Archive for 11月, 2019

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東京新聞掲載

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2019年の新刊 続

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奥州仙台詩魂の尽きせぬ泉、実験の饒舌 第4弾!

もう/与太話の種火が消えかけようとしておる/大円団は間近いですぞ/眼をこすりつけて読み下されたい 読者諸氏!
 禊済ませて待っていなされ/口をクチャクチャ孔をペチャペチャ/暇に飽かせて月に吠えるとは/兄チャンいい度胸してるね/もうもう 藻王         
(第3部お転びの巻 場の17から)

佐山則夫詩集4『台所』
ISBN978-4-902695-32-8  C1092
B5変型上製函入 170ページ
本体2000円+税 
限定150部

目次
始まりの場外
第1部 お起抜けの巻
第2部 お承り候の巻
第3部 お転びの巻
第4部 お結びの巻
お終いの場外

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2019年の新刊

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旧来流布してきた英仏系探検と世界発見の物語に
あらたにロシアの征服と拡張の道筋を加える
高等学校地理教育者の労作

佐々木路子著『ロシアの地理的「探検」と「発見」』
ISBN978-4-902695-33-5 C1025
A5判 290ページ
上製 本体2400円+税

目次
第1章 17世紀ロシアの「探検」と「発見」
 その1 ロシア人の東進
 その2 バイカル湖へ
 その3 ゼーヤ川からアムール中・下流へ
 その4 レナ川を下って北氷洋へ
 その5 カムチャツカへ
 その6 ロパトカ岬へ
第2章 17世紀シベリアの地図化過程
 その1 レーメゾフのシベリア地図帳
 その2 『ゴドゥノフのシベリア全図』(1667)
 その3 『1672/73年のシベリア全図』
 その4 スパファーリのシベリア地図(1678)
 その5 1687年シベリア地図
 その6 『レーメゾフ地図帳』(1701)
 その7 『レーメゾフの民族誌地図』
第3章 ロシア人が語る「地球発見物語」
 1 はじめに
 2 地理学の誕生
 3 古代ギリシャ・ローマの地理
 4 中世の地理的知見
 5 偉大なる地理上の発見
 6 18・19世紀の地理上の問題と謎
 7 フンボルトと18‐19世紀の地理学
 8 ロシア人の「世界進出」
 9 北極の探検・20世紀の探検
 10 南極と世界の屋根
 11 海に挑む
資料 ウラジミール・アトラーソフのカムチャツカ遠征記
 『第一上申書』(1700)
 『第二上申書』(1701)
主要参考文献
あとがき (佐々木隆爾)

佐々木路子(ささき・みちこ)
1937年 滋賀県彦根市生まれ。
1960年 奈良女子大学文学部史学地理学科(日本史専攻)卒。
日比谷高校などで地歴科教師を歴任。
2004年 東京ロシア語学院本科卒、ロシア語専門士。
2012年 死去。

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うたの位相 その5

問題は「うたの位相」である。つまりそれが「詩」と言えるものであるかどうか、である。
「うた」は虚構の共同性とその過去が現在を拘束するサイン(合図または痕跡)である。

しかし「詩」はそうではない。
それは虚構と無縁の未来から飛来して「私」を拘束する言葉であり(ヨシフ・ブロツキイ『私人 1987年ノーベル賞受賞講演』)、啓示であり、予言ですらあるからだ。

先の大戦において、日本文藝家協会を母体として情報局(内閣情報局)が日本文学報国会を促成したのは敗戦を3年後に控えた1942年(昭和17)であった。
その詩部会の会長には高村光太郎が任じ、そこには今日名前が知られるほとんどすべての「詩人」が網羅された。

前年『智恵子抄』を出したばかりの高村は、病妻に対したと同等あるいはそれ以上「真摯」に時局にのめりこみ、戦意称揚に邁進したのであった(「地理の書」ほか)。

つくりだされた危機における虚構(「日本」)への回収や美のことあげは、結局のところ虚構のひとりよがり(廓言葉)の隘路に自らはまり人を陥れる仕業にほかならない。

アイロニーの悲愁をスタイルとした「日本浪漫派」も、「隣近所」から離陸して視ればゲルマン優種の神話で民族浄化を正当化したナチスの宣伝と基本的に変わるものではない。

意識的あるいは無意識に「世界」を断って、ひとりよがりの善意と正義、そして悲愁に埋没したうたびとは、決して「詩人」などではなかったのである。

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浅草橋 その3

大猷院殿御実紀(「徳川実紀」のうち、家光の代)巻三十寛永十三年正月の記に「八日江城惣郭の営造この日よりはじめらるゝ所」として、石垣や堀につづき枡形すなわち見附の造営を命じたなか、「浅草口は松平伊予守忠昌」とある。
いわゆる徳川実記の東照宮から大猷院あたりまでは、確かな史料伝存のない江戸初期を垣間見させる数少ない文書と言っていい。
一般に、見附は堀に架けた橋とセットで存在するから、説明板はこの下命年をもって橋の創架に短絡させてしまったのである。しかし、既述のように橋は見附以前から存在していた。

