8月 23rd, 2018
森鷗外『雁』の虚実
ここ2、3年は学生の成績評価登録を終えようやく夏休み、と思う間もなく忙しくなる。
早稲田大学エクステンションセンターの社会人講座も引き受けていて、そちらの方の準備が学生相手とは別の面で気が抜けないからである。
リピーターも多く、素材の「使いまわし」で済ませているわけにはいかない。
その講座も昨日で漸く一段落。
来週あと1回を残すが、それは見学会としているので気持ちに余裕がある。
ところで、昨日の講義で言い残したことを思い出した。
以下はその要点である。
故前田愛は『幻景の街 -文学の都市を歩く』(1986)のなかで森鷗外の小説作法について、鷗外自身が『青年』のなかで使った「測地師」という言葉を援用した後「「地図小説」という言い方が許されるなら、近代小説のなかでも『雁』ほど見事な「地図小説」はちょっとほかに例がない」と言い、「『雁』の鉄筆で刻んだような正確無比の描写」という言葉で「森鷗外『雁』不忍池」の章を締めくくった。
前田はこの章で、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図原図」について「地図の宝石」とも言っており、地図と文学のあわいを愛好する者にとっては逸することのできない文章なのだが、地図はさておき鷗外こと森林太郎について、彼が生前から「文壇の神」に祭り上げられ今なおそこから脱し得ないのは、われわれ自身が囚われている近代の虚構があるからだと、私は思っている。
『雁』の主人公は「かこいもの」であるが、当該作品はもちろん虚構、つまりつくりものである。
作者の手際が「正確無比」のように見えるのは、こぼれ落ちている虚構ミスや韜晦が「神様」のご威光に隠れて気づかれないからだろう。
前田愛はテクスト論、記号論を駆使し、文芸評論で目覚ましい活躍を示したが、とりわけ対位法を多用した記号論の手際は、大変にわかりやすくまた面白いものがあった。
しかしながらそれだけに、スタティックな構図に終始し、それを固定する危険性をもはらんでいたのである。
近代初頭まで不忍池に飛来し、小説のもう一人の主人公岡田の投げた石に当たって死んだとされたガンは、マガンとみて間違いない。マガンはガン類のなかでは中型の鳥だが、ニワトリやアヒルよりもずっと大型で、体重もある。例えて言えば、そのへんのイヌ、ネコより大きいのである。
余分なことだが15年ほど前、編隊飛行する大型の鳥類を見掛けて、東京にもガンがもどってきたと言った者がいたが、それは無知のなせる失言であった。草食のガン・カモ類が、湿地や水田の一掃された東京とその周辺に生息できるわけはないのである。雁行するのは、近年猖獗をきわめる肉食のカワウであった。
さて、イヌ、ネコより大型の鳥獣を、小説『雁』の終末で書かれているように一回の投石で斃すのは可能であろうか。
いかに「当たりどころが悪かった」と言っても、小説の虚構としては不自然にすぎる。
まして対象は、池水の表面に浮いている水鳥である。
投石した主人公の岡田は競漕(現在の競艇)の選手ということになっているが、砲丸投げの選手が砲丸を飛ばしたという設定なら、あるいはガン狩りも可能であったかもしれない。
さらに言えば、不忍池の端で鳥獣殺傷用の手ごろな「石」をみつけるのはそう簡単ではなかったはずだ。
いつも指摘していることだが、江戸東京のとりわけ中心部は地下2000~3000メートルまで砂泥と火山灰の堆積物でおおわれているため、古墳の石室や石垣の素材はもちろんのこと、墓石から漬物石まで、通常は「他国」から水路を運んできたものが用いられたのである。
河原の玉石は、多摩川の中流ではじめてお目にかかれる。
不忍池の周辺をめぐる小道に砂利が敷いてあった可能性もなきにしもあらずだが、それくらいの石ころでガンを殺傷できるとは考え難い。
小説『雁』のタイトルにもなっている末尾のエピソードがこうした不自然でなりたっていたとすれば、その最終端部(弐拾肆)では鷗外は一字ばかりのミス、しかし「地図」としてはきわめて重大な誤りを犯し、文を破綻させていた。
すなわち無縁坂に「無限の残惜しさ」を現わして立っていたお玉の前を通り過ごした後、「三人は岩崎邸に附いて東へ曲る処に来た。一人乗りの人力車が行き違うことの出来ぬ横町に這入るのだから、危険はもう全く無いと云っても好い」状況に至ったのだが、この「東へ曲る」は「南へ曲る」でなければつじつまが合わない。
これは前田愛が絶賛してやまない「五千分一」図を見ればすぐわかることである。「鷗外の正確無比」は神話である。
編集者や読者は、神様が相手だとつい「やりすごして」曖昧化し、そのご威光を曇らせるのを遠慮するが、不自然は不自然、間違いは間違いである。
こうしたことは、鷗外本にかぎらずほかの神様本でもよく見かける。
そうして近年では、神様どころか魑魅魍魎、狐狸河童の類のお手軽本が、カラー図版や美装丁の下にぼろを下げながら大手を振ってまかり通っているのである。
『雁』は「お妾小説」である。その系譜は四半世紀後の矢田津世子の「神楽坂」まで一直線に引かれる。
鷗外こと森林太郎はマザコンであった。
その母峰子は長男林太郎の初婚を左右し、離婚後は妾をあてがい、林太郎が40を越した時に18歳年下の再婚相手を探してきさえした。
林太郎はそれに応ずるほかなかったのである。
そうして『雁』の主人公お玉をかりて書きつけたのは、自身にとってのイデアルな(理想の)「妾」の姿でもあった。
西欧の思潮に通じ、自宅近くの青鞜社のメンバーとも交流のあった林太郎は、自分の「お妾小説」に精一杯「余韻」を施したが、その底意は明らかである。
それは「(女性の解放や自立と言っても)そんなにうまくことははこばないよ」というメッセージで、それ以外ではなかった。
林太郎は、自身が晩年まで家付き娘であった母の政治力の下にあったし、また脚気論争でも研究の趨勢を知りながら陸軍病原菌説の頭目として最後まで反論を圧伏しなければならず、実際そうしたのである。林太郎の心の屈折と闇、そして罪は深いのである。