A
私もFacebookの「口座を開」いてはいるのですが、それを開けるとほとんどフリーズ状態に陥ります。
そのため、各方面には失礼の極み、まことに恐れ入ります。
また、メールは発信、着信ともに着いたり着かなかったり。
勝手にロボットがはじいているらしい。
このインターネット半死半生状態は、もちろん一度診てもらおうとは思っていますが、半生のために日々追われて当面はどうにもなりません。
なにかによく似ているようですが、とりあえず弁明とお詫びをしておきます。
B
ところで、
今朝の東京新聞書評欄の「書く人」に拙著の記事が出て、私の写真も掲載されました。
位置としてはページトップで、「寺島しのぶ」の右側、「小熊英二」の上だから、マアマアか。
掲載写真は、東京新聞の女性カメラマンが駿河台の「男坂」の途中で撮ってくれたもの。
季節外れの夏帽子(「夏帽子頭の中に崖ありて」。この車谷長吉の俳句は、石川啄木の短歌のパクリ。『地図中心』2011年2月号拙文参照)をかぶった私が手にしているのは、写真ではよくわからないけれど、福島県双葉郡川内村の燃料店「綿屋」(実際はなんでも置いてある。村長の遠藤雄幸さん宅でもある)で買った「折尺」。
クリノメーター(さすがに綿屋にはなかった)も持っていたけれど、それはカバンの中。
撮影場所は、崖中建築として知られる吉阪隆正設計の「アテネフランセ」を指定したのでしたが、その日はちょうど工事中で入れず、残念ながら近くの階段になってしまった。
その階段も、もちろん「駿河台の大崖」の一部ではあるのです。
C
昨日は京浜急行追浜駅と京急田浦駅の間を歩いて、土砂崩れ、脱線、負傷者の出た現場を撮影。
下はその1枚ですが、崩壊場所は垂直にちかい崖壁面ではなくて、実は崖頂部に近いところで、ロームがえぐれていた。
土砂というけれど、土が崩落していたのですね。
今日は港区三田4-19(旧伊皿子55番地)の崖崩れ跡を探索。
幸田文の『崩れ』に出て来るエピソードの場所で、80年ほど前の崩落。
裏手の三井家の敷地の一部が崩落し、文の家のお手伝いの下半身が泥に埋まった。
高輪大木戸跡交差点から西に上るゆるい坂を右に折れて、少し急坂をつきあたった先は「NTTデータ」のご立派な建物。
旧三井家の門と思われる「遺構」がまだ現役でした。
そこから川崎の生田緑地に転じ、41年前の川崎ローム斜面崩壊実験事故跡地に向いました。
ここは国家機関4つが連合して行った「大実験」だったけれど、予想外の崩壊がおき、31人が生き埋めとなり、15人が即死して大事故となったところ。
慰霊碑とモニュメントが建てられている。
いずれも、9月30日締切の『地図中心』11月号の連載稿用に、超大型台風直撃の前に撮影しておく必要があったためです。
だから、詳細は『地図中心』11月号(10月末発売)をご覧ください。
ところで、事故現場は岡本太郎美術館のすぐ手前で、小さな谷戸の北向き斜面。
美術館自体はその谷戸のどんづまり、谷頭の崖上につくられていたのです。
ゲイジュツはバクハツだ!(岡本太郎)、そしてガケップチだ!!(村野四郎)。
今朝の日経新聞1面右下の「春秋」欄(朝日の天声人語に相当)が、拙著に言及していました。
発売10日目で重版決定ですから、売れているのはわかっていましたが、思わぬところから反響があるもので、吃驚しました。
日経の「春秋」は、この24日の集中豪雨で起きた、横須賀の土砂崩れと電車の脱線事故にからんだ記述ですが、
ちょうど私も、毎月末締切連載原稿(日本地図センター発行『地図中心』の「江戸東京水際遡行」)でこの事故から書き起こし、
40年前の川崎の「ローム層斜面崩壊実験事故」の大惨事(生田緑地の岡本太郎美術館そばに慰霊碑あり)に触れ、
さらに幸田文の短編『崩れ』にまつわる論考(「崩れる」その1)を認めている最中。
川崎の実験事故の「失敗」というか「想定外」のキーワードは、単なる「崩壊」ではなく、ロームの泥流化=「流動化」でした。
民主党や自民党の総裁選の結果、新聞などに登場した、泥鰌や、投げ出し坊ちゃん、の顔写真は、世の中いよいよ「泥流」化してきたことの証のようです。
