Archive for 8月, 2018

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森鷗外『雁』の虚実

ここ2、3年は学生の成績評価登録を終えようやく夏休み、と思う間もなく忙しくなる。
早稲田大学エクステンションセンターの社会人講座も引き受けていて、そちらの方の準備が学生相手とは別の面で気が抜けないからである。
リピーターも多く、素材の「使いまわし」で済ませているわけにはいかない。

その講座も昨日で漸く一段落。
来週あと1回を残すが、それは見学会としているので気持ちに余裕がある。
ところで、昨日の講義で言い残したことを思い出した。
以下はその要点である。

故前田愛は『幻景の街 -文学の都市を歩く』(1986)のなかで森鷗外の小説作法について、鷗外自身が『青年』のなかで使った「測地師」という言葉を援用した後「「地図小説」という言い方が許されるなら、近代小説のなかでも『雁』ほど見事な「地図小説」はちょっとほかに例がない」と言い、「『雁』の鉄筆で刻んだような正確無比の描写」という言葉で「森鷗外『雁』不忍池」の章を締めくくった。

前田はこの章で、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図原図」について「地図の宝石」とも言っており、地図と文学のあわいを愛好する者にとっては逸することのできない文章なのだが、地図はさておき鷗外こと森林太郎について、彼が生前から「文壇の神」に祭り上げられ今なおそこから脱し得ないのは、われわれ自身が囚われている近代の虚構があるからだと、私は思っている。

『雁』の主人公は「かこいもの」であるが、当該作品はもちろん虚構、つまりつくりものである。
作者の手際が「正確無比」のように見えるのは、こぼれ落ちている虚構ミスや韜晦が「神様」のご威光に隠れて気づかれないからだろう。

前田愛はテクスト論、記号論を駆使し、文芸評論で目覚ましい活躍を示したが、とりわけ対位法を多用した記号論の手際は、大変にわかりやすくまた面白いものがあった。
しかしながらそれだけに、スタティックな構図に終始し、それを固定する危険性をもはらんでいたのである。

近代初頭まで不忍池に飛来し、小説のもう一人の主人公岡田の投げた石に当たって死んだとされたガンは、マガンとみて間違いない。マガンはガン類のなかでは中型の鳥だが、ニワトリやアヒルよりもずっと大型で、体重もある。例えて言えば、そのへんのイヌ、ネコより大きいのである。

余分なことだが15年ほど前、編隊飛行する大型の鳥類を見掛けて、東京にもガンがもどってきたと言った者がいたが、それは無知のなせる失言であった。草食のガン・カモ類が、湿地や水田の一掃された東京とその周辺に生息できるわけはないのである。雁行するのは、近年猖獗をきわめる肉食のカワウであった。

さて、イヌ、ネコより大型の鳥獣を、小説『雁』の終末で書かれているように一回の投石で斃すのは可能であろうか。
いかに「当たりどころが悪かった」と言っても、小説の虚構としては不自然にすぎる。
まして対象は、池水の表面に浮いている水鳥である。
投石した主人公の岡田は競漕(現在の競艇)の選手ということになっているが、砲丸投げの選手が砲丸を飛ばしたという設定なら、あるいはガン狩りも可能であったかもしれない。

さらに言えば、不忍池の端で鳥獣殺傷用の手ごろな「石」をみつけるのはそう簡単ではなかったはずだ。
いつも指摘していることだが、江戸東京のとりわけ中心部は地下2000~3000メートルまで砂泥と火山灰の堆積物でおおわれているため、古墳の石室や石垣の素材はもちろんのこと、墓石から漬物石まで、通常は「他国」から水路を運んできたものが用いられたのである。
河原の玉石は、多摩川の中流ではじめてお目にかかれる。
不忍池の周辺をめぐる小道に砂利が敷いてあった可能性もなきにしもあらずだが、それくらいの石ころでガンを殺傷できるとは考え難い。

