Archive for 11月, 2015

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『 Portraits in Africa ポートレイト・アフリカ 』 ―松井正子写真集―

松井正子著 ISBN978-4-902695-26-7 C0072
A4判ヨコ長 84ページ 本体2500円+税

撮影:アンゴラ共和国(ルアンダ・ロビト・ベンゲラ)、モザンビーク共和国(ベイラ・ケリマネ・テテ)、ジンバブエ共和国(ハラーレ・ムタレ・チマニマニ)

著者紹介
松井正子(まつい・まさこ)
東京都生まれ、上智大学卒。
ワークショップ荒木経惟教室で写真を学ぶ。
写真展「海からの影―ポルトガル」「遠い写真―モザンビーク・アンゴラ」「バルト」「O Sul―南へ」「Os Lusiadas」「Brasil・Brasil」「約束の場所」。
写真集『遠い眼差し』等。

著者のことば
 ポルトガルとブラジルの写真を撮り続けていたが、最終的にポルトガル領だったアンゴラとモサンビークを撮影したいと思っていた。初めて訪れた1989年当時は、日本との国交はなかった。両国ともに長い民族運動の後、ポルトガル本国での革命運動を契機に1975年に独立を達成。しかし南アフリカに支援された反政府勢力との泥沼のような内戦がはじまった。内戦は、南アフリカのアパルトヘイト関連法が全廃された年である1991年のアンゴラ包括和平協定、1992年のモザンビーク包括和平協定の調印まで続く。そのため、多くの難民が隣国に押し寄せていた。そのような状況で行くことは叶わないだろうと諦めていた時、国交のあったジンバブエからモザンビークに向かうテレビクルーがおり、便乗させてもらうことにした。
 最初に向かったジンバブエには、たくさんの難民キャンプに難民が増え続けていた。また、英国から独立の際、北朝鮮が支援した経緯があった関係で、在ジンバブエ日本大使館には日本赤軍派活動家の顔写真が貼られていた。当時は混乱が少なく比較的穏やかな時期であった。
 次に訪れたモサンビークでは、ほとんどのインフラが破壊されていた。通信、交通の手段が極めて少なく、電話ができるということがいかにすばらしいことかを再認識した。首都マプトには戦火で親をなくしたストリートチルドレンが大勢いた。
 子供たちに絵を教えているマランガターナという画家がいると出発前に聞いたので画用紙とクレヨンを持参した。日曜日に絵を教えている場面に立ち会うと、大勢の子供たちが自由に地面に棒で線をひき、石や枝や、落ちているものを使い、絵を描いていた。絵はすべてを奪われても描けるのだ。絵の概念が画用紙・クレヨンに直結する自分の頭の貧困さを思い知った。2004年にトリノの大学でモザンビークから来た大学院生に会った折、マランガターナを知っているかと聞いたら、今は美術学校の教授になっており活躍していると話してくれた。その後、2011年1月に75歳で逝去し、モザンビークを代表する画家として国葬された。

 最後にアンゴラに向かうことになるが、入国には厳しく、入国許可は事前にはだせないが、来たければとにかくルアンダ空港に来るようにと言われ、この機会を逃したらもう二度と行けないのではと思い、向かった。ハラーレ発の飛行機で夕方ルアンダに降りた人たちは既に入国し誰もいなくなった。入国審査官1人しかいない空港に放置された。静けさの中、持参した蚊取り線香を焚き、ハラーレで買ったウィスキーを飲んでいた。明日の飛行機で戻らねばならないかと考えていると、日付が変わり、やっと情報省からの許可があり入国できた。経験のない旅の始まりだった。
 アンゴラは撮影制限が厳しく自由に動くことが困難だった。無断で撮影した人が捕まったばかりだから注意するようにと南アフリカから来たBBC放送のカメラマンに教えられた。思うように動けないでいると、明け方、突然に情報省からベンゲラにいけることになったから空港にくるようにと電話がある。しかし、空港で待っていたのは、兵士が向かい合って座る戦闘機であった。反政府軍に占拠された上空を通っていくため、兵士たちの表情は皆硬い。自分にはその恐怖をイメージする事ができなかったのは幸いであった。
 街では子供たちは、どこでもボールの替りにぼろ布を丸めサッカーに興じていた。野球をしている人たちがおり、珍しいのではないかと尋ねると彼らはキューバから来た兵士だと言われた。また、驚いたことは、この国交さえない国に住友商事や小松製作所などから駐在員が派遣されていたことだ。企業戦士の一つの意味を理解した。彼らから、通常の買い物は、アンゴラ通貨が価値をなさず、ドルで買ったビールが通貨がわりになっていると聞いた。これらの国々でカメラを向けた人々は、エネルギーがあり不思議な力強さがあった。
 この写真集は、アフリカで撮影した写真をポートレイトという視点でまとめた。どこの国であれ、どのような状況であれ、日々の営みを繰り返し生きる人々がいる。その眼差しを受け止めた。写真は、必ず対象があることから始まる。私が見ているが、私は見られているという対等の関係。シャッタースピードと同じ一瞬の接点の中、人に内包されるエネルギーが閃く。

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新 刊  東京の縄文学

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『東京の縄文学 ―地形と遺跡をめぐって』 
安孫子昭二著 ISBN978-4-902695-27-4  C3021 A5判 296ページ
カラー口絵4ページ 本体2800円+税

「縄文人はなぜ八丈島に渡ったか」から、「奥多摩の石器製作」まで、全37話。

島嶼部から都心部、武蔵野台地、丘陵地、山地へ。
発掘現場とその報告書をたどりつつ明かされる、先人たちの知られざる知恵とその足跡。

カラー口絵、図版、地図多数、東京の縄文土器編年表、参考文献、索引付

安孫子昭二(あびこ・しょうじ)
1944年、山形市生まれ。國學院大學文学部史学科卒業。博士(歴史学)。
多摩ニュータウン遺跡調査会・東京都教育委員会・大成エンジニアリング株式会社を経て現在に至る。著書『縄文中期集落の景観』『縄文時代の渡来文化』(共編著)。

