2019年9月9日午前5時前「非常に強い」台風15号は千葉市付近に上陸した。
中心付近の最大風速は約40メートル、最大瞬間風速は約60メートルで、関東に上陸した台風では過去最強クラスであるという。
最大瞬間風速とは秒速のことだから、時速に換算すると新幹線の疾走する216kmとなり、人間は屋外では吹き飛ばされる。
この風雨の影響は甚大で、千葉県では一時90万戸以上が停電して断水も伴い、復旧通電の見通しも二転三転して首都圏の停電は長期におよび、6・7月の西日本暴風雨と併せ「令和」は激甚災害で幕が開いた。

こうした「経験したことのない規模」の強い台風は、今後ますます増発すると予想される。
街中を歩けば輻射熱と廃熱を全身に浴び、屋内ではクーラーがなければ夜も過ごせない夏はここ半世紀ほどの現象で、さらに「1950年代以降に観測された変化の多くは過去数千年の間では前例がない」(IPCC第5次報告書第1作業部会)という。
WMO(世界気象機関)は、過去5年で世界気温は最も暑く、気候変動が加速していると発表した。
いわゆる温暖化である。

春と秋が退化し夏が肥大化している。秋分の日を過ぎても北海道ですら夏の暑さが居座っている。
「日本にははっきりとした四季があり、色彩豊かな景観が楽しめ」などといった決まり文句は色褪せた。季語の大半は形骸化し、絵空事俳句が量産される。
海水温と平均海面高度は、世界的規模で確実に上昇している。そうして今日の気候変動と地殻変動は、日本列島で頻繁に発せられる「想定外」を無意味な言葉と化した。
この変動にもっとも脆弱で、現代生活にもっとも直接的な影響を及ぼすと考えられるインフラ施設は、むきだしの送電施設電柱と電線である。

停電の諸因は、台風の豪雨や強風、落雷や降雪、といった気象現象のみならず地震や火山活動さらに太陽フレアの大規模磁気嵐といった自然現象にかかり、また一方で発電や送電設備そのものの劣化やトラブル、コンピュータの誤作動や操作ミス、パワープラントの燃料不足つまり供給力不足や需要過剰に加え、航空機による送電線の切断そして火災や戦争などによる発送電設備の損壊といった人為の領域にわたる。
ロンドンやパリ、ベルリン、香港やシンガポールといった世界の大都市が無電柱化すなわち地中化を完了しているのにくらべ、この国の都市でもっともそれが進んでいる東京ですら4.6%と大きく立ち遅れて、電柱と電線は日本列島に目立つ。
それは歩道を塞いで歩行者や車椅子の通行を妨げ、垂れ下がって交通事故の一因をなし、都市部に貴重な樹木を畸形にし、伐り倒させる元凶である。
また町中蜘蛛の巣のように張り巡らされたそれは、二流以下ないしは後進国家の象徴でもある。

都市景観の面からは、無秩序極まりない看板や駅前パチンコ屋と並び、アグリと無様(ぶざま)の代表で、これらを野放しにしてよくも「美しい日本」と言ってみたり(安倍晋三)、オリンピックなんぞを呼んで来る気になると呆れてしまう。
気候変動は、原発汚染水と東京湾の汚染の飛躍的増加をも、もたらすことになる。前者は溶け落ちた核燃料が汚染源だがそれはともかくとして、トーキョーの下水システムの基本は悪名高き合流式のため、頻発する集中豪雨の後などでは汚水垂れ流しとなるからである。オリンピックのトライアスロンなどの選手は、お台場の海水の臭いに顔をゆがめるだろう。
これを分流式に改造するといっても、予算規模(10兆円以上)が大きすぎて計画を立てること自体が難しい。大地震や大型台風などによる停電では、この巨大下水処理システム自体が停止してしまう。

都市景観などは措くとして、上にあげた広範な停電の諸因のうち、とりわけ自然現象にかかるものの多くは送電設備の地中化によって回避できるのである。
北海道全道ブラックアウトにつづき、今回の停電被災がこれほどまでに長期化し、人間の生活いや生存自体を脅かす深刻な状況がつづいている状況の意味をまっとうに認識する者であれば、とりあえず無電柱化は喫緊の課題であると考えざるを得ないだろう。なにせ現代生活はそれがなければなにひとつ動かせない、はじまらないまでに電子化されている。都市は今やオール電動式である。
そうして、「次はトーキョー」である。

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今回の千葉や神奈川、伊豆諸島の台風被害と停電つづきの現状に対し、150年以上つづく「トーキョー国家」の、それも最長期政権にとってはまるで他人事、まっさきに考慮されるべき人間の生存と尊厳などは二義的で、まずは空気読みと上目遣い(いわゆる忖度)政治に終始した。停電真っただ中、もとよりお飾りキャビネット(内閣)の「改造」など意味をなさない。メトロポリスの小中学校教師や生徒たちの大部分は、他国に例のない運動会という見世物のために「東京五輪音頭」などの準備と練習に余念がなかったのである。
今年2月22日は地震により新千歳空港で175人が夜明かしをし、9月9日には台風のため成田国際空港の客1万3250人がホテルに向かえず、空港で足止めされた(朝日新聞デジタル版)。その混乱のなかでHellという言葉が飛んだという。