小説『雁』のタイトルにもなっている末尾のエピソードがこうした不自然でなりたっていたとすれば、その最終端部(弐拾肆)では鷗外は一字ばかりのミス、しかし「地図」としてはきわめて重大な誤りを犯し、文を破綻させていた。
すなわち無縁坂に「無限の残惜しさ」を現わして立っていたお玉の前を通り過ごした後、「三人は岩崎邸に附いて東へ曲る処に来た。一人乗りの人力車が行き違うことの出来ぬ横町に這入るのだから、危険はもう全く無いと云っても好い」状況に至ったのだが、この「東へ曲る」は「南へ曲る」でなければつじつまが合わない。
これは前田愛が絶賛してやまない「五千分一」図を見ればすぐわかることである。「鷗外の正確無比」は神話である。

編集者や読者は、神様が相手だとつい「やりすごして」曖昧化し、そのご威光を曇らせるのを遠慮するが、不自然は不自然、間違いは間違いである。
こうしたことは、鷗外本にかぎらずほかの神様本でもよく見かける。
そうして近年では、神様どころか魑魅魍魎、狐狸河童の類のお手軽本が、カラー図版や美装丁の下にぼろを下げながら大手を振ってまかり通っているのである。

『雁』は「お妾小説」である。その系譜は四半世紀後の矢田津世子の「神楽坂」まで一直線に引かれる。
鷗外こと森林太郎はマザコンであった。
その母峰子は長男林太郎の初婚を左右し、離婚後は妾をあてがい、林太郎が40を越した時に18歳年下の再婚相手を探してきさえした。
林太郎はそれに応ずるほかなかったのである。

そうして『雁』の主人公お玉をかりて書きつけたのは、自身にとってのイデアルな(理想の)「妾」の姿でもあった。
西欧の思潮に通じ、自宅近くの青鞜社のメンバーとも交流のあった林太郎は、自分の「お妾小説」に精一杯「余韻」を施したが、その底意は明らかである。
それは「(女性の解放や自立と言っても)そんなにうまくことははこばないよ」というメッセージで、それ以外ではなかった。

林太郎は、自身が晩年まで家付き娘であった母の政治力の下にあったし、また脚気論争でも研究の趨勢を知りながら陸軍病原菌説の頭目として最後まで反論を圧伏しなければならず、実際そうしたのである。林太郎の心の屈折と闇、そして罪は深いのである。

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再掲 -つくり本・ぱくり本

前回のブログでも触れたが、ますます猖獗をきわめる地図・地形の阿呆イベントやマニア増殖に鑑み、以下再掲する。

最近私と地図の関わりを知っている同郷の知人から『地図で楽しむすごい宮城』(Y社)という本が送られてきて一見。
好意で送ってくれた当人には悪いが、出版界もついにここまで来たかと思った。
都道府県研究会著、2018年5月刊、というオールカラー本である。
この手で全国都道府県47冊つくり、そこそこに売れて利益も出せるのだろう。
この本は以下に述べるように「つくり本」であり、「ぱくり本」の典型でもある。

しかしそれ以前に、「宮城」という語が平然と使われていることには笑うほかない。
「宮城」や「東北」などという地名は、福島や岩手、青森同様、近代史において「白河以北」(奥州)を貶めるため、薩長政府によって意図的に布置された差別語である。
そのことに無知のまま「すごい」を謳う地理・歴史本は、愚物以外の何物でもないのである。

