Archive for 6月, 2025

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宮城野と武蔵野 その2

多賀城の創建は神亀元年(724)で奈良時代初期、陸奥国府は仙台平野のほぼ中央(郡山)から北東約13キロほどの丘陵地帯に転移した。
それは『古事記』(712)『日本書紀』(720)成立の後、『万葉集』(759頃)ができる約35年前である。

以下、あらためて現在の20万分1図(地勢図。「仙台」2011年発行)とそれに対応する120年以上前の輯製20万図を並べてみる。
地勢図右端上寄りには3小点の名所旧跡記号と注記「多賀城跡」が記載されているが、そこは輯製図では人口500人以下の村「浮島」の西にあたるのがわかるだろう。

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上の輯製図では上辺にも2点鎖線の郡界がうねっており、線の北側は黒川郡、南は宮城郡で、初期の国府跡(郡山)は仙台平野のほぼ中央、名取郡北辺の低地(標高約8メートル)に所在していた。
対して、第二次国府多賀城は仙台平野を足下に南面し、北に向かってはさらに侵攻すべく築造された平山城であった。
そうして宮城郡とは、第二次国府多賀城を宮城(ミヤキ)と言い換えたそのエリア称なのである。
当然ながら生じる疑問は、なぜ「多賀郡」とされなかったのか、ということである。
それは辺境の地陸奥の原住民(蝦夷)に対する、朝廷政権の支配拡大すなわち侵略手法に関わることがらであった。

律令制の「公地公民」とは、近現代の「社会主義国家」にも通じる巧妙なイデオロギーで、その本質は「オホヤケ」(オホ:大+ヤケ:宅)、つまり最大権力による土地(食糧や物産)と人員(労役や兵役そして〈女〉性)の系統的かつ大規模な収奪制度である。
「公民」に馴染まず、対抗すら辞さない異族(蝦夷)に対しては、おそらく大陸帝国(中国)に倣ったのであろう、前線に「柵」を構築し、そこを拠点に各地の「公民」を集団移民させ(柵戸)、「公地」を拡大する大規模な拓殖策を推し進めた。
根も葉もなく言えば「公民」とは国家の奴隷であり、徴発された百姓は敵愾心を掻き立てられ兵士としても利用されたのである。
歴史教科書には防人(さきもり)ばかりがとりあげられるが、北方辺境は対蝦夷武装移民の前線で、投入された移民の数は膨大であった。
多賀の城柵構築以前、霊亀元年(715)だけでも、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野から1千戸が陸奥国に移されたという。
つまりその時点では、陸奥国の北辺は現在の宮城県域の半ばにあって、その北は蝦夷の地だったのである。

多賀城はその初期の呼称を多賀柵(たがのさく)と言ったが、それは常陸国多賀郡からの移民集団に因んだ故とされる。
動員が出身郡単位であったろうことは容易に理解できる。
常陸多賀出身集団が中心となって、城柵の建設とそのエリアの拓殖、兵役までを担ったのである。
いつの時代にも、権力に忠で異俗を敵視(ヘイト)する一定層は存在し、増減もする。
地名については、たとえ仮称であっても時が経てばそれが固定されて由来は忘れ去られ、むしろ移植地名が人口に膾炙する。
しかし新たな郡の命名にあたっては、重複もし、俗称でもあった「多賀」は用いられず、代わって案出された「ミヤ・キ」(宮城)が採用されたのである。

「宮」の字は複数の部屋をもつ家屋で、和語「ミヤ」の音も同様に美称「ミ」に「ヤ」、すなわち家屋を指したものにすぎない。したがって、神社を「オミヤ」(お宮)と言うのは美称を重ねた上塗り語であり、その存在は長く続いた自生文化の破壊と簒奪の象徴でもあった。
「城」は土篇で土塁や版築で囲われた場所だが、「キ」は木柵などで区切られた砦の意である。
いずれにしても「ミヤ・キ」とは中央政権の主要城柵指したもので、多賀柵は陸奥国の最初の平山城であった。
その「宮城郡」の文献初見は、『続日本紀』の天平神護2年(766)とされる。