「美しい日本」を標榜する政治家が、総理大臣になって何ヶ月もしないうちにポイと重責を放り出したと思ったら、またぞろ復活の様相だけれど、
現代日本の、とりわけ都市景観は美しいどころではなく、醜い。
これは、おおっぴらには言われないことだけれど、あきらかな事実である。
その醜さに、さして関心をはらわず、こんなものだと思っているのが一般の日本人らしい。
そうして、京都の一角や盆栽、折紙の「幻想」(イメージ)が、井の中の蛙の脳ミソを占領しているらしい。
街並みだけでなく一般家屋も、たいがい安っぽく、みみっちいのに、モノだけは詰め込んでいる。
寺院や城を除いては、安っぽい家屋が建ち並んでいた江戸時代は、しかし街並み自体は醜くはなかった。
江戸の街自体は、むしろ美しい部類に属していた。
渡辺京二ではないけれど、「美しい日本」は、せいぜい江戸時代までの話。
まあ、現代日本の都市も、歩道をふさぐ電柱と垂れさがる電線、パチンコ屋とサラ金、テレクラの看板とネオン、ビルの屋上の設置物を一掃すれば、それだけで
だいぶマシにはなるけれど、道路にせり出すばらばらの建物とひとりよがりデザインはどうにもならない。
建築家は、個々のデザインや機能を競い、自慢することを止めて、この「醜い」事実を直視するところからはじめるべきだろう。
「地形」に目が向くのは、建築の個別性の袋小路から出たいという衝動だろうが、地形自体を「集め」「分類し」「カタログ」化して
面白がっているだけではどうにもならない。
否定性を媒介としないかぎり、行為は腐臭を放つだけなのだ。
拙著がグラフィックな本となっているため、書店店頭での「類書」との関係で、誤解を生じている面があるようなので、「お断り」のコメントしておきます。
私がこの本で「言外」に主張しているのは、
①「東京の地形」に関して、「景観論」を基本とする言説は概ねダメだ、ということです。
かつて日本建築学会の『建築雑誌』が「新東京地形論」なる特集を組んで、タレントがらみのマチガイ素人談義を得々と展開しているのをみて吃驚したことがあったけれど、
その「風潮」はいまだつづいていて、他人の著作をつまみ食いした「地形カタログ」本が「売れている」らしい。
3・11を経てなお、空虚な論議が人気を得ていて、それが「除染」特需業界の一角から流出している様相には暗澹とするほかない。
拙著の冒頭にも強調したように、見えないところ、見えないものこそ重要なのです。
② ①に関連するけれども、地形は空間論ではなく、時間論のなかで「形成史」として捕えられるべきであり、その場合「人間以前」と「人間以後」をはっきり区別しなければならないこと。
つまり「自然地形」と「人為地形」を見わけ、その特性をわきまえることは、巨大都市に生きる人間としてきわめて重要なことなのです。
私の著作は、H・シュライバーの『道の文化史』を念頭に書いたものであったのだけれど、編集の方が私の文章を苦労して半分以下にパッチワークし、「絵」(ビジュアル)中心の本としてくださったのは痛し痒しで、
じっくり読んでいただければ、《文化史》の文脈はわかるはす。
表面だけみて「景観本」のレベルで云々する人がいるのは、残念というか心外。
まあ、本格的な『崖と坂の文化史』を書きなさい、ということなのかと思いますので、それを心して励みましょう。
その場合のタイトルは、『崖・坂・橋』ということになると思いますが―
標記のタイトルで、高校時代の先輩が拙著を購入した折の写真を送ってくれました。
東京は千代田区の神田神保町三省堂書店玄関正面。
江戸東京本のコーナーをもつ三省堂書店では、8月末にはすでに発売していたのですね。
しかし、入ってすぐの「ロイヤルボックスシート」とは驚いた。
いきなり、山本リンダになってしまう。
「困っちゃうな」。
岩窟王か、隠者のつぶやきを本にしたつもりなのに。
カラフルなコンピュータグラフィックスや写真画像に惑わされてはいけない。
私の本は、いま流行りの、街歩き本や、東京地形本などではないのです。
この本には、猛毒が仕掛けてある。
それが何かは、お買い求めいただいて、じっくり、すこしずつ、ご賞味いただければわかります。
じっくり読んだ人は、毒を取り込んで「賢く、強く」なれるでしょう。