Archive for 6月, 2016

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大学生の「読書スタート」

最近30歳も半ば過ぎで学士入学した人の話を直接聞く機会があったが、近年世界大学ランキングで「アジア・トップ」の座からズリ落ちたとは言っても、東京大学の「レベル」はやはりそれなりで、学生の語学力や常識、学業つまり読まなければならない文献量のレベルは、私学のトップクラスを出た者にも結構驚く面があったらしい。ただし、そのレベルも学部や学科によって大きく異なるという。
一方、おもに小学生を相手に「読書教育」をすすめている人の話では、子どもと本の関係は、在日のインターナショナル・スクールに学ぶことが多いという。そこで子どもたちは、「学校教育」のなかで、必然的にさまざまな本と出合う。それに反して、「検定教科書」という摩訶不思議な制度が幅をきかせるエリアにあっては、書物の本来的なありかたを理解するのは難しいようだ。

以下は当方の話だが、教えている中堅大学の学生たちに対して、いろいろ考えた挙句、着任1年と3ヶ月にして「基礎読書アンケート」というものを実施してみた。こちらも結構驚くべきところがあった。
とはいえ、わざわざ「アンケート」などをとらなくとも、毎回課題としているレポートに書かれている文章のありようから、それは予想されていたことではあった。世代差を差し引いたとしても、多くは「大学生」としての常識のレベルは低く、レポートの叙述は文章になっていない。体は大きくなったけれど、頭のなかは「幼い」としか言いようのない学生がかなりの割合にのぼるのである(もっとも、最近では小中学校の教員にも、主語・述語が混乱していたり、意味不明の文章を書く人が少なくなく、読書と縁のない先生も多いという)。それでいて、いまの大学生の日常は、学費や家賃支払い等にあてる「アルバイト」で大きく費やされているのである。
アンケートは「基礎」であって、小学校高学年あたりから今日までどのような本を読んできたかをしらべる目的だったが、ごく一部を除いて、教科書などで読まされた以上のものはまったくといっていいほど読んでいない。というよりも、回答の様子から判断して、「本」にはあまり興味なく記憶していない様子が窺われるのである。
例えば「ヘルン」と「ハーン」が同一人物であることを知らない学生や「ラフガディオ」で検索しても出てきません、と言う学生がいた(「ガ」でなくて「カ」なんだけれど……)。
すなわち、あたりまえのことながら、日本の大学ないし大学生の間には大きな格差がある。大学生に「本を読んで」といっても、その読むべきというより彼らが潜り抜けるべき「読書体験」のレベルは、「前提としての格差」によってまったく異なるのである。

一方、大学教員は基本的に本ないし読書が好きで、学業優秀者として社会の階梯を上ってきた人々がほとんどである。二分法でいえば、その多くは人生の勝ち組に属する。その言葉、例えば「本を読め」は、格差社会のなかですでに二分されたとぼんやり意識している学生たちには、ストレートには届き難い。
彼らの本音は、おおむね楽をして「単位」がとれればいいというところに所在する。授業料を無事納め、大学を無事卒業し、どこかしら就職先にひっかかることができればそれでよいと思っている。もちろん、そうでない者もいる。いかほどかの努力をしてでも、何かしらを得たいと思う者は存在する。しかしそれは少数である。
「大学」が水増し状態になったと言えば済むことかも知れない。昔の中学生(?)が大学生と言っているだけといえばそれでいいのかもしれない。しかしこの「格差」の根源には、反知性主義というよりもニヒリズムの匂いが漂う。

本はなぜ読まなければならないのか?
読書は、それ自体が自己目的ではない。それは格好(スタイル)ではない、ステイタスでもない。
ロンドン大学で長く教鞭をとった森嶋通夫(1923‐2004)は、岩波文庫別巻(非売品)の『読書のすすめ』(第5集・1998)で
「読書は思考のための補助行為である。こういう立場からは、(一)書物はそれ自体の学術的価値だけの理由でなく、(二)読者の思考を刺激するように役立つ形で出版されなければならない」と書いた。
そうして「古典」について、「逐語訳をしない」翻訳の鉄則や、適切な編者解説の付いた「思い切った抄訳」が、「出版」としては望ましいと、主張したのである。
それは貴族子弟の高等教育をもっぱらとしたOxbridgeに対して、「最大多数の最大幸福」のJ・ベンサムを奉戴し「公衆にひらかれた大学」を標榜する、ロンドン大学教員の骨頂でもあった。