世界に冠たるメガシティでかつメガロポリスの中心である巨大都市がインフラシステムを破砕された場合、どのような Hell が出現するか、それがどのような影響をおよぼすか、想定するのは難しい。例えば、タワーマンションや超高層ビルオフィスといわずとも、通常の建物のエレベーターに何時間いや何日間閉じ込められるか、予想はまったくつかないのである。それはトーキョーの「スケールメリット」が、疾うにスケールデメリットからデンジャラスに転化していて(『江戸の崖 東京の崖』)、復旧見込みを極限まで無化するからである。
このスケールデンジャラス、つまり都市集積の野放図性は、トーキョーにまともな都市計画が存在しなかったというよりは、幾度か立案されたもののその都度なしくずし的に破綻してきた結果(1939年の環状緑地計画など)である。つまり、トーキョーの現在の姿は「破綻した巨大都市」といっていい。

前世紀は「戦争と革命の世紀」であった。昨今の地殻変動と気候変動の勢いは、今世紀が「災害と難民の世紀」となることを示唆している。おもえば、2011年の3月11日は列島におけるその闢(びゃく)日であった。
最近の知見ではこの2つの世紀は「人新世」(Anthropocene アントロポセン:新たな大絶滅の時代)として地層に印されつつあるようだが、気候変動と地殻変動が交叉する日本列島において雲居足下の動向を直視しようとせず、もっぱら見世物政治と「憲法改正」に腐心するため、災害対応を地方自治体と企業に投げ済ませ、列島にたどりついた「難民」を収容所に長期収容したままとしているのは愚悪の極みである。

災害多発世紀に避難者(難民)の生存と尊厳を守る世界標準はスフィア基準(sphere standard)である。
しかしそれが、一般の意識の端にのぼることはない。それに照らせば、役人や地域ボスが支配し、公平や絆を口実にパーティションを排除する「体育館避難所」などは日本の常識=世界の非常識のひとつで、逆に個々人の身体生理と精神を蚕食する場にほかならないことが知られるだろう。
またとりわけ日本列島で加速する高齢化と軽度認知症の割合は、被災の様相を複雑化し、対応を困難化するだろう。
その一方で明白なのは、トーキョーがその舞台となった場合、避難者の数と避難所の規模に対し、いかに全国動員したとしても、電源車も給水車も簡易トイレも、到底間に合うはずがないということである。

来夏のオリンピックが、せいぜいトーキョーの都市景観など「遅れた日本」を世界に知らしめる程度で済むことを祈るか、「適度な自然災害」に想定と対応不足の恥をさらして自己認識の覚醒を期待するか、いずれとなろうか。
ただひとつ言えるのは、地殻変動(内的営力)や気候変動(外的営力)といった自然の営為の激化による巨大災害に対しては、防災ではなく減災の途しかありえないということ、その最良の方法は巨大都市の解体と疎開にあるということである。
トーキョーの解都ないし廃都は、実は意外と近い将来にやってくるかも知れない。
しかし現実には、ことはトーキョーに限らない。
日本列島の巨大都市圏居住者は、とりあえずそこ以外の地表のどこかに、「疎開先を予約」しておくべきなのである。

昭(あきら)けく和して骸(むくろ)の三百万いま令されて和して難民

collegio

うたの位相 その4

本欄「その2」で触れた吉田嘉七の『ガダルカナル戦詩集』は記録文学と言ってもいい内容をもっているのだが、それが今日まで遺るのは、「餓島」と化したガダルカナル島で生き残りさらにインパール作戦に従軍することになった吉田が、軍事郵便も途絶したなかノートを遺書としてラングーンの毎日新聞支局に預け、内地の大木惇夫に届けられることを念じた結果という。

ノートは奇跡的に大木のもとに届き、その数編が毎日新聞の第一面に掲げられたのである(吉田嘉七「制作・発表おぼえ書」『定本ガダルカナル戦詩集』1972)。

  かて(短歌)
 
 粉味噌も遂につきたり、明日よりは
 塩ふりかけて粥はすすらむ

 一合の米わたる日は五勺食ひ
 五勺のこすもならひとなりつ

 米つきて椰子の実食ふも常となり
 日毎日毎に工夫をこらしぬ

 米のめし食ひたしと言ふ計(ばかり)にて
 友と一夜は語りあかしぬ

 勝つまではきっと死なぬと言ふ兵の
 顔の日に日に痩するは寂し

 米なくば椰子を食らひて、椰子なくば
 草の葉噛みつ戦ひて止まじ

上掲はそのうちの一篇で、いくら最終聯の反転強調があったとしても、こうしたうたは時が時なればただちに憲兵の管掌する事案となっただろう。
しかし「もはや国民にも敗戦の実状はあきらかになり、兵器や食料の増産が叫ばれ出したために、たまたまそれにマッチしたのであろう。その上国民の士気鼓舞のためとして」と吉田が書く通り、これらのうたが耐乏生活を余儀なくされた戦争末期の列島江湖に喧伝され、とりわけ応召を前にした学徒らに与えた影響はすくなくなかったのである。

大木編『ガダルカナル戦詩集 前線にて一勇士の詠へる』が毎日新聞社から発刊されたのは敗戦を間近にひかえたその年であった(奥付発行月日記載なし)。
この冊子を手にした学徒ら心中における「愛国と厭戦の交錯」は、井上光晴が小説『ガダルカナル戦詩集』に描いたとおりであったろう。吉田は忘れていた自分のノートのタイトルを、戦後(1959年)書店の店頭に見出したとき「白昼わが幽霊を見る思い」がしたという(同)。

