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自主講座再開

自主講座を再開します。
再開第1回は来月9日木曜日です。
概要を右の「お知らせ」(自主講座・古地図であるく)でご覧の上、お申込みください。

下の写真は、手記にある「家の裏手の小高くなっている所の崖」である。

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それは馬場下の小倉屋から夏目坂を100mほど上がった左手奥にある。
300余人が一挙に亡くなるほど収容能力のある壕といえば、理工学部が関係した施設と考えるのが妥当だろう。
それが感通寺碑文にあるL字型だったか、手記に書くU字型なのか、いずれかを確認する材料はいまのところないが、爆撃火災の煙を吸い込む煙突の役目をしたというのだから前者の可能性が高い。

この崖は、地形形成史の観点からみると、夏目坂の緩斜面造成のための切通し工事とそれに沿う家屋、店舗の敷地確保ないし拡幅のために人工的に作り出された高低差4メートルほどの急斜面であって、自然の作用にかかるものではない。

国家が開始した戦争であるにもかかわらず、ひとりひとりの人命を守るべき防空壕の造成責任は、概ね「末端」に投げ渡されていた。
タヌキ穴のような、哀れな防空壕が各家庭の庭に無数につくられ、その大方は何の役にも立たなかったのである。
何万人という人々が地下鉄(ロンドン)を避難所としそれを援助した政府と、地下鉄への避難を禁止した政府。
この列島の「民人(たみひと)」は、何と情けない「政府」しか持てなかったのかとあらためて思う。

それに較べ、低いとはいえ至近の崖を利用した例外的に大規模ないし集中数多の壕が、おそらくは大学の関与をもって用意されたのである。
その設計が、逆に避難者全滅ともいえる惨状をつくりだした。

『土地の記憶から読み解く早稲田』の著者や大学史編纂関係者に問い合わせるすべを知らないが、これだけ重要な歴史的事実がいまなお上に挙げただけの記録にとどまりその解明がなされていないとすれば、これまたまことに情けない「ブラックホール」状態と言うほかないのである。

先に『土地の記憶から読み解く早稲田 ―江戸・東京のなかの小宇宙』(ローザ・カーロリ著、2021)なる新刊本の基本的な問題点を指摘したが、その例として「土地の記憶」上欠落許されざることがらのひとつを以下紹介しておこう。

早稲田大学喜久井町キャンパスの一画に、それはひっそりとたたずんでいる。

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写真の右下に見える碑文は以下の通りである。

  戦没者供養観音像建立の由来
 第二次世界大戦の終局も近い昭和二十年五月
 二十五日(一九四五年)米空軍の東京空襲は山手
 地区の多くを焦土と化した。
 理工学研究所も建物のほとんどが焼失し、
 とりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕
 に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて
 三百余名が火炎と煙に包まれて、悲しくも尊い
 犠牲となった。
 昭和三十年五月、罹災十周年を迎えるにあたり
 これらの人々の霊を慰め、永遠の平和を祈願
 するため本観音像を建立した。
  昭和五十八年三月
   観音像製作者 二紀会 永野隆業氏
    早稲田大学理工学研究所

馬場下で早稲田通りから牛込柳町を目指して分岐する坂道を、喜久井町の名主であった夏目家の名をとって夏目坂という。
夏目坂を上る右手、西側には寺がいくつも並んでいる。
そのうちもっとも坂上にある感通寺の境内には、もうひとつの観音碑を目にすることができる。

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縁起碑の全文(漢字は新字に、仮名遣いは原文まま)を以下に掲げる。

