2004年6月10日『東京新聞』『中日新聞』掲載
ともに夕刊・文化欄に「大戦末期の極秘地図を編集」として掲載(ただし、第一段落を割愛)

史料としての地図、とりわけ大縮尺のそれを公刊することを20年あまり生業としてきた。しかしながら久しく念頭を去らなかった疑念は、その行為の結果が、世に受け入れられ、役立っていたのかどうか、ということであった。テキストクリティークという言葉があるが、ひとつの出版物をつくりあげるという行為は、ひとりの人間を吟味して世に送り出すことに匹敵する所作であって、素知らぬ顔をしながら心を向け、体力と資力、時間をつくして、それ自身の力で世に受け入れられ、新たな価値の創出に寄与し得るまでに配慮することではなかったか、という思いがある。愛がなくても子は育つ、わけではない。愛ばかりでも。

いかなる物語も、人の生死も、場所を伴っている。地図はひとつの言い方をすれば神の掌であって、何人といえどもその視線を逃れることができない。世にあるものは場所を脱し得ず、ついに地図から逃れられない。場所とは空間の一面ながら、ひとつひとつの所業の在処を直接指し示す。地図とは、場所を指し示すものすべての謂いである。 そうしてまた、地図は時間をも指し示す。たとえそれが錯誤や歪曲を伴っていたとしても、時間は逃れようなく地図に付帯する。

かつての現世を反映した古い地図が、出版物として世に役立ち得るためには、図葉ごとに三層の装置が不可欠であると考えている。ひとつは、地図の内部に記載されている言葉の一覧、すなわち注記分類索引。ひとつは、それ自身の点検のために、比較されるべき、信頼できる現在の地図。そして最後のひとつは地図を解析するヒントとなる、一連の、外部からの言葉(いわゆる解説)である。地図は基本的に図(イメージ)であって、言葉の世界の序列に属さない。しかし言葉の世界の外部を指し示すためにも、地図は言葉を必要とする。言葉も、その原形質はイメージにほかならないからである。< 互いに位相を異にする、図と言葉の相克、あるいは相補。ノイラートの『絵とき人類史』のシリーズを念頭に置きながら、地図史料出版の「標準」を模索した。古い地図は、そのままでは情報の原石にすぎないのである。

原石の研磨剤は記録としての言葉である。各市町村史、とりわけ地図が作成された、大戦末期の三年間の記述をできるだけ丹念に拾い、場所にふりわけ、要約して綴っていった。しかしながら当然にも、地域の外部者の作業としては限界がある。最後の段階で、多くの方々に点検と教示を仰ぎ、漸くに本書は一人前の身づくろいをして世に出ることになったのである。

地図に入りこむための言葉を紡ぎながら、地図自身が雄弁に語りだす局面に出会った。「人跡は水跡に沿う」とでも言うのだろうか。玉川上水以前、開拓前線は一般に水路や川を遡行していたし、また湧水点は遺物の出土地点と膚接するのである。建物群が等高線を覆い隠す以前の「地形」図の威力であった。そうしてまた、景観史という言葉に倣えば、音景史もありえるのだった。

田無の「谷戸のブウブウ」とは、中島飛行機のエンジン試験工場の謂いで、十五年戦争期は四六時中の大騒音だったという。昭和九年に南沢に引っ越してきた自由学園とは、一キロメートルも離れてはいなかったのである。工場ばかりでなく、号令やサイレン、自動車の警笛や爆撃音、呼子やラジオの音、叫び声は、それまで桑畑と雑木林を風がわたっていた多摩地域の音の景観を確実に塗り替えたのである。立川が軍都だったとすれば、それはまた音の都でもあった。後世に遺されることのなかった様々の音もまた、目を凝らせば図柄の間からそのいくつかを聴きとることができるのである。例えば、サーベルと拳銃が交叉した憲兵隊本部の記号からも。

衰えんとして、再び活気を帯びた音もある。水車は、戦争末期の電力制限によって動力源として見直され、一時盛んに用いられたのだという。のどかなゴトン、ゴトンの響きは、サイレンや爆音と共存する折があった。一見元気そうな音も、朝の風に混じっていた。疎開してきた子どもたちが、分散宿泊先の寺や農家の蚕室から、隊伍を組んで所定の国民学校に向かうときに歌うことになっていた軍歌の類であった。

戦争末期の桑や松などの樹木の運命とその残照についても、解説に盛り遺したことがある。しかしいつまでも地図が抱え込まれていてよい訳がない。この本の刊行がひとつの契機となって、私たちの生きる社会の基層が、その具体相において発掘されることを念ずるばかりである。

〔芳賀 啓〕