しかしながらこのうたのリアリティは、実は以下のように戦場において生起しかつ維持された意志に裏打ちされていたのである。

「現役兵として入隊以前には、詩を書いたことはなかった。昭和十四年夏、初年兵の時に、ノモンハン事件に出動して、はじめて戦争を体験してからである。ノモンハンは満州(中国東北地方)と外蒙(モンゴル人民共和国)の国境地帯で、日本軍がソ連軍に潰滅的な打撃を与えられた局地戦である。増援部隊の一人として出動したが、総攻撃準備中に停戦協定が成立して、無事に元の駐屯地に帰れた。
 しかしここは二百粁歩いても家の一軒もない草原地帯で、水がない。それに我軍には近代的な兵器がない。圧倒的に優勢なソ連戦車群に対して、味方は火焔瓶(今過激派学生が愛用する)を持って体当りするしかない実状である。それをある有名詩人が『皇軍の神兵がハルハ河畔で、ドカンドカンと敵を撃っている』というように書いていた。その人の名も辞句も忘れたが憤慨だけが残って、稚拙でも良い、自分の体験は自分で表現したいと秘かに思い定めた。」(同)

この「有名詩人」とは誰であったか、北原白秋であったか高村光太郎であったか、あるいは単に選者として名が出たものを吉田がその作者と思い違えていたものなのか、またそのうたがどんなものであったのかは、しばらく措くとする。
それが「ドカンドカン」といった程度のものであるならば、いそいで調べるにもおよばない。
まずは吉田の「憤慨」が形となって遺されたことを多としたい。

問題は「うたの位相」である。
つまりそれが「詩」と言えるものであるかどうか、である。

「うた」は共同性とその過去が現在を拘束するサイン(合図または痕跡)である。
しかし「詩」はそうではない。
それは未来からやってきて「私」を拘束する言葉であり(ヨシフ・ブロツキイ『私人 1987年ノーベル賞受賞講演』)、啓示であり、予言ですらあるからだ。

collegio

零 ―74年目の8・15に

向日葵やまつさかさまにゼロとなる

ゼロならずマイナスであるアキアカネ

井戸底でトンボ飛ぶ見るうた歌ふ

盆をどり町内会の轆轤首

列島の夏や空気のゼロとなる

『永遠のゼロ』てふ売文あるらし
零(ゼロ)なれば永遠(とは)の余地なし原爆忌

油漏る防風窓の照り返し

季節なき餓島ここにも骨欠片(かけら)

エムペラてふらし
つみなきがごとくそのまま土葬さる

大声と強弁嘘つき藪枯し

テレビ消せこの日街中蟬ばかり

列島ひとりよがり「靖国」
百年を隣族軽侮し掠め来て向後百年孤児蔑まる

collegio

うたの位相 その3

おお。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも気づかずにゐた。

みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは氷上を匍(は)ひまはり、
‥‥‥‥‥文学などを語りあった。
うらがなしい暮色よ。
凍傷(しもやけ)にただれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで、
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、
反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」

上掲は、金子光晴の詩集『鮫』(1937年8月刊)から、「おっとせい」の最終部(三)である。

1937年(昭和12)といえば、7月7日盧溝橋事件を契機に日中両軍が全面戦争に突入(所謂支那事変)し、8月には国民精神総動員実施要綱が閣議決定されている。
「皇軍」が中華民国の首都南京まで「侵攻」占領し、国際的非難の的となる「南京事件」を他所に、列島のあちこちで祝賀の「提燈行列」が行われたのはこの年の12月であった(「提燈を遠くもちゆきてもて帰る」白泉)。

大陸における文字通り泥沼の戦争に引きずり込まれ、それでも世間が「勝った、勝った」と唱和しているなかでの「うた」であるから、『鮫』は「当時の軍国主義への抵抗詩として注目され」(百科事典マイペディア)、また「天皇中心の権力支配,戦争を痛烈に否定した抵抗詩集」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)とも言われるが、しかしもし当時「注目」されていたとすれば、うたの作者はただでは済まず、生死の岐路にも立たされたはずだ。
つまり「抵抗詩」という評価は戦後のものである。

実際、金子はこの年の10月には次のような「参戦鼓舞」のうたを発表してもいるのである(櫻本富雄『空白と責任 戦時下の詩人たち』1983。発表誌は『文芸』特集「戦争を歌へる」)。

(略)
戦はねばならない
必然のために、
勝たねばならない
信念のために、

一そよぎの草も
動員されねばならないのだ。

ここにある時間も
刻々の対峙なのだ。

なんといふそれは
すさまじい壮観!
(略)

(抒情小曲 「湾」の一部)

しかし、このうたの語には、実はすべて見えないカギカッコが付けられていると言っていい。すなわち端的には「ねばならない」という語に建て前を、「すさまじい壮観」という語に彼岸性を隠し、総じて一歩離れ「むかうむき」から振り返った、醒めた表現がなされているのである。読む側にとっては常識的に翼賛のうたであるが、表現には辛うじて両義性が含ませてある。これは「抵抗詩」などでは無論ないが、翼賛韜晦のうたである。
ただし、それだけで金子が戦時を無傷でくぐり抜けられたわけではなかった。
戦後改竄されたり全集に収められることのなかった「翼賛作品」は、2、3にとどまらなかった(櫻本)。上掲「湾」も、全集に収録されたものとは異なっている。

