6月 21st, 2016
Save The Map ―戦時改描と地理空間情報
◆戦時改描
戦後日本の地図研究者の一部で言い出され使われていただけなのに、今ではマニアックな地図好きなら大抵知っている、という言葉のひとつに「戦時改描」があります。おもに第二次世界大戦時の旧陸地測量部の地形図に関してですが、爆撃などの対象となりそうな軍事施設や工場や水道施設、皇族らの邸地までを、公園などに描き変えたことを指したものでした。「改描」以前も、例えば要塞地区はそもそも「秘図」として地形図を公開しませんでしたし、皇居や重要軍事施設は「白抜き」とする描法も、実は江戸時代から日本ではおなじみの手法だったのです。しかしながら、そうした子供だましのような情報統制はもっぱら国内つまり自国民向けにしか機能しませんでした。対外的にそれがいかに無意味であったかは、アメリカの公文書館や議会図書館の日本関係資料をチェックするだけでも一目瞭然です。そもそも地形図の改描自体、素人目にも逆に「ここは何かある」と気づくような粗雑な描法が一般的なのですが、現今のマニアの間ではなぜか「戦時下のプロ仕事」として特別視されているようです。
1932(昭和17)年空中写真測量・三千分一之尺「国分寺北部」から「戦時改描」の例。広大な「白描」部は当時の陸軍多摩技術研究所(ほとんどが現東京学芸大学キャンパス)の敷地
◆地理空間情報統制法
デジタル・ネット環境が一般化した今日では、地図どころかそのもととなる情報つまり空中写真なども個人で手に入れることは容易で、またそれを加工してそれぞれの目的にあった地図すら作り出せるようになりました。だからというべきか、最近インド政府は地図や人工衛星画像データの利用を許可制とする「地理空間情報統制法案」(Geospatial Information Regulation Bill)を発表しました。これに対してインド国内では「Save The Map(地図を救え)」キャンペーンがオンラインで広まっています。法案は「30年以上前」への逆行で、それによってニュー・ビジネス全般が委縮するばかりでなく、現在のグーグルやアップルなどのインターネット情報一般に悪影響を及ぼすことを恐れると言います。
当局は、それが最終的なものではないとし、法案に対する意見を求めて事態の鎮静化を促す一方、パキスタンなどに根拠地をもつテロリスト攻撃の可能性への注意を喚起し、国境と領域保護の観点から法の必要性を主張しています。しかしながら、当局がどのように訴えようと、今やGeospatial Informationすなわち地図や衛星画像などの「地理空間情報」は、どこからでも、誰もが、容易に入手できる時代です。仮にそれが成立したとしても、当面する目的のためには実効性をもち得ず、一般情報の質と信頼性を低下させるだけになるのは、火を見るより明らかなのです。
◆支配と情報
しかしながら為政者の「情報統制」への欲望は、それが実効性をもたず、非合理で愚かなものであったとしても、いつの時代も消滅することはないでしょう。なぜならば、「権力の性向は、常に権力維持そのものに向かう」からです。つまり、人間の人間に対する支配とは、秘密にしたり制限したりする、「許認可権」そのものに由来し、国家官僚であろうと地方公共団体の小役人であろうと、ひとたび支配の側に立てばそれを手放そうとしないばかりか、密かに、あるいは今回の例のように正面から、権限の拡張に腐心するのが通則で、それはなんといっても許認可権が「力」の淵源であり、また贈収賄と「天下り先」の温床に他ならないからなのです。
国家官僚による専制政治が長い伝統である、日本を含む東アジアにおいて、地図は支配の道具として世界の歴史のなかでもきわめて早くから発達しました。だからというべきか、逆にというべきか、現代中国にあっては、地図は一般的に流通しているものの、標高数値などを記載した「地形図」は、一般には見ることも手に入れることもできないのです。また流通している地図においても、当局の情報統制は行き届いていると見なければならないでしょう。かつての日本のそれのようにラフではない、スマートな「改描地図」が流通している国々も少なくないでしょう。
インドの規制法案は、私たちが対岸の火事と思って澄ましていられるような出来事ではありません。極東の島国においても、「公共測量の成果」(地形図や地図のもと・あるいは地形図そのもの)を使用ないし利用するには、いまだに「申請」し「許可」を得る必要があるのです。
また、2011年3月11日以降の一定期間、日本列島に住まう人々がもっとも必要とし、あるいはもっとも関心をもっていた情報を端的に示す、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)というデジタル地図が非公開とされた事実も想起されるでしょう。この場合は、そのシステム構築に膨大な税予算が投入されたという事実とともに、非公開が多くの地域住民の被曝という直接的な被災をもたらしたわけですから、実効性のない「戦時改描」などとは比較にならない「日本地図史上の一大愚件」だったのです。
情報統制によって維持される権力はいずれ腐敗し、「お上」の情報に対する信頼は空洞化します。つまりアンダーグラウンドの情報系がオフィシャルな情報基盤を文字通り侵食し、それを崩壊させることになるです。したがって、開かれた情報により、権力そのものが常に相対化されている状態こそ、人間社会が安定して維持される「定常系」であると言っていいのです。
芳賀 啓(日本地図学会評議員・東京経済大学客員教授)
*以上は「時事通信」のコメントライナー(2016・6・16配信)の原文です。配信文は400字ほどカットしています。