  造立縁起
 昭和二十五年五月二十五日当町ヲ含メテ山手地区ハ米空軍ノ空襲ヲ蒙リ悉皆灰塵ニ帰セリ酸鼻ノ状タル死屍
 累々トシテ巷ニ倒レ残月白骨ヲ照シ遂ニ惨害ヲシテ異物ト為スノ観ナリキ。殊ニ夏目坂台地ヨリ早稲田通リ向ケL字型ニ
 構築セル地下壕ノ中ニ避難ノ人々ハ爆撃炎上ノ焔ト瓦斯ノタメ犠牲者参百有余名ヲコエタリト。親ハ愛児ヲ抱キ、若キハ
 老タルヲ庇イ、夫ハ妻ヲ助ケント為シタル等、或ハ全身大火傷炭化シ、或ハ生ケルガ如ク直立シ、或ハ両手ヲ虚空ニシテ落命
 セル等、目ヲ蔽イ言ヲ失フ恐怖地獄ノ惨状ナリキ。惨害無残非命ニ倒レシ犠牲ヲ念フトキ人皆歔欷シ或ハ慟哭シ
 心折レテ生事ヲ悲シムノミナリ。屍ヲ積ンデ草木腥ク流血ハ瓦礫ヲ染メテ声ナシ、マコトニ国破レテ山河アリ、魂魄招
 ケドモ再ビ来タラズノ感慨ヲ深カラシム、ココニ春風秋雨メグリテ三十三年ノ歳月ヲ閲ミシ漸クニシテ観世音菩薩一体ヲ造
 立シ奉ルコトヲ得タリ、願クバ日米彼我戦没之諸英霊、町内戦災殉難之諸精霊、当寺戦死病没之諸英霊
 鎮魂供養ノタメナリ。今ヤ一会ノ大衆トニ梵唄誦経修スル所ノ秘妙五段ノ加持ヲ以テ観世音菩薩御尊像
 開眼供養ノ法儀ヲ営ナミ、仰而喜久井町観音ト名ケ奉ル者也、造立シ奉ル喜久井町観音、ソノ妙智之
 力ハ能ク群生ノ苦厄ヲ救イ、十万諸々ノ国土ニ於テ身ヲ現ゼザルナク、克ク生老病死ノ苦ヲ減ジ常ニ苦悩諸厄ニ於テ依怙
 トナラセ給ハン事ヲ。
   昭和五十二年五月二十五日 造立願主感通寺 二十世伝灯 新間日恵(花押)

また隣接の「町慰霊園」碑には次のようにある。
 「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ!!と子供を抱えて震
 える私の手も肉もやけどでじんじん落ちていきます。」成願寺報五五号抜粋
 昭和二十年五月二十五日米軍山之手地区空襲の一般庶民の惨状だった。
 五十八年余を経て今日それでも忘却のかなたに去ろうとしている。後の私達は
 歴史として伝え継いでいかなければならない務めがあると痛感し平成十六年
 五月二十五日、當山に於て前大戦で亡くなられた人々の供養の為に慰霊園を
 作庭し名を刻し永遠に町会員と共に現在も生きて在しますことを顕すもので
 ある。         伝燈二十一世日良記す

 以下、犠牲者89人の氏名(一部法名付。氏名不明「長男」などもあり)

この防空壕での犠牲者に関するもうひとつの記録は、『東京大空襲・戦災誌』第2巻(1975年)の733ページから736ページにかけての手記「ひとり消火に残った兄」という文章にある。筆者は当時牛込区喜久井町の高等女学校2年生(14歳)、長谷川佳通子氏である。
そのごく一部を次に抄出する。
  
  高松へ行ってから一週間ぐらいたって、ふたたび上京していた姉
 が、兄の遺体が見つかったことを知らせてきた。それによると、家
 の裏手の小高くなっている所に早大の理工学部がある。その崖の部
 分に、U字型横穴が掘ってあり、そこへ兄は避難したらしい。ところ
 がこれがU字型であったためか、ちょうど煙突のようになって煙が
 すいこまれ、中にいた人達は身体の損傷はないのに、ちっ息し皆死
 んだという。私が見た崖の中ほどに手をのばしたまま死んでいた人
 は、多分その入口近くにいたものの苦しくてはい出した所で気を失
 い、そのままあの世へ行ったものだろう。兄はポケットから出た早
 大の学生証で身元がわかり、知らされたようで、遺体はまとめて池
 袋の戦没者墓地に埋葬されていた。こうして焼夷弾が落ちたら消火
 せよ、万一の場合は防空壕へと、政府の指導通り実行した兄は無惨
 な死に方をした。(略)

 