しかしながら、ほとんどの「うたびと」が翼賛体制に身も心もとりこまれていったなかで、金子光晴の「うたびと」としての軌跡はきわめて稀である(森三千代、森乾との合作自筆詩集『三人』など)。
翌1938年に『中央公論』に発表された次のうたは、両義的な表現というよりも、詩の象徴性を用いた風刺の代表というべきもので、同じパラシュート降下を扱ってはいても「藍より蒼き 大空に大空に 忽(たちま)ち開く 百千の」と歌った「空の神兵」(梅本三郎作詞・高木東六作曲、1942。陸上自衛隊第一空挺団歌)とは位相が異なるのである。

 落下傘がひらく。
じゆつなげに、

旋花(ひるがほ)のやうに、しをれもつれて。
青天にひとり泛(うか)びただよふ
なんといふこの淋しさだ。
雹や
雷の
かたまる雲。
月や虹の映る天体を
ながれるパラソルの
なんといふたよりなさだ。

だが、どこへゆくのだ。
どこへゆきつくのだ。

おちこんでゆくこの速さは
なにごとだ。
なんのあやまちだ。
(「落下傘」一)

collegio

うたの位相 その2

日本語で書かれた「戦争文学の最高峰」などというものがあるとすれば、吉田満の『戦艦大和ノ最期』をあげるのが、まずは順当かも知れない。
特攻出撃して被弾沈没する巨艦のむなしさ、戦闘の実際を語って圧巻である。しかしそれも戦争の一側面にすぎず、むしろその最奥部に届いているとは言えないのである。

先の大戦での「日本側」死者約310万人(内閣衆質152第15号、2001年8月28日)のうち、「戦死」の多くは、実は餓死と戦病死であって(金子兜太『あの夏、兵士だった私』ほか)、とりわけ「外地」における極限状況は日本兵の一部をして人肉食の餓鬼に変ぜしめた(大岡昇平『野火』ほか)。しかし、アジア大陸に「進出」した「皇軍」が殺戮し、また占領した地域での死者の数は、「日本側」とは桁違いに多かったのである(たとえば中華民国行政院賠償委員会発表、1947年) 。
一方「内地」にあって「唯一」の地上戦が展開した沖縄では凄惨な戦いとともに、「大和」の自殺(特攻出撃)と似て非なる「集団自決」が叢生した(比嘉富子『白旗の少女』ほか)。
さらに前線ならざる都市爆撃、そして一瞬で夥しい破壊と膨大な数の死者を生じさせ、生き残った者の骨髄をも蝕みゆく原爆は、先の大戦から今日に至る戦争と戦略の著しい特徴である(原民喜『夏の花』ほか)。
そうして都市とインフラ、生産システムの完膚なきまでの破壊は、戦争が終結した後も食糧をめぐる悲惨な状態を現出せしめたのである(野坂昭如『火垂るの墓』ほか)。

「戦争文学の最高峰」などという表現がそもそも「笑止」なのは、たとえば先にあげた二つの「うた」に「戦争」が描かれているわけではないからである。
ここに並べられているのは「戦争」ではなく、「いくさ」に駆り立てられ、赴かんとする者の、出立の心情とそれを鼓舞する言葉であって、それ以外ではない。であるからこそ、逆に「心ゆさぶられる」(高揚させられる)のである。

「『戦友別盃の歌』がはじめて『うなばら』(当時は赤道報といった)に出た時の感激は大きかった。将校も兵士もその感動を隠さなかった。歌のところだけが切り取られ、手帖に秘めて愛誦された。(略)ある若い将校は私に語って言った。『長いこと詩を忘れてゐたのが、大木さんのあの詩で、詩の存在に気づき、詩が如何に大切なものかをはっきり知ることが出来たのを喜んでゐます。戦場と詩といふものほど離れてゐるようで実はしっかり結びついてゐるものは恐らく無い筈ですからね』と。(後略)浅野晃」

「戦争に於て勝敗を決するものは、兵の数でもなければ装備でもなく、人間の、民族の、精神力の凝集したものであると同時に、人間の、民族の、表現力が凝集したものは詩であることを知ったのは、僕にとっては大きな発見であり、啓蒙であった。かつで僕は『詩人認識不足論』を書いて日本の詩壇を騒がせた男であるが、その際何の反駁もしなかった大木君に対して、今の僕はただ黙って頭を下げるほかないはない。/戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である。大宅壮一」

上掲2文は、宮田毬栄著『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』に『海原にありて歌へる』の「跋」から引用されているものである。そうして著者すなわち大木惇夫の次女は次のように書くのである。

「父の戦場での詩の働きは、ジャワ方面軍の首脳部が予想していたものを遥かに超えていた。宣伝班員のだれもができうるかぎりの仕事に励んでいたが、父の仕事はひときわ直截的な効果をもたらしたのだった。それは詩というものの力にほかならなかった。「詩人大木惇夫の任務は十二分に果たされた」との判断によって、父に帰国をうながす意向が伝えられたのは、胃痙攣の発作で寝込んでから数日後のことであった。」

