このようなところに、謎と疑問を感じるところから、人は、いま大きく世の関心を集めることとなった、「地形」にちかづくことができるのです。
昨日(2011年4月29日)に、内閣官房参与を辞任した、東京大学大学院(原子力工学専攻)の小佐古敏荘(こさことしそう)教授の記者会見要旨は、海岸を原発で囲まれた列島に生きていかざるをえない子どもたちの将来に直接関係ある、きわめて重要な内容をもつものであると同時に、このブログで何度も指摘して来た、放射性物質汚染地図がいまだまともな形で公表されていないことにも触れたものであるため、30日の「東京新聞」から、以下引用する。
「原子力災害対策も他の災害と同様、法律や指針、マニュアルにのっとって進めるのが基本だ。しかし、(首相)官邸および行政機関はそれを軽視し、その場限りで臨機応変の対応を行い、事態収束を遅らせているように見える。
とりわけ原子力委員会は、法に基づく手順遂行、放射線防護の基本に基づく判断に欠けたところがあるように見受けた。緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)が、法令に定められている手順通りに運用されていない。結果も迅速に公表されていない。甲状腺被ばく線量、とりわけ小児については、その数値を(福島県第一原発から半径)20、30キロの近傍のみならず、福島県全域、茨城、栃木、群馬各県、他の関東・東北全域で、隠さず迅速に公開すべきだ。広域をカバーできる、文部科学省所管の日本原子力研究開発機構のシステムのデータも開示すべきだ。
福島県の小学校などの校庭利用基準が年間20ミリシーベルトの被ばくを基礎に毎時3.8マイクロシーベルトと決まったが、間違いだ。20ミリシーベルト近い被ばくは、約8万4千人の原発の放射線業務従事者でも極めて少ない。この数値を乳児、幼児、小学校に求めることは、学問上の見地からも、私のヒューマニズムからも受け入れられない。この数値の使用に強く抗議し、見直しを求める。」
これまで、テレビなどで顔をさらして、「ただちに影響ない」などと異口同音に繰り返してきた、同穴学者(ゲンパツアナに巣食っているムジナ)とはいささかことなる、真摯なことばである。
東大には、こういう「まともな先生」も、いたのだ。
前に述べた、郡山市による、小中学校、保育所の表土除去作業が、まったく正当であることは論をまたない。
表土除去の費用と、その処理は、世の中に正義がおこなわれるならば、当然加害者(東電と国)が負うべきである。
しかし、現実には、市が数千万円かから1億とされる費用を負担し、その処分先からも拒否されて、校庭などの隅に積んだままであるという。
各地の「教育委員会」も、子どもの近未来に直接影響する未曾有の危機にあってすら、「県」同様、単なる上位下達システムとなり果てていて、「子どもの未来」に逆作用をなしていることは前記の通り。
「子どもの日」になすべきおとなの仕業は、賢く、しかししなやかに、「自らを守る」ことを身をもって示すことだろう。
この場合の「自分」とは、身体を置く「場所」そして「地域」ということでもある。
ところで、「年間20ミリシーベルト」が、どうして「毎時3.8マイクロシーベルト」になるのだろう。
3.8×24時間×365日なら、33288マイクロシーベルト→「年間約33ミリシーベルト」、
逆に、年間20ミリシーベルトなら、20×1000÷365÷24=「毎時2.28マイクロシーベルト」となる。
この間の数字の加減は、「その場所」に年間何日、また1日のうち何時間いるか、の係数を掛けるということなのでしょうね。
福島県郡山市の独自の行動が、波紋を拡げている。
「波紋をひろげる」とは、不安や問題視を前提とした表現だが、ここでは敢えて逆に、「正しく、かつ根源的な影響力をおよぼす」という意味で用いている。
この27日から、市立の小中学校と保育所計28箇所の表土を削平し、放射性物質汚染に対応するという。
これに対して、県教委(福島県)は、「必要ない」と。
だから県立高校の校庭はそのまま。
文部科学省も「いまのところ必要ない」という。
要は、指示もしないのに、市町村が勝手なことをするな、といいたいのだろう。
そこに住む者の立場になって考えてみると、国や県の役人の頭の中が、まったく逆立ち構造をなしているのがよくわかる。