私の夢想は、日本列島がいまだ縄文時代末期ないし弥生時代初期あった頃に書かれたプラトンの『国家』を、学生たちとともに読むことであった。それは、「今を考える」ためであった。
しかしその行為の実現は、適切な翻訳ないし抄本テキストなしには難しい。さらにひるがえって、本もしくは人が書き残した言葉(テキスト)への、受入れ側の親和的環境なしには、それは成立し得ないのであった。

書き残された言葉も、ある意味で「夢想」である。
その「夢想」をこそ、人は伝え遺し、不断につくりあげる社会の礎とするのである。ニヒリズムではない「夢想」への親和。
そうして夢想は、かつて「本」にあった。しかし、いまそれはかならずしも「本」の形をとる必然性はない。デジタル・メディアに読む言葉も「夢想」でありえる。森嶋通夫の主張は、デジタル社会にこそ生かされるのかも知れない。

本でもスマホでもかまわない。「高校生までの基礎読書」と、それ以後の読書体験に、彼らを導くこと。
一定の本を読むにもあるいは読書にも、読まれるべきテキストの準備が必要であり、また読む側の一定の「育ち」つまり素養(知識)と習練が前提とされる。読みに導く側にも、もちろん素養と習練が前提でなければならない。また、テキストの準備および両者の素養と習練は、それぞれ完了形ではありえず、同時あるいは相互進行形である。
そうして、いま、ここ、の「読書スタートライン」は、ひとりひとりが異なる。しかしその「読書」は、いま、ここ、にいる自分、その存在の根源に触れる「テキスト」でなければ「スタート」しえないのである。

授業としては、学生各自の「基礎スタートライン」もにらみつつ、毎週1点の短篇を選んで「単位直結の課題」(ポイント制)として、読むことを強いている。つまり読んだことを証明すべくレポートさせるのだが、「基礎」のないところでも「吊り橋」を架けるほどの効果はある。並行して、本格的構造物を建てる基礎作業は、もちろん必要なのである。
読書は独りの行為である。他者が強いて介入すべき行為にはなじまない、という伝統的な考えがある。
けれども、私たちをとりまく「世界」は、圧倒的に「読み」を必要としない環境になだれ込んでいる。読めない、そして書けない若者が育っている。「読み、書き」は、意図して、意識して育まれなければトキや二ホンカワウソ状態に近づき、言われただけを受け入れる行動スタイルが基本となるだろう。

児童から若者まで、人間として「考える」ための基礎は、「教育」がなければ成り立ち得ないのである。
大学生にも、まずは「読書への誘い」(あるいは科目めかして「読書学入門」でもよいが)の履修コースが必要なのである。
OECDの「国際到達調査」で、常に上海、韓国、フィンランドの後塵を拝している日本の子どもたちの「読解力」に危機感を抱いたのか、文科省が認可して江戸川区の小学校には「読書科」が設けられたという。
しかし、われわれが直面しているのは「本を読んでこなかった大学生」「これからも本を読まないかもしれない大学生」である。
そのために、とりあえず「岩波少年文庫」をベースに、高校生段階までに読んでおきたい基本図書200点のリストをつくってみた。2学期からのレポート課題のリストとするつもりである。
幸い大学図書館のスタッフがこのリストに目を留めて、とりあえず岩波少年文庫の全冊を導入し配架すると言ってくださった。ありがたいことである。
さらにすすめているのは、《大学生でも、おとなでも、「絵本」》リストの作成である。学生が質の高い絵本に接し、それを彼らが授業中に「読み聞かせ」をする時間も重要ではないかと思うのである。

ところで「読書」からは逸脱してしまうが、《大学生でも、おとなでも、生涯にみておくべき「映画」》リストもつくってみた。年代順に45本。モノクロ映画が主体である。DVDが手に入り難いものもなかにはあるが、ほとんどはレンタルできる。「洋画」に日本語吹き替えなしで親しめるようになることも、ひとつの夢想である。これらの映画は、われわれ、そして若い人たちが、現在を生きるための基本的「素養」のひとつだと思っているのである。

◆戦時改描
戦後日本の地図研究者の一部で言い出され使われていただけなのに、今ではマニアックな地図好きなら大抵知っている、という言葉のひとつに「戦時改描」があります。おもに第二次世界大戦時の旧陸地測量部の地形図に関してですが、爆撃などの対象となりそうな軍事施設や工場や水道施設、皇族らの邸地までを、公園などに描き変えたことを指したものでした。「改描」以前も、例えば要塞地区はそもそも「秘図」として地形図を公開しませんでしたし、皇居や重要軍事施設は「白抜き」とする描法も、実は江戸時代から日本ではおなじみの手法だったのです。しかしながら、そうした子供だましのような情報統制はもっぱら国内つまり自国民向けにしか機能しませんでした。対外的にそれがいかに無意味であったかは、アメリカの公文書館や議会図書館の日本関係資料をチェックするだけでも一目瞭然です。そもそも地形図の改描自体、素人目にも逆に「ここは何かある」と気づくような粗雑な描法が一般的なのですが、現今のマニアの間ではなぜか「戦時下のプロ仕事」として特別視されているようです。
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1932(昭和17)年空中写真測量・三千分一之尺「国分寺北部」から「戦時改描」の例。広大な「白描」部は当時の陸軍多摩技術研究所(ほとんどが現東京学芸大学キャンパス)の敷地

