Archive for 1月, 2019

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「国分寺崖線」の切通し

1889年(明治22)4月11日、蒸気機関車が武蔵野台地をほぼ一直線に駆け抜けたとき、新宿以西の停車場は中野、荻窪、境、国分寺、立川の5ヵ所しかなかった。
国立駅は1926年(大正15)、西国分寺駅に至っては84年後の1973年(昭和48)開業である。

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国立駅東側の中央線の切通し
この段丘崖(斜面)はさらに左手(西側)につづき、上位面と下位面の比高は約10mである

しかしながら現在の西国分寺駅と国立駅の間、国立駅改札から約300m東側に存在するこの切通しは、往時の姿を大分変えたとは言え、それ自体は19世紀末春の甲武鉄道開業当時から存在していたのである。
国分寺崖線などという造語ができる数十年前、国分寺と立川の間を通っていた段丘崖を可能なかぎり緩傾斜で通過するため、切通し路線は削出された。
だから地上をひた走って来た汽車は、国分寺停車場あたりから地下にもぐる。地上の一区間、傍目には煙と蒸気が地表から上がるように見えたはずである。
煙や蒸気がなくなったとは言え、現在でも切通しにもぐる姿はかわらないのであるが、大規模に拡幅され、周囲に建造物が立ち並び、また路線の大部分を高架部が占めるようになって、掘削構造が意識にのぼることは少ない。

凸部を掘削して凹部を埋めるのは、日本列島古来「土木」の基本で、水運の便がないかぎり掘削で発生した土砂は可能な限り至近の場所に「利用」されたのである。
したがって、この段丘崖越えのため掘り出された関東ローム主体の「土」の幾割かは、至近の凹部すなわち野川源流部の築堤路線敷設に利用されたはずである。

しかし当初は単線であり、掘削土量は江戸時代初期の本郷台地神田川放水路開削の何分の一にも及ばない。
甲武鉄道敷設最大の難工区は多摩川架橋にあった。
また台地の小開析谷や微高地への対応工事について見るべきところもあるが、これらは別に触れたい。

開かずの踏切として有名だった武蔵小金井駅東側の小金井街道の踏切が廃止されたのは数年以上前の2012年頃だったように思うが、三鷹から武蔵小金井の間の車窓の冬景色に、富士山を目にできるのは新鮮であった。
しかし国分寺駅に近づくと光景は急に地表に下り、さらに周囲は切通の崖となるのである。
東京経済大学のキャンパスの北側を走る中央線は、短い区間ながら地上線なのである。

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この「下り」電車の後尾車輛は地表にあるが、その先は切通し路線に入っている
写真左手は東京経済大学の塀である

段丘崖を越えるために、それに直交するまた別の人工崖が造りだされる。
これは私の「坂の5類型」のうちの第4、第5類型の施工原理でもある。

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謎のトンネル口

正月休みを利用して中央線と国分寺崖線の関係を撮ろうと出かけたが、国分寺駅から国立駅までの切通し区間のうち、西国分寺駅と国立駅の間に出現する、さらに低い掘割状の路線が地下トンネルに向かう光景に興味を引かれた。

地図には鉄道のルートは描かれるが、それは通常「総描」されているため一本一本の線路が示されるわけではない。現行鉄道の多くは複線あるいは複々線(以上)だが、地図は原則「単線」なのである。

だから、写真に写っている線路のうちどれが「上り」か「下り」か、あるいは場所によっては〇〇線の上りなのか××線の下りなのかは、その場で現認するか動画で見ない限りわからない。
まして、真ん中のめったに電車の現われない地下のトンネルが一体何に使われ、どこへ向かうものかは謎である。

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陸橋「戸倉橋」から西国分寺駅方面(2019・1・2)
写っている電車は「上り」

しらべるとこの掘割路線は「国立支線」といい、もっぱら中央線八王子駅方面から武蔵野線の新座方面へ貨物線を走らせるための施設で、時には「むさしの号」という旅客列車も通るらしい。

武蔵野線の掘割やトンネルと言えば、1991年10月の新小平駅水没事故が想起される。
西国分寺駅側に口を開けている「穴」は、謎と言うよりも「非常なる自然」への入口のように見える。

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2019年始

木枯しを聴く戸を少し開けたまま

テレビを棄て3年、ご近所付き合いもご免蒙って2年目、東京経済大学コミュニケーション学部の客員も古希を迎える今春で任期満了、いよいよ憧れの隠遁生活に突入します。

出版に関して昨年は『季刊Collegio』をNo.67~69の計3号と田原光泰さんの『「春の小川」はなぜ消えたか』の2刷、本田豊さんの『部落はなぜつくられたか―茨城県の部落史』の初版のみでしたが、原則として毎月行ってきた「古地図であるく」自主講座は年末で121回目を数え、「東京23区微地形分類」もこころみることができました。

隠遁を旨とはしつつ、今年はこれまで書かれたもの、書いてきたものをとりまとめ、いくつか梓に上げることができればと思っております。
変わらぬご厚誼をいただければ幸いです。

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事実上再開発が始まっていた麻布我善坊谷(2018・12・1)

上掲腰折れの木枯し(凩)は初冬の季語で、初春にはそぐわないでしょうが、人生の終末近くには春も縁遠いと思いましたのでこのままとしました。昨今の気密性の高いアルミサッシ戸は、ほんの少しだけ開けておくと楽器よろしくビョウビョウと、懐かしい冬の音を奏でてくれます。荒涼とした再開発地の写真も無常を感じるには相応しいように思えます。

我善坊谷は、二代将軍秀忠の正室お江の方の葬儀、それも当時珍しい火葬に関連した重要な土地なのですが、それにちなむ寺院(徳川家康最古の画像を蔵する大養寺)もいまや風前の灯。
そもそも江戸幕府将軍家で、火葬された将軍やその母方がいったい何人いたのか。
他にはほとんどいなかったと思われますが、それも調べは済んでおりません。