「県」とは、秦の始皇帝が採用した郡県制にはじまり、白川静の『字統』によれば「郡県の郡は、古く氏族国家の首長であった里君の所領地であり、また県は国の直接の支配地」を指すという。
千年も二千年も遡れば、「地方」は独立した部族や氏族、共同体の排他的な領域であった。
征服王朝が、直轄地の「県」を持ち込み、「地方」を分断する。
日本の場合は、明治維新で、地方そのものが「県」ということにされてしまった。
県は最初から「国」の都合を「地域」に分配する出先機関の性格を与えられていた。
県に組込まれてしまったといっても、地方はその顔を県や国に向けていては、存亡の危機に、その現実に、対応できない。
誰が、東京の電気のために、東北の一画に危険極まりないシロモノを持ち込んだのか。
第一義的に責任があるのは東京電力であり、次にそれと一体になって原発政策を推進した省庁つまり国家である。
現在、国際社会においては、日本という国は、震災・津波の被災者であるが、その反面、原子力発電装置を安全に運営する能力に欠け、放射性物質を空気と水にのせて世界に拡散させている当事者である。
核拡散ではなく、放射性物質を拡散している、加害責任を負うものだ。
そうして、地域社会においては、地方の住民から居住と職とを奪った当事者である。
この場合の当事者とは、告発を受ける被告人、つまり現行犯法人ということになる。
現行犯人が、被害者に対して「指示」や「命令」を出すことはありえない。
被害者が犯人に指示を仰ぎ、それを待つことはありえない。
地方すなわち市町村が、危機に際して独自に判断し、独自に行動しなければ、その現在も未来も、座して棄てることになる。
国は、そして県は、原理的に、地方に「犠牲」を強いることはあれ、それを「守る」ことはない。
元来、そこにあるベクトルの構造は双方向ではなく、ほとんど単線であり、かつ「その場所」から思考するに逆向きなのだ。
だから、
郡山市の独自行動は、当然である。
川内村が、独自の判断でおこなった「全村避難」も当然であった。
いま、日本列島の危機にあって、「市町村の思考」が、頭をもたげはじめている。
願わくはこの動きが、列島の未来の希望であらんことを。
4月18日のブログの終りは「この項つづく」としていたのだけれど、ちょうどコメントをいただいて、それはまた内容の「訂正」をアナウンスしなければならない内容であったため、たしかにここに「つづく」のです。
コメントの返事にも書いたように、40年ほど前、先の戦争で中国に侵入した日本軍が「蒋介石没落」と壁に殴り書きして、中国人の失笑を買った、という逸話を読んでいて、また、かじった中国語の初歩では「没」meiが動詞を否定すると習っただけだったので、てっきり「没落」は「落ちない」とばかり思っていた、というお恥ずかしい話。
「没落」は、現代北京語や広東語でも「没落」の意であると、訂正しなければならない。
けれども誤りをただすことも、知見をひろげることもできる、ウェブメディアというのはまことにありがたい。
ポルトガルのことで、つづけようとしたのは、石橋湛山の「小日本主義」で、ナントカ大国でなくて結構という話。
それにひっかけた篠原孝さんの著書『農的小日本主義』を引き合いに出して、社会的ヒエラルキーの頂点に立つ巨大都市ではなく、地域に分散した「農的生き方」が、これからの日本列島のグランドデザインの根源に据えられるべきであると展開するつもりだった。
中央都市のエリートが引きずり回すグローバル資本と金融の世界は、未来という時間軸で、明らかに破綻しているからである。
また、それには、今回の被災を乗り越えたあかつきの「フクシマ」こそが、そのもっとも強靭なモデルとなる資格がある、と言うつもりでもあった。
ただ、そう公言するのは早計である。事態は予断を許さず、余震もつづく。
「乗り越え」られるべき障碍は巨大でかつ遠く、容易に先がみえるわけではない。
けれども、それは、かならず来る。
その日のために。
21世紀の日本の出版物で、地図と戦争のかかわりをおもな内容とするものに、本書以外では牛越昭(李国昭)著『対外軍用秘密地図のための潜入盗測―外邦測量・村上手帳の研究〈第1編〉』(2009年)や、小林茂編、『近代日本の地図作製とアジア太平洋地域』―外邦図」へのアプローチ』(同)があるが、これらは一般書ではなく、また、地図そのものを紹介したり、「読ん」だりするものではなかった。
