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桜と川底 ―神田川豊橋から

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2024年4月4日、後期高齢者となって第二日目。
早稲田大学エクステンションセンター中野校の春の講義(23区の微地形の第14回目「中野区の微地形」)第1日目の後、事務局から発行してもらった図書館カード交付申請書をもって本校図書館へ。
約半世紀前、4年間学費を納めたものの中退者には図書館の利用権なく、オープンカレッジ講師の資格でようやく1年ごとの利用が可能。
それも公共図書館ばかりでは仕事にならないので、致し方ない仕儀。

発行まで15分かかるというので、約半世紀前の濃厚な記憶が固結しているグランド坂下路地の「志乃ぶ」(おでん屋。午後5時過ぎで開店しており、教員らしい何人かの男の顔がカウンターに見えた)前から都電の終点を抜け、神田川の豊橋に向かったが、神田川の両岸は桜開花真最中。
とくに右岸は新学期らしく外国人も含め多くの人がそぞろ歩き、桜並木にカメラを向けていた。
上下掲はそれから仲之橋まで撮りながら時間をつぶしたうちの2枚。

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豊橋の上から川底を見下ろす。
「早稲田」の地名が示すように、このあたりの神田川両岸は水田地帯であった。
神田川はその灌漑および排水路とされていて、水流は細流分岐していた。
5万分1はもちろんのこと2万5千分1や2万分1でも、旧版地形図の河流は「総描」の結果であり、水路すべてが描かれているわけではない。
また稲作の水面も、地表とはそれほどの高低差をもたなかったはずである。

下の写真にみえる現在の深い川底(橋桁から5~6m下)は、近代以降このエリアの宅地化の進展に伴って加えられた洪水対策の結果である。
流路を直線化し、かつ掘下げるのは河川改修の常道で、震災復興事業の一環として行われたのが主だったはずである。

以上は実証抜きで言うのだが、下の写真(豊橋上から上流を撮影)で河床に露出しているのは約100万年前に形成された上総層群で、砂泥が半固結した柔らかい海成層。
これは早稲田大学の久保純子先生(自然地理学・地形学)にお聞きしたことだから、確かな話である。

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付け加えれば地表面から数メートル下の川底ではあるけれど、だからと言ってその分すべて掘下げられたわけではない。
土木工事で出た土はどこかに処分しなければならない。
搬出と敷置の労度すなわち経費は、掘削同等と言えないまでもけっして侮れるものではない。

国土地理院の「数値地図25000(土地条件)」をインターネット閲覧すれば、ここ神田川両岸一帯は「人工地形」で、それも「盛土地・埋立地」である。
つまり掘出された川底の砂泥や礫は、即刻近隣の盛土に用いられたと考えるのが妥当である。

日本地図センターが1984年に複製発行した「五千分一東京図測量原図」36面のうち、1883年作成の「東京府武蔵国北豊島郡高田村近傍図」に見える現在の豊橋付近の畦道の標高は(複製の精度が悪いため数字を読み取るのが困難だが)、判読すれば7.8mかと思われる(図はスマホアプリの「東京時層地図」にも収録されているが、精度はさらに劣化していて標高数値は判読も困難)。

現在の標高値は8.4m前後だから、畦道から水田の底までの差を考えると土地は1m弱かさ上げされたと考えられる。つまり掘下げ深度は「数メートル、マイナス盛土分約1メートル」となる。盛土は1m弱だが、氾濫時を考えれば、その高さのもつ意味は大きい。
もちろん川幅は両岸水田地帯よりずっと狭いから、掘削の深さと盛土の高さはつり合わない。しかし切土と盛土は、一定範囲の場所での土塊の転位という形で為されるのが合理であることは、間違いないのである。

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前期高齢者最終日の桜

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2024年4月2日 野川鞍尾根橋付近