武蔵野は国名に拠り、宮城野が郡名に由来するという違いはあるものの、いずれの「野」も中央政権の行政地名をもととしている点は注目されてよい。
以下、話は宮城野そのものに移行するが、その前に「ミヤ・キ」多賀城の立地状況を地形図で確かめておこう。

1904年測図、1907年製版の正式2万分1図「岩切」の一部である。
「多賀城跡」が丘陵先端標高約30メートルの地点に築かれ、七北田(ななきた)川の水田地帯を踏まえ、いつ設けられたものか不明だが大きな灌漑用溜池を背後に配していることがわかるだろう。
南の塩竃街道は標高約8メートルの低地を通り、その付近に置かれた多賀城外郭南門から多賀城政庁までの高低差は、20メートルを超えるのである。

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幸い、上掲地形図をつかって多賀城外郭の範囲と条里制地割を表現した「鎮守府・行政府としての多賀城」の挿図が『地図でみる 東日本の古代 律令制下の陸海交通・条里・史跡』(2012年)に掲載されているので、紹介しておこう。
図の範囲では、条里制水田は七北田川の左岸に営まれた。
その耕作者はもちろん、常陸多賀出身の移民たちであった。

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宮城野と武蔵野 その1

『武蔵野地図学序説』のあとがきに「宮城野は陸奥国分寺の近隣に生まれ育ち、転じて武蔵野に半世紀以上の生を託し、武蔵国分寺に因むエリアでこれを認めている」と書いて4ヵ月を過ぎた。
武蔵野(ムサシノ)について調べはそれなりに尽くしたつもりだが、いまさらに気になるのは宮城野(ミヤギノ)である。
そもそも「宮城」(ミヤギ)とは何か、一般に意識されることはない。

県名を「庁」所在都市名と異にするのは「官軍」に楯突いた結果という説は、概ね正鵠を得ている。
例えば「ミヤギケン出身者」がトーホクの鈍重な人格を思い浮かべるのに対して、「センダイ出身」では比較的軽快で都会的なイメージにシフトすることでも判然するだろう。
序(ついで)に言えば「東北」すなわちトーホクないしトーボクが、方角ではなく本州の一定エリアを指す言葉になったのは明治期以降であって、かつてその北東部に「陸奥」(奥州)あるいは「ミチノク」(道奥)以外の謂いは存在しなかった。
「大化の改新」で列島北辺に設置されたクニの称は「道奥国」で(後に陸奥国に変更)、その範囲も現在の宮城県南端部までであった。国名通り、ミ・チ(官道)はそこまでしか通じていなかったのである。

いささかの畏怖をもって遇されていた奥州は奥羽越列藩同盟の崩壊と敗北により東北と一括され、被差別的イメージを基調とすることになった。
そこは都「東京」の後背地にして資源(人と食料、原材料)の供給地あるいは収奪地以外ではなくなったのである。
歴史の画期には、呼称と表記の置換が存在する。

2011年3月11日の東京電力福島第一原子力発電所の事故は、トーホク(という称)の差別的構造すなわち従属性ないし植民地性をあらためて浮き彫りにしたと言えるだろう。
したがって歴史的に限定された性格をもつ用語トーホクを忌避する人間もいれば、能天気か敢えてか知らないがそれを看板に据える者もいる。
筆者は前者に与し、「東北学」の提唱者やその同調者は後者の例である。
「遅れた」地域が征服され植民地化されるプロセスが「歴史」であるとすれば、それはすでに奈良時代以前からはじまっていたわけだが、征夷大将軍が不要となった近代はその完成期である。