本書はおもに著者が蒐集した旧版地図の現物にもとづいて、空襲や旧植民地の地名、軍事施設など、「戦争」とかかわるひとつひとつの記載をたどり、背後にある「事象」を語ったもので、解説は丁寧でわかりやすい。
サブタイトルに「描かれた日本、描かれなかった日本」とあるが、かならずしも「日本」だけを扱ったわけではなく、日本の旧植民地や「大東亜和共栄圏」の地図はもちろんのこと、さらにはベルリンやポーランドなどのヨーロッパにも触れる。
1945年の連合国軍によるベルリン空襲で出現したおびただしい量の瓦礫を、「瓦礫女」と呼ばれる戦場に赴いた夫を待つ女たちなどが少しずつ運び、築き上げた標高何十メートルという山が計8つ存在するという解説とその図は衝撃だ。東日本大震災の被災地の映像がただちに脳裏に浮かんだ。
戦時下の日本の地図でよく知られているのは、「戦時改描」という軍による「ウソ地図」や、空白部をもった地図であるが、実は米軍はより精確な地図を作成していて、改描や空白の効力は専ら国内、つまり「国民」向けだった。
いま、日本列島上の人々が切実に求めている「地図」すなわち「放射能汚染マップ」が、依然公表されず、むしろ「20キロ圏、30キロ圏地図」が「風評被害」の一因となっていることを考え合わせると、「戦時」と変わらぬ「地図」の「国内情報統制」があることに暗澹とするのである。
(2011年4月3日執筆。4月24日、中日新聞、東京新聞などに掲載)
福島第二原発の立地点として知られる福島県富岡町。
福島第一原発の南にある、人口約1万6000人の海沿いの町は、2011年の3月11日を境に無人の里と化し、4月22日からは災害対策基本法に基づく「警戒区域」(20キロ圏内)として、居住者の立入りも禁じられた。
常磐線富岡駅から一つ先に「夜ノ森」(よのもり)という駅がある。
国鉄民営化以降は、改札員さえ見かけないような寂れた感じの駅だけれど、切通された線路の両側は躑躅(つつじ)が植えられていて、季節になれば、東京の駒込駅のそれよりも見事である。
階段を上がって、改札を出て、雑貨店や喫茶店が1、2軒ある通りを右に曲がると、海岸沿いの陸前浜街道に下りる道となるが、そのL字型の通りの両側に、樹齢100年を超える桜の太い古木が、黒々と、およそ2.5キロメートルもならび立っている。
例年であれば、4月の10日前後、淡いピンクの花のトンネルが出現し、花の匂いが満ちる。
夜ノ森という名前とともに、それは忘れがたい光景であった。
桜は今年も咲き、そして散ったろうか。
灯りと音が消滅した町に、咲き誇る、ながい花の列を、誰か見たのだろうか。
富岡町の海岸線もまた、津波に襲われたのである。
けれどもその実際は不明とされていて、ネットでも新聞雑誌にも、富岡町の津波被災情報ほとんど見かけない。
サイトの「福島県の被害状況」では、「(1)人的被害 死者 2人 不明者 8人 重傷者 軽傷者 (2)避難者数 避難指示 避難勧告 自主避難 不明 (3)住家被害 全壊 半壊 一部破損 床上浸水 (4)非住家被害」とされていて、「重傷者」以降の数字が欠け、放置されているのである。
「東北地方太平洋沖地震・日本地理学会災害対応本部」の津波被災マップ作成チームの手になる、1:25000津波被災マップでも、それは同じであって、福島県の北端部以南については、「範囲外」扱いされているのである。
4月8日の当ブログで「削除」を表明したが、私は日本地理学会のこの「処置」は、なにものからも独立して真理を探究すべき「学会」として、「適切」ではなかったと思う。
だからすくなくとも、「ブログ」で「お詫び」をステートメントしたのは早計であった。訂正し、取り消すことにする。
日本地理学会災害対応本部津波被災マップ作成チームが、震災から1月半ほど経た2011年4月24日に至ってなお、「作業範囲は地震後に国土地理院が撮影し公開した空中写真の範囲のみとし」て、それ以外なんらのコメントなく、平然としているのはまことに情けないかぎりだ。
今日なおつづく被曝の危険性により、飛行機からの撮影データが得られないからといって、津波被災地が「大甕」以北だけだったわけではない。
