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縄文地図

中沢某が「アースダイバー」(略称「アダイ」)で吹聴している「縄文地図」が、縄文地図でもなんでもなくて、ただの「沖積層/洪積層」分類図で、それは縄文時代の海岸線を表わすものではまったくない、ということを中心に、先日駒澤大学の深沢校舎であった「地理学サロン」でもお話してきましたが、会場のお一人から「そのように言ってもせんないことで、粛々と正しい仕事を世に問うしかない」というお言葉をいただきました。
そうなのですね、昔から「江戸東京歴史地図帳」をつくるのが、私の出版業の目標のひとつだ、と公言してきたのですから、まずは「正しい」「縄文地図」をつくるところからはじめなければならない、と志を新たにしたのです。

酒詰仲男さんのように、小さなスケールの地図なら貝塚の分布から海岸線を推定することも可能ですが、ヒューマンスケールを標榜する者から言うと、例えば目黒区の東山貝塚はそこに海があったわけではない。
つまり、魚介類を積んだ小舟を川沿いに曳いてきて、集落の近くで交易品としての乾貝をつくっていた可能性がある。
だから貝塚分布が即汀線復元にはつながらないのです。
しかしながら、まずは遺跡・遺物の分布を詳しい地形図にプロットしていかないことには、話ははじまらない。
そこから「縄文地図」はようやく一歩が始まるのです。

中沢ナントカは、勝手な地図解釈をおこなって、牽強付会に「死」や「霊」の「場所」を取出し、オカルトや「スピリチャリズム」と同レベルの言説を振りまいているわけです。
彼の言説は、「たわむれ」などではなく、まして思考のパラダイム変換などでもなくて、「縄文ナントカ」も明確な意図をもったひとつのイデオロギー操作だと思っています。

ところで、人間の基本は生物にあるのですから、生死そのものももっと即物的で、合理的です。
東京は、大昔は「どこでも海」だったし、まして『江戸の町は骨だらけ』(鈴木理生)でした。
日本列島におけるオカルト(呪術や祭祀)のピークは縄文晩期(約3000年前)。
縄文晩期の直前、縄文後期から、気候の冷涼化が始まっていたのでした。
今日の逆ですね。
気候も食料も不安定な時期、そこに同調波をおこそうというのが中沢某の小手先です。

「アダイ」で中沢に「桑原武夫学芸賞」を授与した某氏らも、「ほぼ日刊イトイ新聞」で「縄文地図」対談を垂れ流している連中も、易々とノセられていて、皆さんいい気なもんだと思うしかありませんね。
こういうのを、行きはよいよい、帰りは怖い、というのです。

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