仙台の句誌『澪』を主宰しておられた菅野洋々先生が亡くなられたのは、9年前の2012年10月31日未明。
同年12月号の『澪』後記はその訃報で埋められた。
手許にある先生のサイン入り第二句集『愛宕』の巻末「俳歴」には1928年岩手県生まれとある。享年86。
私がはじめて拝眉したのは1965年だったか翌年だったか。
本名菅野洋一先生は30代後半、小柄ながら颯爽、そのジェントルな声は懐かしく耳底に残る。
東北大学で阿部次郎に教わったから私は漱石の孫弟子、君たちは曽孫弟子、と冗談混りに仰った。
以下は先生とのご縁に触れた、佐山則夫氏の第二詩集『君かねウマーノフ』(2014)のあとがきである。

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先生は梅澤一栖(本名梅沢伊勢三)主宰の跡を継いで1967年に創刊された『澪』を1989年から主宰、2007年12月、当該誌第492号をもって病のためその務めから退かれた。
それでもなお『澪』は刊行を継続し、その「休刊」は2019年12月の第636号である。
私が見ることのできたバックナンバーは、B5判16ページカラー印刷という、句誌としては珍しい形態であった。
『澪』は仙台で発行された俳句誌のひとつとして、半世紀よく健闘したと言うべきであろう。

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武蔵野地図学序説 その4

この6日、角川文化振興財団の『武蔵野樹林』vol.8が発売された。
以下はそれに掲載の拙稿連載4回目5ページのうち、最初の2ページ分である。
例によって刊行後に気づいた誤植が1箇所。
執筆者の勘違いを、校正者も気が付かなかった。
図は往々にして本文ないしは文字部分より軽く扱われ易い。
図に本文と同等、あるいはそれ以上の価値や意味をみとめる編集者や校正者そして読者は、存外に少ないのである。

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今回の成果については、とにもかくにも実際に読んでもらうのが一番であるが、かいつまんで言えば正保年間の「武蔵国図」の入間郡に描かれた「山」の意味を、無縁や入会地と関連付けて読み解いたことがまず第一であろう。
さらに近世までの武蔵野と近代以降すなわち国木田独歩以降の武蔵野の意味合いを明確に切り分けたこと、および「堀兼井戸」と「野火止塚」の実態に迫ったことが挙げられるだろう。

あまたのビックリ本は措くとして、「早稲田」本(『土地の記憶から読み解く 早稲田 江戸・東京のなかの小宇宙』)については腰痛「自宅療養中」つれづれの余り、女房に図書館から借出してもらってひととおり読んでみた。
それで了解したのは、この本は「勉強しましたノート」であるということであった。

もちろん、著者による早稲田という「場所」についての勉強である。
さすがに「教授」だけあって、巻末の日本語文献だけで109も挙げてある。
しかしそれは玉石混交、しかももっとも基礎にあるべき文献が見事に欠落しているのである。誰も助言する者がいなかったのか、意図的あるいは無意識に排除されたのか。

巻頭には陣内秀信の「読書案内」が掲げられ、そこで陣内は「この四〇年ほどの間に展開した多様な学問・文化領域にまたがる江戸東京論の系譜のなかに、大きな一石を投じる極めて重要な著作」や「早稲田という限定された地域の「ミクロヒストリー」を論じつつ、それを江戸東京の「マクロヒストリー」という大文字の歴史に生き生きと連動させる知的で巧妙な仕掛けが組み込まれているのが凄い」と大仰に褒めちぎり、挙句の果ては「これまで眠っていた早稲田とその周辺の歴史・文化のトポスを魅力的に描いた本書は、単なるローカルな地誌なのではなく、日本の都市を叙述する上での普遍性をもつ雛形と言えるのである」とまでウケ持ち上げているが、そんなことはない。
言うならば、これまでの「江戸東京学」のほぼ埒外にあった場所が外国人学者によって取り上げられ、一冊の書きものとなって紹介され、その「学」に連なったらしい、以上の意義は見いだせない。