巻末の年譜によれば、大木惇夫が「現地除隊の形で極秘の帰国」をしたのは1942年(昭和17)9月下旬という。
この時期、戦争は死の翳の下ではあったが、まだその上半身を白々と露出させていたにすぎなかった。
それが赤く黒く黄色の巨大な姿を誰の目にも明らかにしはじめる(「赤く蒼く黄色く黒く戦死せり」 渡辺白泉)には、大木が「任務を果たして」から半年も要しなかった(吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』)。

言葉は人類の虚構の根源である。民族語は「民族」の虚構であり、うたはその直接力である。戦争の「現実」が、「うた」の虚構と乖離を甚だしくすれば、うたは色あせる。「飢え」はその最たる「現実」である。
二つのうたは、つまるところ「行きはよいよい」うたであって、マルスの凛々しくも蒼白い若者顔とは裏腹の、目鼻のない化物の本質に迫るもの(「戦争が廊下の奥に立つてゐた」白泉)ではなかった。だからこそ、うたは「役目を果たし」えたのである。

戦争は、「いくさ」と言われた古代のそれとはまったくの異次元に移行していた。「銃後」もすでに消えていた。「感状」も「勲章」も無意味であった。その結末は、死と廃墟と飢えであった。「帰り」を生きた「生き残り」たちは、当然ながらこれらのうたとメロディーを記憶に封印し、それを見聴きするのを好まなかった。すくなくとも私の父はそうであった。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(T・アドルノ)。東アジアにおいても加害と被害を問わず、同然の「記憶」が刻印されたからである。
「うたびと」は、地獄へつづく「言葉の片道切符」しか手渡さなかった、あるいは手渡し得なかったのである。

これらのうたが今日再び「戦争を知らない世代」の間に浮上し、あるいはわれわれにある種の「感情」をもよおさせるとすれば、さらに切開しなければならない問題が残ると言わなければならないのである。

collegio

うたの位相 その1 

彼その終局をおもはざりき 此故に驚ろくまでに零落たり (『エレミアの哀歌』第1章9節)

以下に掲げる五七調の16行は、1942年(昭和17)11月に現インドネシアのジャカルタ(当時オランダ領バタビア。日本軍が占領)で出版された大木惇夫著『海原にありて歌へる』のなかの「戦友別盃の歌―南支那海の船上にて。」と題されたうたである。

言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビアの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字星を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。

このうたについて、wikipedia「大木惇夫」の項では根拠を示さず「日本の戦争文学の最高峰ともいわれる」と書いている。「も」付の伝聞体が、書いた本人がそう思っているにすぎない事情を語って笑止であるが、このうたに心揺るがせられた者はすくなくないだろう。しかしwikipediaの記述としては、もちろん失格である。
さて、次のうた(「海ゆかば」)はどうであろうか。

海行かば 水漬く屍 
山行かば 草生す屍 
大君の 辺にこそ死なめ 
かへり見はせじ

こちらは『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」の一部で、大伴家持が大伴氏と佐伯氏の家祖家系を言上げした部分である。
これに曲をつけたのが東京音楽学校教授であった信時潔で、1937年(昭和12)にNHKの嘱託を受けたものという。
しかし阪田寛夫の「海道東征」(『文学界』1986年7月)によると、「海ゆかば」には明治初期に東儀季芳が作曲した雅楽ふうのものがあり、それは「軍艦行進曲」の一部をなすという。つまり一般に知られる「海ゆかば」は戦時期の「国民精神総動員体制」用改曲であった。
この新しい「海ゆかば」は、負け戦感が濃厚となる1943年(昭和18)5月以降、大本営の玉砕(全滅)ラジオ発表の冒頭曲とされて人口に膾炙し、戦時中は「第二国歌」ないし「準国歌」とも称されたという。
「戦友別盃」同様(戦時期の日本列島と旧植民地の、そしてそこからアジア大陸と太平洋島嶼に散開させられた)人心の多くにくい込んだうたで、「日本人によって作られた名曲中の名曲」という評もある(新保裕司『信時潔』2005)。

しかしながらいずれの「うた」も、まだ大戦緒戦の景気のよい時期につくられたにもかかわらず印象は暗く、悲壮というよりも悲愴な「無理やり」感がある。新曲「海ゆかば」の最終部「かへり見はせじ」の唐突急激な高揚部はとくにそうである。

それは Wir müssen sterben (われわれは死なねばならぬ)、つまり自分あるいは他者の死を絶対的に強制する戦争という極限状況にあって、それを諦念とある種の高揚感で無理やり受け入れ、生への執着を断ち切らんとする不自然で奇怪な心性を前提としているからである。
「戦友別盃」の最終行は「雲」という自然現象を引き合いに、「黙々と」運命に従うことが指し示される。
これはほとんど「阿Q」(魯迅)の論理であり、奴隷の心性であって、心理的にはマゾヒズムと等価である。

ある者は「海ゆかば」をして「決して「勝利」への行進曲ではない、「偉大なる敗北」の歌である」と言う(同前)。しかし「敗北」に「偉大」を付けて美化するとすれば、結局のところ「精神勝利法」と変わるところがない。