データが粗くなったとしても、衛星画像からも解析はできるはずだ。
その場合、地形図のスケールがダウンしてもやむを得ない。それは誰でも納得し得る「段差」である。
しかし、「官」の提供情報に依存し、容易にできることだけをやって、その後は「空白」というのは、学問のありかたとしては失格だろう。
さらに言うならば、「学会」として情報を公開するなら、そこまでやらなければ、結果的に、政府・東電の原発被災地に関する「情報差別」に与したと見られても致し方ないのである。
「地図」情報とはそういうものだ。
地図の本質は「一覧性」と「網羅性」にこそある。
あってしかるべき情報の、網羅的な提示がなければ、そこに何らかの意図を読み取るというのは、地図学の常識である。
地図は、それを作成する者の意思や世界観を反映し、それを見る者の認識を限定、ないし支配する。
学は「官」外に、「野」にこそある。
桜は、人に見られることなく、咲いたのか。
今日では、国土地理院のホームページですら、下北半島から九十九里浜に至る、連続し、空白部のない「浸水範囲概況図」を発表している。
それを見れば、富岡町は富岡川の周辺の沖積地が浸水し、「夜ノ森」周辺には津波被災がおよばなかったことがわかる。
夜ノ森の桜は、無人の里に咲いたのである。
画家の中原淳一の姪、中原美紗緒さんは、昭和30年代に「フルフル」や「パリのお嬢さん」などのシャンソンを唄って一世を風靡した。
当時小学生だったが、その軽妙なリズムは今でも私の耳の底に、きれぎれに残っている。
曲のなかには、「ポルトガルの洗濯女」というものがあった。
元来はイベット・ジローが1952年にヒットさせた曲で、作詞はロジェ・ルケシ、作曲はアンドレ・ポップ という。
前世紀前半、ポルトガルは「弱小国」で、独裁政権下にあったけれども、第二次世界大戦では賢明にも中立を保った。
それほどの弱小国ではないけれど、スペインも同様で、結局イベリア半島には、その戦火が及ばなかった。
だから戦後しばらくは、そして今でも、古いヨーロッパが遺されているイメージがあり、村の小川で女たちが群がって洗濯している、というような情景が歌になったのだろう。
20年ほど前、仕事でスペインのマドリードに行き、通訳をお願いした人(旦那がスペイン人で、小学生の男の子がいた)と日本について話をしていた時、ふと思い出して「日本がアジアのポルトガル化するという未来図を描くひとがいるが・・・」と言ったら、大変に嫌がられた。
スペインではポルトガルは隣国なのに(隣国だからか)、ずいぶんと見下げられているものだと思った。
ポルトガルは、大航海時代にはヨーロッパの輝ける星で、アジアの果ての日本にまで進出し、スペインと世界の富を二分したものだが、今では没落してヨーロッパの田舎となった、というわけだ。
そうしてこの4月はじめポルトガルは、EUのなかで、ギリシャとアイルランドにつづく3番目の財政破綻国となった。
話は大分時代をさかのぼるが、ポルトガルの首都リスボンは16世紀(1531年)と18世紀(1755年)の2回にわたり大震災にみまわれ、とりわけ1755年11月1に発生した地震では、火災と津波により壊滅。
死者数万人のうち1万人は津波によるものと伝えられ、ポルトガルの「失われた富」は莫大であった。
それが「没落」の直接原因というわけではないだろうが、大きな影響をおよぼしたことは間違いない。
リスボン大震災は、自国のみならず当時のヨーロッパの政治、そして宗教や思想に直接の刻印を遺し、その代表例がヴォルテールの『カンディード』やイマヌエル・カントの「崇高」という概念だといわれる。
いずれにしてもポルトガルは18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの「大国」から「小国」に転じたことだけは確かなことがらであった。
私が言いたいのは、日本はこれからアジアの「小国」ではなくとも、すくなくとも「アジアの中国」になるのは必然だ、ということ。そうして、「賢明な中国」になるべきである、ということだ。「没落」ということであれば、たしかに「没落」である。
しかし、現代中国語で「没落」とは「落ちない」という意味である。
地震と津波、原発事故を経た私たちは、賢明でさえあれば、これ以上「落ちることはない」のだ。
(この項つづく)