さらに言えば、読者は著者が勉強し紹介してくれるかぎりにおいて知らなかったことも教えられることもあるのだが、いかんせんそれがどうしたで終わってしまう。著者のオリジナリティ、言い換えれば勉強とその紹介以上の問題意識も、卓見や創見も見当たらないのは、著者の能力と人柄が良すぎるためであろう。
つまり早稲田という空間と時間そして事象、またそこに身を置いた自らをも対象化(クリティシズム)できていないのである。

ローマで愛車を走らせていた著者は、ヴェネツィアで「歩く」営みに目覚め、陣内に教わって「地形の意味」の視点を得たと書いているが、それがことばの上滑りに終わっているのは、この本にでてくる地形用語が「低地」と「台地」そして「目白台地」しかないことにも表れている。早稲田の地形は単純ではない。それらの語だけでは片づけられないのである。また「目白台地」は実は地形学用語でもない。

この冒頭でも触れたが、致命的なのは地域の歴史や地形に関しての基礎文献である「区史」がまったく参照されていない点にある。それは単純で粗雑な「地形」の記述からも明白である。
早稲田は北に位置する文京区に接するとはいえ、新宿区に所属する。
かつては牛込区の一部であった。
その基本書誌は以下の通りである。
『牛込区史』(1930)、『新宿区史』(1955)、『新修新宿区史』(1967)、『区立三〇周年記念 新宿区史』(1978)、『区立四〇周年 新宿区史』(1988)、『区立五〇周年 新宿区史』(全2巻、1998)。
これらのほかに、「資料編」や簡便な「あゆみ」もあるがそれは省略する。

この本は「ミクロコスモス」と「マクロコスモス」を短絡させて、「メソコスモス」を無視したともいえる。
ともかくも歴史については文句なく各区史や市史の類が、地形や自然環境に関しても凡百の単行本は無視して、まずそれが基本として参照されるべきなのだが、「江戸東京学」に典型的な雑学(百貨店的「小宇宙」!)に流れてしまったのである。

地形にかかわり神田川が取り上げられているのはいいとしても、その言説の多くがずっと下流の平川の流路変遷(しかも「太田道灌」!)に費やされ、早稲田地域を流れるそれの流路変遷と改修には一言も触れていない。叙述が千代田区や中央区にかかわる平川に飛んでしまうのが「マクロヒストリー」と言うなら笑止のほかない。
訳者は「日本の読者を想定したときの記述内容の相応しさという観点から、訳文の検討を要する箇所が散見された。こうした部分については、日本の最新の研究の動向を参照しながら(略)必要に応じて加筆・修正を行い」とあとがきに書いているが、それでいてとうの昔に「検定済教科書」からも削除された「士農工商」を堂々と掲げているのだからこれまたお里が知れる。

そうしたあちこちの「不都合」はさておき、この著者は早稲田地域の神田川沿いを歩き、その水がかつては水田灌漑に用いられたということに不思議は感じなかったのだろうか。
明暦の大火も関東地震の被災も免れた早稲田地区を含む新宿区域の都市史上の最大の景観変容は、この本で強調されている参勤交代や大名屋敷の改廃などではなく、近代の宅地化と第二次大戦下の空襲そして現代の「ビル化」をもって画期とする。そのうち宅地化と神田川のシフトは即自的な関係にある。
早稲田地区の景観変容は、アンソロポシーン移行すなわち地表の人新世シフトと軌を一にするのである。いま地域のミクロと同時にマクロを云々するなら、現生ホモサピエンスのフットプリントを対象化する視座は不可欠であろう。

鈴木理生は『図説江戸東京川と水辺の事典』(2003)において神田川の現河床がきわめて低いことを指摘した。
つまり元来そのような河川であれば、水田灌漑は不可能なのである。
鈴木はそれが河川改修つまり蛇行していた河流の直線化(ショートカット)に起因するとし、「ベルヌーイの定理」で説明した。
しかしそれは誤りであった。
神田川は井の頭池を水源とする台地河川で流量少なく、下方侵食がそもそも可能ではない。
現在の神田川の姿は都市化(住宅地化)に対応した人為、つまり洪水対策の河川改修、すなわち蛇行の直線化と河床の低下掘削工事の結果であった。