「猿蟹合戦」の主人公はズワイガニでもタラバガニでもありません。海に近い森や里山に棲み、木にも多少なら上れる、アカテガニです。
アカテガニの呼吸法は少々変わっています。カニは一般に鰓呼吸をするけれど、アカテガニの場合は「鰓呼吸した水を口から吐き出し、腹部の脇を伝わせて空気に触れさせ、脚のつけ根から再び体内に取り入れ」ることで、陸上生活にもっとも適した種のひとつとなりました。
雑食性だから、おにぎりでも熟した柿の実でも食べる。古い家なら土間にも入って来たと言います。

昔話では、サルの投げた青柿で潰された母ガニの死体から仔ガニたちが這い出し、ハチや臼、牛糞などの味方を得てかたき討ちを遂げました。
現実のアカテガニのお母さんは、7月か8月の大潮の晩、つまり満月か新月の夜お腹にたくさんの卵を抱いて森から浜や磯に下り、潮に浸かって体を震わせ、孵化した幼生(ゾエア)を海に放ちます。

つまりアカテガニは、森と海がつながったエリアにしか生きることができないのです。しかし日本列島の海岸線はほぼすべてコンクリート護岸や自動車道路に変わってしまい、辛うじて残された森も海浜に直接続くところはめったにありません。実際、関東地方でアカテガニの棲息エリアとして知られるのは、神奈川県三浦市の小網代湾にのぞむ一帯と千葉県勝浦市の鵜原理想郷の2ヵ所くらいです。

三浦半島の南西端、小網代湾に注ぐ小河川浦の川の谷戸は、近年とくに生物多様性の観点から「小網代の森」として保存され、人の手で維持管理がはかられています。
いまの季節、少しひらけた湿地ではハンゲショウ群落の半分白い化粧姿が目を惹き、磯浜では小さなチゴガニのオスたちの盛んなウェービング(「ダンス」と言う人もいますが)が見ものでしょう。山裾の岩間に比較的大きなアカテガニが隠れているのを、見つけることができるかも知れません。この夏休みを利用して、出かけてみてはどうでしょう。

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小網代湾のアカテガニ

小網代湾につづく森つまり谷戸とその自然については、『「流域地図」の作り方』(ちくまプリマ―新書、岸由二著、2013)、『「奇跡の自然」の守りかた』(同、岸由二・柳瀬博一著、2016)が紹介しているので一読してみてください。最近ではNHKのEテレでも取り上げられたので、その映像も参考になるでしょう。
〈本で学ぶ〉から〈場所で学ぶ〉、そして〈場所に学ぶ〉それぞれのテーマと方法があります。生物多様性だけでなく、そのエリアの地形や地質、地名や歴史といった面についても、いろいろなメディアを通じて探ってみることも「図書館」の意義と存在性を深めることになるでしょう。

さて、この稀有な自然を体感しに出かけるには、京浜急行の久里浜線終点三崎口からバス(引橋下車)を利用するのが一番ですが、それには「みさきまぐろきっぷ」がおあつらえ向きです。京浜急行が発行している「おトクなきっぷ」のひとつで、品川からの往復の電車賃とバス代、食事代や観覧料などが含まれ大人1人3500円、ただし発売当日かぎり、自由席のみです。

注意すべきは、週末や連休の晴天の日は混雑するかも知れないこと、また万が一の地震や津波も想定に入れ、電車が不通となる事態も考えて、ある程度の準備をするほうが賢明だということです。もっとも後者については日本列島に住むかぎり、どこに出かけるにも必要な心掛けです。
ともあれ、猿蟹合戦の物語を育んだ自然環境、その風や音、そして匂いに触れておくことは、将来どのような職業に就くかにかかわらず必要なことだと思われます。どうぞ、この機会にお出かけください。

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第3の敗戦について

『週刊東洋経済』の最新号(2019年7月6日号)をめくっていて、驚いた。

特集の1は「ソニーの復活」であるが、それとは別に数ページにわたって知人が取り上げられていたからである。
数十年前、時間と空間をほんの少しの間だが共にした高橋公(たかはしひろし)。
早稲田大学本部を占拠した、ノンセクト黒ヘル集団「反戦連合」の親玉だった。
いまではすっかり好々爺、いや、水木しげるの子泣き爺(じじい)の風情。
《「地方移住」のパイオニア ふるさと回帰支援センター理事長》として「ひと烈風録」に紹介されていたのである。彼が学生運動を離れ、生活に追われながらも友人たちと「神道夢想流」(杖道)の道場を建てたこと、先の津波でいわき市小名浜の実家が流されたことなどもはじめて知った。
しかしこの高橋氏と表題の「第3の敗戦」はまったく関係がない。

関係があるのは、コラム「グローバル・アイ」のほうで、こちらは小原凡司という笹川平和財団上席研究員、元は駐中国防衛駐在官を経て海上自衛隊第21航空隊司令だった人の書いた「中国動態」である。
可変翼を備え衛星の測位データと極超音速滑空技術を駆使する中国の中距離弾道ミサイルと、従来の抑止力という概念から離陸したロシアや中国の低出力戦術核兵器に触れて戦慄的である。
またこの記事ではないが、いまやその生産および技術大国となった中国のドローンの、軍事への応用は目を見張るものがあるという。