◆地理空間情報統制法
デジタル・ネット環境が一般化した今日では、地図どころかそのもととなる情報つまり空中写真なども個人で手に入れることは容易で、またそれを加工してそれぞれの目的にあった地図すら作り出せるようになりました。だからというべきか、最近インド政府は地図や人工衛星画像データの利用を許可制とする「地理空間情報統制法案」(Geospatial Information Regulation Bill)を発表しました。これに対してインド国内では「Save The Map(地図を救え)」キャンペーンがオンラインで広まっています。法案は「30年以上前」への逆行で、それによってニュー・ビジネス全般が委縮するばかりでなく、現在のグーグルやアップルなどのインターネット情報一般に悪影響を及ぼすことを恐れると言います。
当局は、それが最終的なものではないとし、法案に対する意見を求めて事態の鎮静化を促す一方、パキスタンなどに根拠地をもつテロリスト攻撃の可能性への注意を喚起し、国境と領域保護の観点から法の必要性を主張しています。しかしながら、当局がどのように訴えようと、今やGeospatial Informationすなわち地図や衛星画像などの「地理空間情報」は、どこからでも、誰もが、容易に入手できる時代です。仮にそれが成立したとしても、当面する目的のためには実効性をもち得ず、一般情報の質と信頼性を低下させるだけになるのは、火を見るより明らかなのです。

◆支配と情報
しかしながら為政者の「情報統制」への欲望は、それが実効性をもたず、非合理で愚かなものであったとしても、いつの時代も消滅することはないでしょう。なぜならば、「権力の性向は、常に権力維持そのものに向かう」からです。つまり、人間の人間に対する支配とは、秘密にしたり制限したりする、「許認可権」そのものに由来し、国家官僚であろうと地方公共団体の小役人であろうと、ひとたび支配の側に立てばそれを手放そうとしないばかりか、密かに、あるいは今回の例のように正面から、権限の拡張に腐心するのが通則で、それはなんといっても許認可権が「力」の淵源であり、また贈収賄と「天下り先」の温床に他ならないからなのです。
国家官僚による専制政治が長い伝統である、日本を含む東アジアにおいて、地図は支配の道具として世界の歴史のなかでもきわめて早くから発達しました。だからというべきか、逆にというべきか、現代中国にあっては、地図は一般的に流通しているものの、標高数値などを記載した「地形図」は、一般には見ることも手に入れることもできないのです。また流通している地図においても、当局の情報統制は行き届いていると見なければならないでしょう。かつての日本のそれのようにラフではない、スマートな「改描地図」が流通している国々も少なくないでしょう。
インドの規制法案は、私たちが対岸の火事と思って澄ましていられるような出来事ではありません。極東の島国においても、「公共測量の成果」(地形図や地図のもと・あるいは地形図そのもの)を使用ないし利用するには、いまだに「申請」し「許可」を得る必要があるのです。
また、2011年3月11日以降の一定期間、日本列島に住まう人々がもっとも必要とし、あるいはもっとも関心をもっていた情報を端的に示す、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)というデジタル地図が非公開とされた事実も想起されるでしょう。この場合は、そのシステム構築に膨大な税予算が投入されたという事実とともに、非公開が多くの地域住民の被曝という直接的な被災をもたらしたわけですから、実効性のない「戦時改描」などとは比較にならない「日本地図史上の一大愚件」だったのです。

情報統制によって維持される権力はいずれ腐敗し、「お上」の情報に対する信頼は空洞化します。つまりアンダーグラウンドの情報系がオフィシャルな情報基盤を文字通り侵食し、それを崩壊させることになるです。したがって、開かれた情報により、権力そのものが常に相対化されている状態こそ、人間社会が安定して維持される「定常系」であると言っていいのです。

芳賀 啓(日本地図学会評議員・東京経済大学客員教授)

*以上は「時事通信」のコメントライナー(2016・6・16配信)の原文です。配信文は400字ほどカットしています。