目 次
■第1章 島嶼の縄文遺跡
第1話・縄文海進と噴火のはざま(大島町下高洞遺跡)/第2話・縄文人はなぜ八丈島に渡ったのか(八丈町倉輪遺跡)◇コラム1・神津島の黒曜石
■第2章 都心の縄文遺跡
第3話・海中から出土した縄文土器(港区汐留遺跡)/第4話・荒川流域の海進と巨大貝塚(北区清水坂貝塚・中里貝塚)第5話・目黒川流域の前期貝塚(品川区居木橋遺跡)/第6話・再開発で発見された貝塚(大田区雪ヶ谷貝塚)/第7話・貝塚発見の経緯をさぐる(荒川区延命院貝塚)蔵台遺跡)/第8話・大森貝塚発掘再考(品川区大森貝塚)/第9話・岬に所在する貝塚とその領域(港区西久保八幡貝塚と愛宕下遺跡)/第10話・貝塚が移転する話(文京区御茶ノ水貝塚)/第11話・皇居内で発見された縄文貝塚(千代田区旧本丸西貝塚)/第12話・妙正寺川流域の環状集落(新宿区落合遺跡)/第13話・都心に残されていた縄文集落(渋谷区鶯谷遺跡)/◇コラム2・“新宿に縄文人現る”
■第3章 武蔵野の縄文遺跡
第14話・1万5千年前のサケ漁(あきる野市前田耕地遺跡)/第15話・9千年前の環状集落(府中市武蔵台遺跡)/第16話・連弧文土器の由来(国分寺市恋ヶ窪遺跡)/第17話・大形石棒4本が出土(国立市緑川東遺跡・立川市向郷遺跡)/第18話・土器作りの謎を解く細密編布痕(府中市本宿町遺跡)/第19話・多摩川低地の後期集落(日野市南広間地遺跡)/第20話・後期の集団墓地(調布市下石原遺跡・町田市野津田上の原遺跡)/第21話・晩期の特殊な祭祀遺構(調布市下布田遺跡)◇コラム3・野川流域の「湧泉」と縄文遺跡
■第4章 丘陵地の縄文遺跡
第22話・震災の跡(町田市小山田13遺跡・TN200遺跡)/第23話・多摩丘陵の大形住居跡群(多摩市和田西遺跡)/第24話・中期集落の3形態(八王子市TN N0.72 ・ 446 ・ 446-B 遺跡)/第25話・東京ではじめて発掘された環状集落(八王子市神谷原遺跡)/第26話・土偶が大量に出土(稲城市TN No. 9遺跡)/第27話・粘土採掘と土器作り(町田市TN Na 248・245遺跡)/第28話・境川流域の拠点集落(町田市忠生AI遺跡)/第29話・中期末から後期の霊場(八王子市小田野遺跡)/第30話・切目石錘で編布を編んでみる(野津田上の原・八王子市深沢遺跡)/第31話・縄文土器はなぜ変化するのか(町田市鶴川M遺跡・稲城市平尾9遺跡)/第32話・東京のストーンサークル(町田市田端遺跡)/第33話・晩期の拠点的大集落(町田市なすな原遺跡)/第34話・漆工芸の集落(東村山市下宅部遺跡)/◇コラム4・AMS炭素年代測定値の暦年較正の問題
■第5章 山地の縄文遺跡
第35話・関東山地の狩り(檜原村中之平遺跡)/第36話・多摩川上流の中期集落(青梅市駒木野遺跡)/第37話・奥多摩の石器製(奥多摩町白丸西の平・海沢下野原遺跡)

◇東京の縄文遺跡編年表

あとがき/参考文献/索引

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ロダンの首・信長の首

ロダンの首泰山木は花得たり

角川書店創業者角川源義(げんよし)の代表句のひとつである。
泰山木(たいざんぼく)は角川邸が完成した時に、俳壇の先輩や仲間から送られたものという。
初夏、それは頭上に戴くような、大きな白い花を咲かせる。
ロダンの首は源義愛蔵のブロンズ像。
ふたつが揃ったのは南荻窪に新築した角川邸。
今の荻窪三丁目のすぎなみ詩歌館角川庭園である。

それ以前、角川一家は荻窪駅から北の天沼に住まっていた。
そこで長男春樹やその弟の歴彦、姉の真弓(辺見じゅん)の実母冨美子が離縁されたのは1947年。
源義が愛人の照子と再婚するのは1949年。
1947年天沼では惨劇がおこり、源義の実名も新聞記事になった。
照子が、思い余って源義との間にできた男の子を殺してしまったのだ。

源義はひるまない。
妻を照子に替え、冨美子との子どもたちも詐欺まがいの手口で確保する。
社業は隆々、源義は前進する。
首に似たる大輪の花を得たのだ。
しかし源義の淫蕩はとどまらない。
源義と照子の間にできた春樹たちの異母妹真理は自殺。享年18。
源義はその5年後に53歳で病死する。
入院中に皇室からも、なにがしかの見舞いがあったはずである。

春樹が生きる道は、父と眷属とを神話化し、己を権力に係属することにしかなかった。
しかし時に身心の底辺から、激しい反発力が生起する。

向日葵や信長の首切り落とす

春樹のこの句は、弑(しい)すべき魔王としてのオイデプス(父)の輝かしさと重たさ、そして振り向きざまの刃物の光りと音なしの叫びを、同時に刻印したのである。