結論から言えばこの本が開陳しているのは著者によって意識的にないし無意識的に選択された都市の一側面、陽のあたった坂道物語であり、ダークマターやブラックホールをも視野に含む「小宇宙」などではなかったのである。

このビックリ本のビックリである所以は、考察のショートすなわちオリジナルなそれが少ないことと短絡、そしてクリティシズムの欠落した資料選択とその読みにある。
それでも近頃氾濫する街歩きや地形に関するドリンク(ドングリ?)本とは異なり、地域の表面に散らばる物語をかきあつめて、ともかくも咀嚼したという腹応えだけは感じられるだろう。

下のレントゲン写真を見ると、第三腰椎と第四腰椎の間、第四腰椎と第五腰椎の間がきれいに空いているのに対して、第五腰椎と仙骨の間は隙間自体が失われかけているのがわかる。

その隙間のクッション「椎間板」がはみ出る「椎間板ヘルニア」はよく知られているが、そうではなく椎間板自体が擦り減ってしまった腰椎の椎間板変性症である。
これが腰痛の原因。
まして筋肉や股関節の問題ではない。

8年前に担ぎ込まれ、ブロック注射の後で3週間ほど入院した救急病院の担当医のお見立ては「脊柱管狭窄症」だったが、症状から言ってもそれはまったくの誤診だった。

手術をする気はないから姿勢とリラックスや保温、体操やストレッチを心がける。
この場合はマッケンジー体操は不可、ウィリアムス体操系が妥当と思われるが、やってみるといずれも快である。
さて。

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ポピュリズムというよりウケがすべて、ウケ狙いだけの風潮が膨満している。
いつからこのように「世間」が退化してしまったのか。

テレビも家にはおかないし見ない、大概の新刊書店には立ち寄る気にもならない。
「隠れて、生きよ」というエピクロスの言がしっくり来る。
あまりにも愚かしい列島政治や市井の動向に棹を挿すつもりはない。
しかし仕事柄調べごとは常に生じる。
アマゾンでのモノ買いは避けているし、そもそも買う金がないので、勢い図書館に赴くことになる。

しかしそこで吃驚しあるいはげんなりし、もしくは神経を逆なでる「新刊本」に出逢うこともある。上掲書はその例で、今年の3月に出たばかり、230ページほどの小型本だが約3000円もする。
著者はヴェネツィアのカ・フォスカリ大教授ローザ・カーロリなる人物で1960年生まれという。日本近現代史、沖縄史、江戸・東京の都市史を専攻するらしいのだが、何気なくページを開いて驚いたのは下の図とそれに付されたキャプションである。

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キャプションには、「古神田川の流路変遷の概念図。ウェブサイト「神田川逍遥(http://www.kanda-gawa.com/pp004.html)」を参考に作成。(上)は、太田道灌が江戸に入城する前の図〔略〕。(中)道灌は以前の流れを隅田川に直接流すように改めた。〔略〕。(下)徳川幕府の時代になると、神田川を江戸城の外堀として機能させるため、現在の飯田橋付近から東流するように改めた」と書いているのである。

イタリアの大学教授も「ウェブサイトを根拠に本を書く」というトンデモ・ビックリがひとつ。
もうひとつは、またしても「太田道灌」説が学問めかして拡散されていることに対するげんなり感である。
そのウェブサイトは「太田道灌が(平川の流れを)改めた」の「典拠」をどこにも示してはいない。

平川の流路変遷については、1914年『東京市史稿 市街篇第貳』(a)、1935年菊池山哉(b)、1978年鈴木理生(c)、1988年以降鈴木理生(d)、2012・13年岡本哲志(e)の5説があり、そのうちのcとeが太田道灌が行ったとしている。
このあたりの詳細は拙文(「平川」『地図中心』2012年7月、他)を参照していただくとして、a~e説のいずれも確たる根拠があるわけではなく、推論、臆測あるいは蓋然性の域を出ないのである。

