7月 31st, 2007
古地図巡礼 map pilgrimage
紅葉川(もみじがわ) 現・新宿区四谷四丁目、同富久町、同市谷本村
梅雨に入って間もない土曜日の夜中。用事のある赤坂は一ツ木通りまで、新宿区役所前から歩いて行くことにしました。できるだけ歩く機会をつくろうと考えていたことも確かですが、要は若い頃の酔狂が頭をもたげたのでした。4キロメートル余りといえばたいした距離ではありませんが、交通機関の縦横に発達した都心部を、深夜にひとり何十分か歩く機会はめったにあるものでない。傘を片手に、快調にとばしたのは靖国通りではなくて、その一本北側の東京医科大学前を通る「医大通り」。狭い道ですが、東半分は富久町の信号のある交差点に下る坂で、その名を「禿坂」(かむろざか)という、と坂上に建てられた木の道標に書かれています。左上図の左下、横Y字状の谷の北の谷道が禿坂。図は明治13年測図、1:20000迅速測図「四谷」「麹町区」を接合したもの。
坂下には成女学園という高等学校があって、敷地は古そうな石垣で土留めされており、歩道からは学校が低い切通しの上にあるように見えます。此処は小泉八雲旧居跡でもある。角には小さな交番。と、その手前でかなりの弾力を感じ、片方の足が大きくすべりました。暗くてよく見えなかったのですが、それは大人の拳ほどもある蛙。どうも七、八匹はその辺に出張っていたようです。居るのですね。そして雨が降り、人の寝静まった時分には隠れ処から這い出してきて、車に轢かれることもある。「禿」とはこの子らのことを言ったものか、とも一瞬思いましたが、そうではない。石川悌二さんの『江戸東京坂道事典』には「禿坂などはその坂下に池沼や川などがあって、かっぱが出没すると信じられたものだ。かむろは河童の異名である」とあります。「禿」とは、「頭に髪のないさま」もしくは「髪を切りそろえて垂らした子ども」(『広辞苑』)で、どちらも河童のイメージに合致します。右上図は明治42年測図1:10000地形図「四谷」の一部。その正門傍らに小泉八雲の碑のある成女学園は現在も健在。その奥の寺「自証院」はかつて「瘤寺」と呼ばれた名刹。図中央右手の「安保邸」は男爵海軍大将安保清種邸。現在この付近の靖国通りを安保坂と呼ぶ。
実はこの富久町の交差点付近は「饅頭谷」という別名をもっていて、明治のはじめまでは二つの谷が合流し、現防衛省前を下って外堀に注ぐ「紅葉川」の一部でした。明治の10年代につくられた迅速測図(この項、一番上の図)にその流路が辛うじてとどめられています。さらに東へ下って外苑東通りの陸橋「曙橋」は、旧牛込区と四谷区の境界の紅葉川谷に架かる橋で、この谷に下る坂の名も「合羽坂」というのでした。ものの本によれば、ここには「蓮池」といわれる大池があり、獺(かわうそ)が棲んでいたと。さすれば河童は蛙ならぬ獺。ここから四ッ谷駅前を過ぎ赤坂に至るまでに、いくつか別様の夜中の生き物に遭遇したのですが、それについてはまたの機会に触れることにします。左上図は明治42年測図1:10000「四谷」より、図の左下から右手中央、外堀に注いでいた紅葉川主谷の痕跡(現在は靖国通りにとりこまれた)を示す。左下隅に多少折れながら左右に走っているのは現在の新宿通りだが、こちらは尾根道であることに注意。【『月刊Collegio』2007年7月号に併載】
■追伸:都市のなかの地形を実感するには、雨中歩行がお奨め。とくに台風時などで、歩道が谷川に変じているような場所に行き当たれば最高。往時の分水嶺や谷、そして湿地などが立ち上がってきます。ただし、くれぐれもすべったり事故をおこしたりすることがないようにご注意。