Archive for the '地図本' Category

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書評 10月28日

「東京新聞」「中日新聞」の2012年10月28日(日曜日)読書欄に、執筆した書評が掲載されました。
以下の通りです。

「東京新聞」「中日新聞」2012年10月28日掲載
「東京新聞」「中日新聞」2012年10月28日掲載

このブックレットのもとになった私の講演は、2008年10月5日、もう2年弱も昔の話です。話が広範囲にわたっていて、折角テープを起こしてくださったのですが、大分書き直してしまいました。この間、地図や行政資料をめぐる日本のそして東京の状況は大きく変化しました。ブックレットの末尾で、私が「地域の資料は、その地域に」と強調しているのは、以下のようなに事柄に直面したためでもあるのです。

調べ物でよく出かけていたのですが、立川市にある都立多摩図書館で、いつものように「○○区史」「××市史」を探したものの、棚にない。
請求しても出てこない。そればかりか、県史や市史の類、そして昭和30年代の1:3000東京都地形図をはじめとして、基本的な地域資料が一切なくなっている。
訊けば地域資料のほとんどは広尾の都立中央図書館に移管され、同一複数の資料は「処分」されるという。
これには驚いた。
暴挙というより、愚行というほかない。

「その地域」にある「地域資料」をわざわざ中央に移管して、あげくの果てに処分するという、まことに素敵な都の「文化行政」には笑ってしまうほかはない。都立図書館の内部事情を知る人の話では、こうした「決定」に対して、「会議」では「反対意見」は発言とみなさない、という前置きがあるのだという。こうなると、「会議」」ということ自体が体をなしていない。都という地方行政の場で、有無を言わせない専制政治が跳梁跋扈しているのですね。そこにあるのは、何よりも「地域」という「分節」(実はこれが「民主主義」の実際的な基盤なのですが)を、できるだけ排除しようという意識、あるいは無意識でしょう。

しかのみならず、近時は港区にある「都立公文書館」一帯が民間に売却され、資料は世田谷区の廃校となった高校に移転することが決定され、その後のことは何も決まっていないのだそうです。こうした行政の現実は「素寒貧」とでも言うほかない。何が素寒貧かというと、自分の職分に対する自覚や倫理が欠落しているのですね。基本的に責を回避する。行政「文書」は出来るだけ隠す、廃棄する、残さない。都合のよいアピールだけを表に出す。

最近では、平成の大合併の挙句に「道州制」が取沙汰されていますが、仮にそうなったとして、その際23区だけは特別行政区となり、多摩地域は他府県と合併される公算が強い。そうなると、多摩地域には基本地域資料(アーカイブ)が存在しないという状況が出現します。果たして、とりあげた資料は返してくれるのでしょうか。多分、すでに廃棄した、と言うのでしょうね。

これは既に各地の「平成の大合併」において、現実におこっている事柄でもあります。アーカイブとはお役所の仕事クズではなくて、行政の証拠書類、つまりは市民が自らの権利をチェックする基本証書であることをあらためて確認しなければなりませんが、我々が一般j常識としてそれを自覚するには、まだだいぶある苦渋の道のりをふまなければならないようです。

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ブックレット

NPO「共同保存図書館・多摩」から、「タマ・デポ・ブックレット」の3冊目として、私の講演をもとにした『地図・場所・記憶 ―地域資料としての地図をめぐって』が出版されました(A5判、54ページ)。

地図(地形図)作成の現状と、古地図(複製)のありかた、多摩地域の地図資料について、具体的な例をあげながら述べたものです。
今日の古地図出版あるいは地図資料をめぐる主要な問題点がお判りいただけるかと思います。
また、具体的な画像として、国分寺駅南側を中心とした地形図にみる町の変遷や、立川駅北口の昭和24年の商店地図などの地域資料を収録しています。
巻末には、昭和30年代の1:10000と1:3000の地形図の一覧を掲載(いずれも多摩地域)。
ご希望の方にはお頒わけしますので、メールでご連絡ください(本体600円)。
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川の地図辞典

2月初めから、2月中になって、とうとう3月に。
いつもの、ズルズル刊行予定で、大変申し訳ございませんが、

品切れ中の『川の地図辞典』江戸・東京23区編の3刷目(補訂版)
は、出来日が確定しました。
3月15日。

新刊の『川の地図辞典』多摩東部編については
あと3.4日で刊行日が判明すると思います。
でも、多分同じころでしょう。

刊行記念ウォークについてはそれからお知らせします。
少々お待ちを。

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縄文地図

中沢某が「アースダイバー」(略称「アダイ」)で吹聴している「縄文地図」が、縄文地図でもなんでもなくて、ただの「沖積層/洪積層」分類図で、それは縄文時代の海岸線を表わすものではまったくない、ということを中心に、先日駒澤大学の深沢校舎であった「地理学サロン」でもお話してきましたが、会場のお一人から「そのように言ってもせんないことで、粛々と正しい仕事を世に問うしかない」というお言葉をいただきました。
そうなのですね、昔から「江戸東京歴史地図帳」をつくるのが、私の出版業の目標のひとつだ、と公言してきたのですから、まずは「正しい」「縄文地図」をつくるところからはじめなければならない、と志を新たにしたのです。