「宮城」は現仙台市のエリアを含むかつての郡名であるが、そもそもは中央政権の陸奥エリア征服拠点すなわち「ミヤ・キ」である。
陸奥のキ、多賀城は西側の官道(東山道)終点と東の海湾の中間に位置し、威圧する高台に設けられ、それは国府を兼ねた。
しかし初期の陸奥国府は、太平洋沿岸航路から仙台平野に上陸(閖上 ユリアゲ)する水路名取川とその支流広瀬川の交叉後背低地にあった。
東北本線長町駅と太子堂駅の東側、現仙台市太白区郡山である。その郡山地区の西側に、後期旧石器から弥生時代までの時代幅をもつ巨大な富沢遺跡が盤踞しているのは偶然ではないだろう。

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図は輯製20万分1「仙台」(1888年輯製製版)の一部で、仙台平野の中央、2つの中河川(名取川、広瀬川)に挟まれた初期陸奥国府に由来する「郡山」の位置がよくわかる。
郡山とは古代の郡衙に因む地名で、初期国府の跡には名取郡衙が置かれたのである。
輯製20万分1図は、近代の日本列島を統一縮尺ではじめて網羅した地図群で、1893年に全153面で完結した。明治期に「参謀本部の地図」といえば、この地図群を指していたのである(泉鏡花『高野聖』冒頭)。

広瀬川挟んで郡山から北へ約6キロメートル、「宮城野」は「宮城野原」と記載されている。
宮城野が宮城野原に屈折した契機は措いて、右端中央下寄り、「荒浜」の南から北西に延び、広瀬川の中央を通って太白山の東へつづく二点鎖線は郡界で、線の南は名取郡、その北は宮城郡である。

「輯製二十万分一図図式」(1887年輯製製版、1888年修正)によれば、仙台市街の北に記入された二重線の楕円は「府県庁」、その下の二重線円は「郡区役所」で、広瀬川の西に見える星印は「師団司令部」、その上の菱形は「旅団司令部」、下の三角形は「大隊区司令部」を示す記号である。
また、集落を示す記号は、丸や楕円を基本とする「村落」および角形を基本とする「宿駅市街」の2種があり、いずれも人口別に形と大小が区分けされいる。「郡区役所」の記号は長町(名取郡)にも付されている。
この図の範囲で言えば仙台は1万以上、長町や原(原町)は1千以上、苦竹や荒井、南小泉も村落ではあるが人口1千以上、荒浜や深沼は5百以上であることを示す。黒点のみは人口が「不明」とされる。

名取川河口の閖上集落の右側に、中央に丸印をつけた短い線分記号が見えるが、これは明治も初期の地形図類のみに用いられた郵便局の記号で、その西側の増田や、仙台市街(西側)にも記載されている。

「宮城野原」の文字下の小丸群は、「樹木」を表わしたものと思われる。

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口絵と解説(迅速測図原図、5千分1東京図原図、輯製20万分1図)
刊行にあたって(芳賀啓)
日本近代地図・測量略年表(西暦・元号年対照表)
第Ⅰ章 正式図以前
    1初期の地形図類
    2東京の5千分1図と内務省地理局
    3輯製20万分1図   
第Ⅱ章 正式2万分1地形図
    1正式2万分1地形図の概要
    2東日本
    3中部日本
    4関西
    5中国・四国
    6九州
第Ⅲ章 1万分1地形図と東京の大縮尺図
    1 1万分1図地形図について
    2東京を中心とした地形図類
    3昭和前期の地図界
    4昭和20年代の地図事情と戦災復興院
    5 3千分1地形図
    6東京の地籍図類
第Ⅳ章 琉球諸島と旧植民地の地形図
    1沖縄県の地形図
    2臺灣の諸地形図
    3朝鮮の諸地形図
    4樺太の地形図類
    5北方領土・千島列島の地形図類
第Ⅴ章 地図誌の基礎
    1地図一覧図について(1)
    2 地図一覧図について(2)
    3地形図上に表現された鉄道
初出一覧
あとがき
ISBN978-4-422-22048-2
B5判434ページ 本体価格:28,000円
発行:創元社