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列島の現政権の浅慮は「防衛力」拡充に腐心邁進、標的となるばかりの空母に執着、またステルスではあっても有人事故付の馬鹿高い飛行機、それにミサイル迎撃システム(THAAD:低空飛来のドローンには無効)を、国内防衛産業への支払いを繰り延べてまで買い続ける。「赤ネクタイの大ボス」へのご機嫌取りでもあるが、リアルな認識と政治が意図的および無意識に回避され、かつて巨大戦艦に執着した愚が繰り返されている。
しかしながら今日の「戦争」は、その戦闘レベルにおいては宇宙空間のハイテク戦に軸足を移し、その防衛力レベルにおいては地表の食料自給率が命運を握っているのである。

極東の列島は、ここ1世紀以内に2つの大敗戦を経験した。もちろん第2の敗戦とは、核発電所の爆発事故とその対応処理のための悪夢のような泥沼作業、そして稼働停止にかかわらず垂れ流される途方もないそれらの保持費や解体費の現状を言うのである。

戦争も敗戦もほとんど知ることなく、いま存在するそれに気付かない人も少なくないが、それ以上に近未来の敗戦を想定しえない者は多いだろう。
標的となるのは空母めかした「自衛艦」や有人飛行機だけではない。54基の在列島核発電装置も、それら飛翔体の格好のターゲット以外ではないのである。

そうして東アジア政治のレベルにおいては、極東の島国は近代の「植民地支配」と「侵掠」の負債からいまだ抜け出すことができず、国際的な地位低下にもかかわらずいやそれ故に、過去を美化して内向きに居直ろうとする。

「アメリカの傘」も「自主防衛力」も、もはや頼みにできるものではない。現在ただひとつ確実に言えるのは、われわれがもっぱらひとりよがりあるいは美意識を頼みとするならば、その先にあるのは第3の敗戦でしかないという、冷厳な「格率」である。飢餓と核汚染のなかで「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍」ぶこと自体が不可能となるのは、そのときである。

もっとも「格率」ならざる「確率」に言い及べば、第3の敗戦のさらに高いそれとして想定される事態は、列島のメガシティとメガロポリスを直撃する巨大地震とその結果である。
この近未来に「国土強靭化」と「軍備増強」で対するならば、それは愚かとしか言いようがないのである。

collegio

洗足池 その3

前回みた縦断勾配8.3%の坂は、1923年(大正12)に建立された「中原街道改修記念碑」の「沼部石川千束等ノ急坂」のうち沼部の坂である。
古い坂はどのように改修されたかを、下掲の地形図で確かめてみよう。

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左右のうち左は前回同様、右図は1万分の1地形図「自由が丘」と「武蔵小杉」(いずれも1984年編集)の一部であるが、説明の必要上、左右の同位置に赤いピンを刺し加えてある。
ピンの位置には、現在「桜橋」として知られている跨道橋が存在する。鋼製高欄は赤く塗装され、その上に花が被さる時節には、普段とはうって変わって遠来の老若男女が渡る橋である。2000年にリリースされ大ヒットした福山雅治の「桜坂」の影響だが、20年後の来春はさてどんな人出となるか知らぬ。

右図すなわち1万分の1地形図で道を横切る10メートルと20メートルの等高線間隔は約30ミリメートルである。水平距離約300メートルに対する10メートルの高低差であるから、桜坂の平均傾斜角は約1.9度、道路縦断勾配は3.3%、つまり左図の傾斜は右図の半減以下と言うことができる。ただし標高20メートルの等高線は、桜橋の南西側30メートルのあたりを通っている。

現「桜坂」について、大田区のサイトの説明をみてみよう。

「東急多摩川線沼部駅から東光院前を通り北東へ向かうと、田園調布本町19番あたりから石垣にはさまれた切通しの坂道になります。これが桜坂で、坂名は坂道の両側に大正時代に植えられた桜にちなむものです。
この坂は旧中原街道の切通しで、昔は「沼部の大坂」といい、勾配がきつく荷車などの通行は大変であったようです。また、かつてこのあたりの村落(沼部の村落)は荷車、旅商人の往来でにぎわい、腰掛け茶屋などが坂道の両側にあったともいわれています。
坂下には、かつて六郷用水が流れていたましたが、下水道の普及につれ、この用水も埋められました。しかし、少しでも昔の姿を残そうと、その一部を自然の湧水を使って「六郷用水の跡」とし、現在は保存しています。」

以上は「田園調布・嶺町地域の坂道」にあるもので、更新日は2016年4月1日である。
1行目の「田園調布本町19番」とは、上掲右図の右端中ほど「田園調布本町」の「調」の文字がその斜め底辺の一角にかかる1ブロックで、「調」の文字がまたがる道と旧中原街道の交差地点には「さくら坂」信号がある。
「桜坂」は、この信号から約190メートル北西の「さくら坂上」信号までと言い(坂学会「東京23区の坂」)、wikipedia「桜坂」でもほぼ同様としている。
これらをGoogle Mapで確認すると、2つの交差点信号のほぼ中央、それはおそらく坂名の標柱の位置だろうが「桜坂」と記し、坂下、さくら坂信号と東急多摩川線の間の旧中原街道に「桜坂通り」と記入している。
桜坂は「両側に植えられた桜」にちなみその範囲を言うのだから、桜坂は桜坂通りの一部ということになる。