また、見附すなわち枡形が橋とセットであるといっても、それは堀の「内側」すなわち城側に配置されるから、現在の台東区側ではなく中央区側に造営された。
したがってこの説明板も、傍らの「浅草見附跡」の石柱も、設置位置がそもそも誤りなのである(本項その1写真参照)。

ついでにもうひとつ、誤りを指摘しておけば、日本歴史地名大系13『東京都の地名』の「浅草橋」の項で「別本慶長江戸図には橋の辺りに「浅草口さんや千じゆへ出奥州道」と付記がある」と書いているが、この場合の「橋」は浅草橋ではなく「常盤橋」である。付記も正しくは「浅草口さんやより千じゆへ出奥州道」である(下掲・別本慶長江戸図・部分)。

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慶長7年(1602)頃の江戸を描いたとされる別本慶長江戸図は、もちろん「見附以前」である。
しかしここからひと世代30年以上をかけ惣郭(そうぐるわ)整った江戸は、ふたつの「浅草口」すなわち常盤橋門と浅草橋門と、二重の見附で防御されていた。

繰り返すが、江戸時代に常盤橋から浅草橋をぬけて浅草へ向かった道は、「橋以前」「江戸以前」からの古い経路なのである。

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浅草橋 その2

説明文の第3段落
「ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである」
は全くの誤りである。

その端的な証は、「最古の江戸図」として著名な「武州豊嶋郡江戸庄図」(下掲・国立国会図書館蔵・部分)にすでに記載がみえることである。
この図は寛永9年(1632)年の刊記をもつのである。
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右手に逆立ちして「あさくさ川」とあるのは隅田川で、支流の人工河川神田川に「あさくさはし」、さらに橋の延長に逆立ちした「あさくさ道」という文字が読み取れる。
左下、真中に筋のある細長い楕円は、日本橋馬喰町の起源にかかわる初音の馬場である。

「あさくさ道」という書き込みは重要である。
現在の「大伝馬本町通り」は浅草を経由する旧日光街道の一部として知られる。
常盤橋から浅草橋を通り浅草に向かうその道は、実は日光街道どころか江戸以前からの古奥州街道で、つまりは神田川が開削される以前から存在していた古道である。
したがってここに橋が架けられたとすれば、それは神田川開削とほぼ同時であったと考えるのが妥当である。
しかし神田川がこの場所でいつ開削されたか、確かな記録は何もない。

日本歴史地名大系13『東京都の地名』(2002)「浅草橋」の項が「架橋の年次は不明」としているのは正しい。
では、説明板の自信ありげな断言はいったい何を根拠とするのか?

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浅草橋 その1

浅草橋は、浅草にはない。
築地御坊(築地本願寺)の前身浅草御坊が浅草になく、日本橋浜町にあったのと似ている。
近隣の両国橋が、明暦大火後武蔵と下総の両国にまたがって架けられたのではないのと、少し似ている。

浅草橋は、江戸から浅草(方面)に向かうための、あるいは浅草方面から江戸府内に入る橋である。
両国橋は、武蔵の江戸から隣の下総方面にわたる、もしくは下総から武蔵の江戸に至る橋である。

浅草は江戸の一部だったのではない。
浅草は、江戸など問題にならないほど古くからひらけた地域であった。

ところで、問題は浅草橋である。

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上の写真は浅草橋の北西の橋詰、つまり国道6号(旧陸前浜街道)歩道の台東区浅草橋1丁目側から撮影したもので、左手の橋を渡れば中央区日本橋馬喰町2丁目である。
つまり浅草橋は、中央区と台東区にまたがり、それを境する神田川に架かる橋である。

さて、右手前に石柱が建てられていて、「浅草見附跡」とある。
画面中央には、台東区の説明板も掲げられているのが見えるかも知れない。

その説明板を読んでみよう。
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「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草橋
 浅草橋という町は昭和九年(一九三四)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は、神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
 江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見付といわれた。
 ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。
 台東区」

一読して文章に違和感をもてたとすれば、その感覚はまっとうである。
第2パラグラフ第2センテンス「奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた」は、まともな文とは言えない。
ひとつの述語に対して主語とそれを受ける格助詞「は」が複数あり、読点の使い方も無神経で、文意を混乱させているのである。
このセンテンスの「主」語は、「地は」ではなく「門は」である。
言いたいことをはっきりと相手に伝えるならば、修飾部と主語述語の主部を明確に区別し、「この地は奥州街道が通り、浅草観音への道筋にもあたることから、築かれた門は浅草御門と呼ばれた」としなければならない。

この「案内」は、まともな校正プロセスを省き、そのまま公示された役所駄文の典型で、読む者を見くびっているとしか言いようがない。

そうしてこの「案内」には、文法上どころか、史実上の誤認とその結果の重大な誤記が存在するのである。