Archive for 4月, 2016

 客:句会やってるんだって?
 主:主宰しているわけではないけど、世話係みたいなことをやって7年目かな。
 客:飽きっぽい君にしては、よくつづくね。
 主:さすがに最近は悩むよ。これでいいのかとね。
 客:なんだい、それは。

 主:うん。われわれのやっているのは結局「呑み屋句会」なんだけど、「新宿ゴールデン街の文壇バー」(ロバート・キャンベル)とも言われたところだから、発足時はそれなりの人たちがいたのね。つまり、短詩型文学というか、戦後俳句の到達点とまでは言わないけれど、ある程度の常識が、句会の場でなんとなく共有されていた。
 けれどもいま若い人たちというか、「初心者」クラスが多くを占めるようになってしまうと、そうした前提が取り払われて、何でもあり。選句に困るものが多くなった。

 客:いまの若い人たちは酒場で批判したり、議論しないから学べないんだろうな。それをやったらたちまち来なくなるだろう。批判しないで、誉められるものを誉めるだけにしたら?
 主:うーん、それも難しい面がある。何といっても、若い人たちの句には「芸事俳句」とでも言うべき傾向があるからね。掛詞に走ってしまうなど、その典型なんだな。俳句は芸事の一種だと思っているらしい。
 去年は学生に毎回授業(「表現と批評2」)の課題として俳句をつくらせてみたけど、最後まで5・7・5、17音ならべただけという結果におわった。それに較べれば、もちろん「作品」たらんと工夫して、一応「形」になっているけどね。
 客:「芸事俳句」か。「うまいッ、座布団一枚ッ」だな。つまりは「型」の世界ね。たしかに誉めたらその「型芸」を誉めることにしかならないな。

 主:人間存在の深淵から宇宙の極大までを表現するに至った現代俳句だが、その裾野は退嬰して季語を中心とした「盆栽芸」になりさがっている構図だね。
 夏石番矢は「短詩型に託されるのが、日記風の季節感だけだとしたら、たいへんおそまつな話だ。季節感を突きぬけた世界観や宇宙観、あるいは人間観が問われない詩などは、滅亡すればよい」(『現代俳句キーワード辞典』1990)と言っていたが、その感をますます強くするよ。
 

 客:俳句の「季語」というのは、近年テレビや雑誌、出版でも大流行の「日本すごい(スペシャル・万歳・美しい)」の淵源のひとつではないのかね。つまるところ、「ひとりよがり」の「日本イデオロギー」。それも決して江戸時代に遡るものではなく、高浜虚子あたり以降の根の浅いものだが。
 思うに戸坂潤(『日本イデオロギー論』1936)も、過去のものと澄ましているわけにはいかないんじゃないかな。もちろん、竹内好(『日本イデオロギー』1952)もね。
 主:うん。竹内は最近読み返して、「古典」であることを確認したよ。戦前であろうと戦後であろうと、「構図」の変わらないところが「日本」なのね。

 客:いや、構図だけは格段に深く、大きくなったよ。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)という言葉があるけれど、われわれは「3・11以後、季節や自然をうたうのは野蛮である」というべきなんだ。
 「国破れて山河あり」は遠い過去。S・アレクシエービッチの「あの時から、世界はまったく変わったのです」(『チェルノブイリの祈り』)は、現在を生きるすべての人間、いや生物についてあてはまるのだからね。

 主:世界は、ひとりよがり「季語」や「日本」を置いてきぼりにして異次元に突き進んだのね。そのことに鈍感なのか、あるいは耳目をふさいでいるのか。俳句にかぎらないけれど、「日記風の季節感」やエピソード、ないしは絵空事を仕立てて見せるのは、もう勘弁してもらいたいな。
 客:そう露骨にも言えないだろうから、まずは阿部筲人の『俳句 四合目からの出発』(講談社学術文庫)あたりを薦めて、「日本語月並み表現の恐るべき均一性」を、警告してみたらどうかね。
 主:それもいいかな。

テレビ番組や出版を契機とした「地形ブーム」というのがいいまだ健在らしい。
しかしその多くは東京を中心とした巨大都市圏に住む者のひまつぶしないしはマニアックな所業の延長であって、私の関与するところではない。
拙著『江戸の崖 東京の崖』が代表だが、その主張は「地形マニア」の「さまざまな意匠」とは隔絶しているのである。

東京というよりも、日本列島上の「首都圏」は、その存在自体が「崖」であり、「奇形」である、というのがその主張である。
そうして、現在は「江戸時代」につづく「東京時代」であって、その「東京時代」(東京国家)を「止揚」しなければ、われわれの未来はありえない、というのが究極の主張である。すなわち、われわれが生き残る道は、「都」も、「東京」も、廃棄することにしか存在しないのである。

地表上きわめて特殊な、4枚のプレート(岩盤)のせめぎあう「新規造山帯」に位置する日本列島において、「巨大災害」は地表上これまたきわめて特殊な人口集中地域(首都圏)に必然的に生起する、不可避な現象である。災害の規模は、人口の集中規模と「都市化」の度合に比例して昂進するからである。
人間が「地形」を考察するには、「人間の土地」から「人間」を切り離し、そうして再度「人間と地形」の現在を対象化しなければならない。
こうした規定性に目を向けない、どうでもいいような「景観論議」(その多くは建築系の構造論者およびそれに追随するおっちょこちょいやノー天気派、そしてタレントであるが)、マニアックな知ったかぶりは、すべて無効である。

ところで、大学の新聞会といえば、硬派学生の代表格のようなものだったが、過去と現在は隔絶しているらしい。
しかしその新聞会から取材があって、私の話が『THYME』(東京経済大学新聞会)という雑誌に掲載された。
以下は学生の聞き書きだが、それはそれでよいと思っている。

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