酒詰仲男さんのように、小さなスケールの地図なら貝塚の分布から海岸線を推定することも可能ですが、ヒューマンスケールを標榜する者から言うと、例えば目黒区の東山貝塚はそこに海があったわけではない。
つまり、魚介類を積んだ小舟を川沿いに曳いてきて、集落の近くで交易品としての乾貝をつくっていた可能性がある。
だから貝塚分布が即汀線復元にはつながらないのです。
しかしながら、まずは遺跡・遺物の分布を詳しい地形図にプロットしていかないことには、話ははじまらない。
そこから「縄文地図」はようやく一歩が始まるのです。

中沢ナントカは、勝手な地図解釈をおこなって、牽強付会に「死」や「霊」の「場所」を取出し、オカルトや「スピリチャリズム」と同レベルの言説を振りまいているわけです。
彼の言説は、「たわむれ」などではなく、まして思考のパラダイム変換などでもなくて、「縄文ナントカ」も明確な意図をもったひとつのイデオロギー操作だと思っています。

ところで、人間の基本は生物にあるのですから、生死そのものももっと即物的で、合理的です。
東京は、大昔は「どこでも海」だったし、まして『江戸の町は骨だらけ』(鈴木理生)でした。
日本列島におけるオカルト(呪術や祭祀)のピークは縄文晩期(約3000年前)。
縄文晩期の直前、縄文後期から、気候の冷涼化が始まっていたのでした。
今日の逆ですね。
気候も食料も不安定な時期、そこに同調波をおこそうというのが中沢某の小手先です。

「アダイ」で中沢に「桑原武夫学芸賞」を授与した某氏らも、「ほぼ日刊イトイ新聞」で「縄文地図」対談を垂れ流している連中も、易々とノセられていて、皆さんいい気なもんだと思うしかありませんね。
こういうのを、行きはよいよい、帰りは怖い、というのです。

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地図の本 その4

中沢某の『アースダイバー』(以下、『アダイ』という)の初版は2005年5月だから、もう5年前に近い。
ずいぶん話題となり、売れもした本だったが、当初から?付きだった。
10年以上前、東上野にあった彼の事務所で、私は彼に向って「土地の凹凸」の話をしたが、彼は面白がって聴いていただけだった、というエピソードは、彼の本が出てからどこかで披露したことがある。

しかしそもそも、ベストセラーというもの自体に?を付けておいたほうがよい。あれは「空気現象」だから。

今朝の「東京新聞」(2010年1月9日)の26面(最終面)の《東京どんぶらこ》というシリーズの411回目は、中沢某が顔写真付で「四谷三丁目」を書いていて、その見出しが例によって「異界との境界地帯」というのだった。
中身は『アダイ』を、新聞用にちょっと書きなおしただけなのだが、本ではさすが担当編集者が疑問部分にチェックを入れていたと見えて、アヤシイ部分は入念に糊塗隠蔽されていたのが、新聞ではそれが「そのまんま」になっていて、4年と7ヶ月ぶりに馬脚が露呈することになった。

曰く、「このあたりがどうしてこんな地形をしているのか、その理由をいまでは私はこう考えている。いまから数千年前、地球は温暖化して、海水面はいまよりも数十メートルも高くなった。いわゆる縄文海進である。その時代、海の入り江は内陸深く侵入していた。そのために、洪積地であった四谷の高台(ここにいまの新宿通りの走っている)は、南北からの深い渓谷によって、エッジも鋭くえぐられていたのだった。/その谷の両脇の傾斜地に、古墳時代になると横穴墳墓がたくさんつくられるようになった。こうしてここは生と死をつなぐ境界地帯となったのである。」(原文ママ)

チェックの入らない文章だから、うんとわかりやすい。
「数メートル」の誤植ではない。「数十メートル」と書いている。
確かに、新宿あたりの標高は40メートル前後だから、海に溺れさせるためには「数十メートル」でなければならない。
つじつまを合わせたわけだ。

けれども、縄文海進時の海面変動は現在とくらべて3メートルほど。百歩譲っても数メートル、というのが定説。
新宿三丁目が海だったのは、数千年前ではなくて、最終間氷期の12~13万年前。
それは縄文時代なんかではなく旧石器時代だが、関東平野の大部分は「古東京湾」の下で、人間の痕跡は存在しない。