左図の等高線で読み取れる旧「沼部の大坂」は、現「桜坂通り」から現「さくら坂」信号に一部かかるあたりで、「桜坂」の大部分は切通し工事以前は段丘の平坦面であることがわかる。つまり現在の「桜坂」と「沼部の大坂」は、実はそれぞれ位置が異なると言ってもよいのであって、現在の「桜坂通り」には「沼部坂」(旧「沼部の大坂」にちなんでこう呼んでおく)と「桜坂」の2つの坂が存在していると考えたほうがよい。

右の地形図は等高線が切り通しの崖記号に吸収され、そこから現在の2つの坂を比較計測することは不可能なので、スマホアプリ「スーパー地形 カシミール3D」を利用し、「桜坂通り」のほぼ中央を通る線から、それぞれの坂の平均数値を導き出し以下に掲げておく。おもに段丘面を通る等高線に対して、「溝状に掘り下げられた道筋=坂」の傾斜を地図上から知るには、これがもっとも手近な方法だからである。
Aは上掲左図で坂下の六郷用水に架かっていた橋からさくら坂交差点信号まで(沼部坂)、Bはさくら坂交差点信号からさくら坂上交差点信号まで(桜坂)とする。

A「沼部坂」 水平距離221m 高低差7.59m 傾斜角1.967度 道路縦断勾配3.43%
B「桜 坂」 水平距離187m 高低差6.75m 傾斜角2.067度 道路縦断勾配3.61%

このABふたつの坂は「沼部の大坂」を削平して造り出されたものだが、とりわけ「桜坂」の大部分は高位の平坦面を掘り下げたため、溝あるいは樋状の形が顕著で、その両側の堤の部分に桜並木は植えられたのである。

時代が最近に下れば下るほど、坂は、面(斜面)ではなく線(傾斜経路)と捉えねばならない場合が多くなる。それは「道」の役割が、(foot) pathから車輛を主体としたroadへそしてwayへと変容し、それに対応して施工も法令もリフォーメイションを免れ得ないからである。
今や「道」が直面する変容課題は、 self driving car への対応である。
道のありよう、とりわけ坂はますますその傾斜を減じ、姿形を転じていかざるをえないのある。

collegio

小網代谷戸 その1

京浜急行久里浜線の終点三崎口からバスで2停留所目。
下車して目指すは、三浦半島南西端に深く陥入した小網代湾。

台地の引橋面から西に下ればすぐに谷頭域に至る旧小網代村の谷戸は、今日では類稀な〈森と干潟がつながっ〉た「小網代の森」として知られる。
たしかに小河川(浦の川)ではあっても、巨大都市近郊の一流域がそっくり都市化を免れた場所はきわめて珍しい。だから「森」なのだろうが、地形学的には標高差数十メートルにおよぶ「台地の開析谷」であって、しかも隆起地帯のそれであることは意識されたほうがよい。そうしてこのような地形は、関東地方では一般に「谷戸」と言うのである。

近年この谷戸はおもに自然保護もしくは生物多様性の観点から、四半世紀以上にわたって、水源エリアなどの保全とともに、藪の伐開および湿地回復などの手段が講じられてきた。
さらには木道や説明板の設置、そして水洗トイレまで整備された結果、土日の昼前後ともなればカジュアルでカラフルな装いをした老若男女でにぎわい、都心の自然公園に見紛う光景も現出することがある。
この人気ぶりには書籍や雑誌、観光案内リーフレット、テレビ、インターネット等での喧伝に加え、京急の「みさきまぐろきっぷ」を使える一画であることも寄与しているのであろう。
幸いなことにいまは雨季であるため、土日でも晴れてさえいなければ人影はまばらで、比較的静かな谷戸の谷底歩きを楽しむことができる。
しかしながらこの谷戸巡検でもっとも留意すべきは、多雨による土砂災害や地震・津波の予期せぬ襲来であって、出かけるにあたっては、鉄道などの交通機関が不通となる事態に対しても、幾何かの想定と準備が必要となる。

さて小網代谷戸を知るには、まずは70年以上前の旧版地形図を参照することをお奨めしたい。
三浦半島は旧海軍の一大拠点横須賀を擁し、要塞地帯として地形図が一般に公刊されることはなかった。そのため、戦後間もなく刊行された2万5000分の1地形図が出発点となる。けだし「情報公開」は、列島国家にあっては「体制」の崩壊後にはじめてその一部が実現するもののようだ。
ともかくもこのエリアについては、1947年(昭和22)資料修正「浦賀」「秋谷」「金田」「三浦三崎」の4図幅を接合して参照するのが適切なのだが、ここではとりあえず中心となる「金田」図の一部を複写拡大し、色鉛筆で水田と川筋・溜池および県道に着色、また一部ライン等を描き入れたものを以下に掲げることとする。

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ところで、地形図の拡大利用は、従来原則タブーであった。
なぜならば地図の編集プロセスにおいては、許される範囲の「転位」や「総描」といった表現上の処理が行われるのが常で、拡大すれば許容範囲にあったズレも拡大され位置の誤差が増幅する結果、「地図の間違い」といった誤認が生じるおそれがあるからである。しかし拡大してはじめて利用可能となる、あるいは気づくことのできる記載情報量ははるかに大きいのである。旧地形の探求には、旧版地形図の積極的拡大利用を推奨したい。
そうして拡大にあたっては、たとえば2万5000分の1の場合は大胆に250%にして1万分の1とするなどの工夫が望ましい。またスケールバーを同時に拡大しておき、図に添える配慮もあれば上出来であろう。

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