客:句会やってるんだって?
 主:主宰しているわけではないけど、世話係みたいなことをやって7年目かな。
 客:飽きっぽい君にしては、よくつづくね。
 主:さすがに最近は悩むよ。これでいいのかとね。
 客:なんだい、それは。

 主:うん。われわれのやっているのは結局「呑み屋句会」なんだけど、「新宿ゴールデン街の文壇バー」(ロバート・キャンベル)とも言われたところだから、発足時はそれなりの人たちがいたのね。つまり、短詩型文学というか、戦後俳句の到達点とまでは言わないけれど、ある程度の常識が、句会の場でなんとなく共有されていた。
 けれどもいま若い人たちというか、「初心者」クラスが多くを占めるようになってしまうと、そうした前提が取り払われて、何でもあり。選句に困るものが多くなった。

 客:いまの若い人たちは酒場で批判したり、議論しないから学べないんだろうな。それをやったらたちまち来なくなるだろう。批判しないで、誉められるものを誉めるだけにしたら?
 主:うーん、それも難しい面がある。何といっても、若い人たちの句には「芸事俳句」とでも言うべき傾向があるからね。掛詞に走ってしまうなど、その典型なんだな。俳句は芸事の一種だと思っているらしい。
 去年は学生に毎回授業(「表現と批評2」)の課題として俳句をつくらせてみたけど、最後まで5・7・5、17音ならべただけという結果におわった。それに較べれば、もちろん「作品」たらんと工夫して、一応「形」になっているけどね。
 客:「芸事俳句」か。「うまいッ、座布団一枚ッ」だな。つまりは「型」の世界ね。たしかに誉めたらその「型芸」を誉めることにしかならないな。

 主:人間存在の深淵から宇宙の極大までを表現するに至った現代俳句だが、その裾野は退嬰して季語を中心とした「盆栽芸」になりさがっている構図だね。
 夏石番矢は「短詩型に託されるのが、日記風の季節感だけだとしたら、たいへんおそまつな話だ。季節感を突きぬけた世界観や宇宙観、あるいは人間観が問われない詩などは、滅亡すればよい」(『現代俳句キーワード辞典』1990)と言っていたが、その感をますます強くするよ。
 

 客:俳句の「季語」というのは、近年テレビや雑誌、出版でも大流行の「日本すごい(スペシャル・万歳・美しい)」の淵源のひとつではないのかね。つまるところ、「ひとりよがり」の「日本イデオロギー」。それも決して江戸時代に遡るものではなく、高浜虚子あたり以降の根の浅いものだが。
 思うに戸坂潤(『日本イデオロギー論』1936)も、過去のものと澄ましているわけにはいかないんじゃないかな。もちろん、竹内好(『日本イデオロギー』1952)もね。
 主:うん。竹内は最近読み返して、「古典」であることを確認したよ。戦前であろうと戦後であろうと、「構図」の変わらないところが「日本」なのね。

 客:いや、構図だけは格段に深く、大きくなったよ。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)という言葉があるけれど、われわれは「3・11以後、季節や自然をうたうのは野蛮である」というべきなんだ。
 「国破れて山河あり」は遠い過去。S・アレクシエービッチの「あの時から、世界はまったく変わったのです」(『チェルノブイリの祈り』)は、現在を生きるすべての人間、いや生物についてあてはまるのだからね。

 主:世界は、ひとりよがり「季語」や「日本」を置いてきぼりにして異次元に突き進んだのね。そのことに鈍感なのか、あるいは耳目をふさいでいるのか。俳句にかぎらないけれど、「日記風の季節感」やエピソード、ないしは絵空事を仕立てて見せるのは、もう勘弁してもらいたいな。
 客:そう露骨にも言えないだろうから、まずは阿部筲人の『俳句 四合目からの出発』(講談社学術文庫)あたりを薦めて、「日本語月並み表現の恐るべき均一性」を、警告してみたらどうかね。
 主:それもいいかな。

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