しかしcやeはそれぞれ複数の「本」で喧伝され、それがまた道灌伝説の一翼として読みやすく、広く出回ったため、ウェブサイトもそれを受売りしたものだろう。それぞれの「本」は仮定や臆測を重ねて「断言」し、図まで示したのである。
エッセイならいざ知らず、このような手法はおよそ「学」とは無関係である。
証明されないことは正直に示す、蓋然性はその限界を示すのが学問であろう。

早稲田は半世紀前の一時期我が生を託した場所である。
それを「読み解いた」本があるなら見てみたいとも思うが、この図とそのキャプションを目にした途端その気は失せた。
「お里が知れる」というのは、このようなことを言う。
学問めかしたウケ狙いが、またぞろ屋上屋を架したのである。

ビックリ本は今にはじまったことではない。
「アースダイビング」も「スリバチクラブ」も、その立論のもっとも土台となる部位からして虚偽なのだが、ウケ狙いが当たったものだから世にはばかるのである。

以下は本欄7月8日の「追悼中山ラビ」を改定し、後半を大幅に書き加えたものである。
誤植も訂正した。
中山ラビのライブや音盤はyoutubeでさまざまに発信されているが、比較的最近の「あてのない1日 中山ラビ&ラビ組 2018年11月17日 吉祥寺SPC」がホットである。
中山ラビが朝鮮半島と日本列島出身者とのハーフであったことに関しては、蓮沼ラビィのブログ「父恋の歌~中山ラビ追悼」を参照されたい。

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ラビさんは私より1歳くらい年長かと思っていたら同年だった。一度だけライブを見た(新宿ブルースナイト)が、細い体でよくあれだけの声量があるものだと感心した。客席の通路で遭遇して互いにハイタッチしたとき、「結構歌うまいね」と言ったら怒られた。

高校の最後のクラスに梅津和時君がいた。東京で再会したときはすでに「ドクトル梅津」で、ラビさんのライブでは大概彼がサックスを担当していたようだ。ラビさんと彼を共に舞台に見られる「ラビ組」の予約チケットを2度ほど買ったが、結局時間がなく行かずじまいだった。

国分寺マンションの1階に付設するラビさんのお店「ほんやら洞」は、4日間臨時休業の後で再開した。5階に住む私は追悼句を墨書し、消しゴムハンコの落款を押して店を継いだラビさんの息子一平君宛に託した。

国分寺駅南口(当時は跨線橋口)から3分の国分寺マンションが竣工したのは1969年7月で、その1階の東角店舗スペースに早川正洋が京都に倣って「ほんやら洞」を開店したのは1975年。外装は煉瓦とツタ、内装木調、いずれも手製の喫茶店であった。京都ほんやら洞の開業はその3年前。店名はもちろんつげ義春の名作「ほんやら洞のべんさん」に因む。店の核となった面々が「自前の文化」を模索した様子は、『ほんやら洞の詩人たち』(片桐・中村・中山編、1979年)に窺うことができる。

東京のほんやら洞は1977年3月3日、早川に代わって中山ラビが煉瓦とツタの店のオーナーとなった。爾来44年、「国分寺文化の象徴」(2017年10月2日放映NHK・BSプレミアム「Tokyoディープ」)とまで言われた店を、いや単に店舗のみならず「街の景観」を維持してきたのはシンガーソングライター中山ラビの手腕と人柄であった。 拙著にちなんだ私の仇名「ガケ博士」の名づけ親も彼女だった。

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ラビがとりわけ執心せざるを得なかったのは「ツタ」であった。マンション住人の一部から「虫が湧くからツタを伐れ」と言われつづけたのである。しかし逆にツタの這う煉瓦が身近だからここに住むという人間もいる。

上の写真は「ほんやら洞」入口脇の席から撮影した。お向いは「都立殿ヶ谷戸庭園」で、店は国分寺駅南口から東京経済大学への通学路にある。その正門に至る経路はここから300メートルほど緩い谷道を下って左折、急坂を140メートル上り漸く段丘面平坦路に至る。私がそこの客員教授だった折は逆をたどってよくこの席に座り、ツタの葉隠れに外を見ながら一息ついた。ただし写真撮影日は退任後の2020年8月11日である。この時、ラビさんの余命が1年たらずとは夢にも思っていなかった。「うたかた」である。
中山ラビが72歳で亡くなったのは7月4日、現行暦七夕の「すこし前」。だから私の追悼句は「七夕やすこし前ゆくラビの星」なのである。