(以下再掲)
「つくり本」とは私の用語だが、著者(もしくは編者)が個人名として明記されておらず、著作責任の曖昧ないし不在の本のことである。出版社の編集者が単身または社内の何人かで分担執筆したり、知り合いのライターに丸投げしてつくった本、と判断してよい。
要は著者に支払うべき「印税」をかぎりなくゼロとしてチープに、著作のために必要な「時間」を最大に圧縮してインスタントに、つくるから「つくり本」なのである。印税分の何割かは印刷にまわせるから、オールカラーというような芸当も可能である。「見てくれ」と理解の安直さで売り部数を上げるテイの本だが、それがここ十数年書店店頭に文字通り溢れかえっている。
一昔前までは、その筋の権威の「監修」や「編集」本ないしはそのシリーズを結構目にすることがあった。オーソリティの崩落した現在ではあまり流行らないが、これもつくり本の一種であった。つまり「その筋」は名前を貸すだけなのである。
だから「責任編集」などという笑えない言葉も誕生した。しかし今日の日本列島ほど、安直なつくり本が大手を振って跋扈している光景は他にないと言っていい。
著作責任が曖昧ないし不在であるのはもちろんのこと、コピー&ペーストでつくりあげるから、「参考文献」も適当に巻末に挙げておくだけ、ないしはまったく掲げることもない。つまり資料批判や先行業績へのリスペクトも、ほとんどが欠落することになるのである。
オリジナルな先行業績をわざと紹介せず、または曖昧にして、その本自体が根拠となるかのように書かれている「朦朧本」もよく目にする。こうなると「つくり本」というより「ぱくり本」で、近年ネットの連載をそのまま本にしたようなものが増えているが、その多くはこの範疇に入る。ぱくり本には、堂々と著者名を明記しているものもあるが、それは「本」というものの本質が、出版社や編集者においてすら忘れられているからである。結局のところ「編集」とは名ばかりで、テキスト・チェックの過程が存在せず、本を垂れ流すための製造過程の一部と化しているのである。
昨今における、こうした駄本の洪水のような現象の背景には、戦後日本の出版流通システム、すなわち大取次制度の負の面が作用している。とにもかくにも売れそうな、つまり柳の下のドジョウを作り上げて取次に押し込んでしまえば、とりあえずは「金」になるという現実が存在する。
もちろん「返品」との競争になるが、出版の経営者や社員の大部分は、この「取次一時金」をあてにした自転車操業システムと縁を切る、ないしはそこから降りることはできないと思っている。
これは今に始まった現象ではないが、出版不況が深刻化すると売上を確保するために、こうしたつくり本は激増する一方となるのである。
「本」が文化の基底となったのは、まずはその物質性、固定性に拠るのである。つまり思考の物的な「根拠」ないしは「証拠」となり得るからである。デジタル情報は可塑的というより流動的で長期保存は不可能であり、一時的な記録には好都合だがそれ以上のものではない。
「一時金」のためのその場しのぎの「本」づくりは、「出版」の根拠を自ら掘り崩すような行為であり、自殺行為と言ってもよい。
つくり本やぱくり本のほうが売れ、あるいはその著者のほうが名を知られるなら、調査と思考に時間をかけたオリジナルな本の執筆者はバカをみる。そうした文化の基底の溶解過程は、ネット情報の虚妄にさらに拍車をかける。
だから、すくなくともそれなりの図書館、そして読者においては、こうした「つくり本」や「ぱくり本」は選書や購入候補から外す、という見識ないし良識をもたないかぎり、戦後日本の「出版文化」、いや「文化」そのものも総体として墜落するしかないのである。

現今の日本列島の愚かさは、
①ハンコ(印鑑)
②戸籍
③元号
に象徴される。

これら日本列島に流通する特異事象は、「世界の非常識」である。
とりわけ①については象牙にかかわり、日本という極東国家は現代ゾウ絶滅の最大の元凶である。

あとは言わずもがな。
なくていいもの、とりわけ「お役所」およびそれに準じる部署のの許認可権を増幅するこうした贅肉は阿呆のしるしである。
戸籍制度は世界にも珍しい。
ヒト家畜でなく、血統は問わないのだから、住民登録で十分である。
元号も言わずもがな。「一世一元の制」は、薩長が発明した「近代天皇制」の虚構のひとつであって、「時間のひとりよがり」以外の意味はない。歴史的にも、天皇一代と元号は決して対応せず、それは人間ではなく暦、ひいては天文の属域にあった。
現代はもうすぐそうではなくなる「平成時代」では決してない。現代は、江戸時代につづく「東京時代」である。
しかしその「東京時代」「東京帝国」も、そろそろ終わりを告げようとしている。
私の『江戸の崖 東京の崖』は、そのことを伝えようとした本なのだが、「地形の本」としか解釈できない、ブラタモリ流の素人地形地誌マニアの阿呆が多すぎるのだ。