「昔々、ここは海の底」という話は、どこにでもある。わかりやすい。間違い、ではない。
地球表面全体が水だった時代もある。氷だった時代もある。
問題はその「昔」がいったいいつの話なのか、だ。

『アダイ』は、「雰囲気」と「つじつま合わせ」でできあがっていたようだ。

まことしやかなエライ人、神がかりの断言者はほかにもたくさん居て、その「説」や「人物」がなんらかのきっかけで浮上し、神話化すると、とりまきや「弟子」の類がまたそれで一商売やらかす。
世の中は、いつも変わらない。

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地図の本 その3

年明けですが、当方にとって「地図の本」は、なんといっても『川の地図辞典』。
その〈江戸・東京23区編〉は再版も品切れで、現在第3版「増訂版」を作製中です。
同時に、『川の地図辞典』〈多摩東部編〉も製作中。

昨今は、再校ゲラの点検で野外に出ることが仕事。
晴天つづきでまことにありがたい。
今回は「地元」ですから、電車と自転車の組合せ。
しかしアラカン卒業アフタカンとなると、一日中自転車を乗り回すのはキツイ。
でも、昨日は朝7時から10時までが電車。それから夕方5時までが自転車。

両方をなんとか2月中に刊行できるよう、努力しています。

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地図の本 その2

以下は今年の「私の3冊」。『東京新聞』2009年12月27日の「2009年 私の3冊」に掲載されたものの元文です。

詩人の茨木のり子が、「刷られたばかりの新刊本が/手の切れそうな鋭さで軒なみ並び/出版業の高血圧にたじたじとなる」と歌ったのは40年以上も昔(「本の街にて」)。時代は大きく転じた。
ある著名な書店人はかつて、本の購買動機はa実用、b見栄、c宗教にある、と喝破したが、今やbは壊滅、a、cもネットに追い込まれた。しかしネットでも書籍でも、「これこそ求めていた」といったものに遭遇することは稀である。

私にとっての今年の3冊は、
①『地図でみる西日本の古代』(島方洸一ほか編・平凡社)
②『東京の道事典』(吉田之彦ほか編・東京堂出版)
③『ベーシックアトラス 中国地図帳』(平凡社)。

①は旧版5万分の1地形図の上に古代官道と条里制を推定記入した大判の歴史地図帳。脇付に「日本大学文理学部叢書」とあり、学術書籍として出版されたようだが、古代のみならず日本史に興味ある一般人の参照すべきもっとも基本的な書籍。カラー印刷であるのもうれしい。「東日本編」が俟たれる所以である。
②は、東京を調べる向きには必須アイテム。一般に「地名辞典」は現旧の「居住地名」あるいは「行政地名」に終始していて自然地名には疎。まして道路は顧みられることがほとんどなかった。しかし「道路」は都市の基本である。著者は多数にわたるが、基本的に道を踏破して執筆している。
これこそ求めていたものだが、、項目遺漏もみえるし、文章にも不審や未熟がかいま見られる。ところどころ挿入されている名所図会の類の図版や写真はむしろ不要である。改版をのぞみたいところだが、「実用」から言えばこうしたものはネット上に公開され、アクティヴに加除訂正されていくのが「理想」である。
③地図出版で定評のある平凡社の1冊。来年は上海万博の年。中国ものも出版ネタであるが、これは2008年7月初版。写真や余分な解説が一切なく、十分な索引(日本音と中国音の両引)を備えてハンディであることに好感がもてる。地域別の地図縮尺が統一されていれば、との思いもあるが、利用者の贅沢な思いであろう。
しかし、総じて紙の出版物がwikipediaのベース役に甘んじないためには、それ自体がモノとしての完成度をもつ必要があることをあらためて確認した1年であった。

「地図」というお題でしたし、スペースも限られていたために、古地図や地図史といった分野での紹介を欠き、もっとも大切にしている本のひとつ「イメージの冒険 1 地図」(1978年、カマル社編集、河出書房発行)に触れることもできませんでした。とはいえ、これで完結。ご参考になれば幸いです。今回はカラーページでした。

2009年9月27日
2009年9月27日

研究会で大分県は臼杵に2泊。
そこから足を伸ばして福岡・博多、さらには佐賀まで。
臼杵市では、担当の方にお世話いただいて、古絵図などをたくさんみることができました。
また、佐賀市の「徴古館」で展示中の、初公開城下町絵図も圧巻でした。

そうこうしているうちにあっという間に1週間が過ぎました。
で、今回も「東京新聞」「中日新聞」の記事掲載ということにします。

2009年9月20日
2009年9月20日

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