ところで、句会などでは「七夕」は初秋の季語だから7月7日には使えないという意見が出る場合がある。「たなばたや秋をさだむる夜のはじめ」(芭蕉)はもちろん旧暦下の話。 近代の七夕句でよく知られたものに「七夕や髪濡れしまま人に逢ふ」(多佳子)や清瀬中央公園に句碑が立つ「七夕竹惜命(しゃくみょう)の文字隠れなし」(波郷)があるが、わざわざ旧暦をチェックして出掛けたり、結核療養所が8月に笹竹を立てたりしていたわけではないだろう。

暦とそれに伴う季節感は、1872年(明治5)に切り替わってすでに140年を過ぎた。わが母は1983年7月7日の誕生日に満60歳で亡くなった。それを追悼した拙句は「母擦〈さす〉ることなく死にす七夕」(『天軆地圖』2020年)というのである。

季語がなければ俳句でないとか、季語は旧暦に従うというのは、今日では虚構の花園ゲームに等しい。俳句が過去に繋縛されたまま現在に適応できないのであれば、玩具のように壊れて忘れられるだけである。
「百人一首」に見られるような和歌の都(みやこ)を中心とした時空(四季・歌枕)の虚構を脱し、短歌はリアルで切れば血の出る実世界に離陸した。その端的な例は近代の「やわ肌のあつき血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君」(晶子)であり、現代の「落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し」(万智)である。二首とも「自然としての身体」あるいは「自然としての欲望」が詠まれているのは象徴的である。

こうした短歌の趨勢に逆行するように、近代俳句の主流はあらためて季語を必須とし、無季派を排除かつ圧伏して今日に至る。歳時記や季語は、高浜虚子に代表される宗匠俳句の拠って立つ経典にして真言なのである。

季語をつくりあげている時空間の例を挙げれば、句中の「祭」は夏祭となる。山本健吉編『季寄せ 上巻』(1997年11刷)では「俳諧では祭と言って、夏祭を意味する。もとは京都の賀茂祭をただ祭と言った」と書く。しかし「ドンドンヒャララ」の文部省唱歌「村祭」に明らかなように、一般には収穫の終えた秋こそ「祭」の季節である。賀茂祭つまり葵祭の行われる5月とは、イメージも時間も大幅にズレるのである。これは短歌が卒業し、俳句がいまだ縋り付く都(みやこ)を中心とした時空ヒエラルキーの一端である。一方、「踊」は秋に分類され、それは盆踊の意となる。両者とも語のイメージは局所化され矮小化すらされるのである。

こうした「俳句らしさ」の虚構は、ツタを忌避する感性と通底している。ツタはそこでは野生的自然の表徴である。季語とは、馴致され盆栽化された自然とその景物や習俗の定式に他ならない。それは列島における「自然との調和の伝統」神話を再生産し拡散する装置であり、同時に自然破壊とエアコンを不可欠とする都市生活の現実に対する「精神勝利法」(魯迅『阿Q正伝』)である。

季語に捉われた俳句は、現行暦どころかリアルな自然とその変動に目を背ける結果、しばしば虚偽に陥る。季語の有無は俳句の本質に掛かるものではない。俳句は、音数律定型最短詩以外の何ものでもないのである。

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武蔵野地図学序説 その3

角川文化振興財団の季刊誌『武蔵野樹林』No.7(2021.7.5)掲載の拙稿連載5ページのうち、2ページを掲げる。
いつも刊行後に気付く誤植が一箇所。
誰の目をもスルーしていた。

もっとも原稿段階でこうなっていたのだろうから、責任は著者の私にしかないのだが。

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雑誌の特集は、夏休みの子ども向け所沢市舞台映画「妖怪大戦争 ガーディアンズ」である。
しかしながらもっとも怖くて怪しい存在は、いま生身で「脳」を働かせ、うごめいている人間とその手下の「システム」にほかならない。

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