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訂正

本欄5月10日の《「メガシティ」におけるマンションと井戸》で紹介した「国分寺マンション防災井戸について」(「マンションニュース第44号」)の「はじめに」の部分「提案は同事業として取り上げられることなく、「地域連携事業として別途継続検討とする」旨の回答があっただけでした。これと比較しても、実に果断な措置と思います」は、今般東京経済大学創立120周年記念事業の一環として「防災井戸の掘削」が掲げられたことが判明したため、「提案は同事業として取り上げられましたが、それに比べても俊足果断な措置と思います」と訂正します。

防災井戸(手動の井戸)付きマンションは、昨今珍しいものではなくなったらしい。
マンション不況時代、それを売りものにする業者が出現するようになったからである。一部では、新築マンションは防災井戸設置が「標準仕様」とまで言われるようになったという。浅井戸であれば、井戸を設置する費用はマンションの広告費ぐらいにしかならないからだ。
兵庫県加古川市や埼玉県川口市などでは、住人たち自身でマンションに井戸を設置した例もある(朝日新聞2015年3月23日夕刊「高層マンション地震に備え井戸」)。

地表における代表的な「変動帯」に位置する日本列島中心部、世界に冠たるメガシティ(巨大都市圏)のマンション住民にとって、実はそこに井戸があるかないかは、文字通り死命を決する重大な岐路なのである。
私の棲むマンションは、駅前億ションの走りで、バブル期に中古で買ったばかりにいまもローン支払いに苦しんでいる。
しかもそこは自主管理で、法人格を得、土地についても事後的にであるが取得したというきわめて注目されるマンションなのだが、以下は私が住人として書いた文章である。
これは幸い私の意図通りに「マンションニュース」に掲載されたが、現実に井戸が掘削されるかどうかはわからない。
しかし、21世紀初頭日本列島キャピタルシティの、一マンションの記録として、とりあえず掲示しておく。

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マンションニュース第44号用 国分寺マンション防災井戸について

はじめに
 憶えておられる方も少なくないと思いますが、私が国分寺マンション管理組合総会において、電気に頼らない手漕ぎの「防災井戸」の設置を提案したのはたしか2年前、2015年春の総会だったと思います。今般「マンションニュース第43号」2017年5月9日号で、国分寺マンションの地下防火用貯水槽を利用して、手漕ぎの「井戸用ポンプが設置」されたことを知りました。
総会提案から数えて2年、まことに迅速な対応で、それを実行された管理組合理事会と関係者の皆さん、それを牽引された理事長に対し、あらためて敬意を表するものです。
 私が勤める東京経済大学でも、創立120周年記念事業として地域の震災対策用浅井戸(手漕ぎポンプ)の設置を提案しましたが、提案は同事業として取り上げられることなく、「地域連携事業として別途継続検討とする」旨の回答があっただけでした。これと比較しても、実に果断な措置と思います。

シミュレーション
 さて当防火用貯水槽の規模は、同ニュースによれば長さ14m×幅3.5m×深さ2.1m=102.9㎥=102.9トンといいます。1トンは1000リットルですから、国分寺マンションの地下防火用貯水槽は約10万リットルの貯水能力があるわけです。いま10万リットルの水が確かに貯水されているとして、震災時にどれだけ役にたつか、シミュレーションをしてみましたのでご紹介します。
 仮に震災時のマンション居住者数を200人とし、この貯水槽から1日1人あたり少し大き目のポリバケツ(10リットル)3杯の水を供給するとします。
 10万リットル÷30リットル÷200=16.666・・・ですから、約17日間つまり2週間プラス2、3日は今回設置された「ポンプ」の水が役にたつ計算になります。
 この1人1日30リットル、また200人という値については、それが妥当かどうか議論があるところと思いますが、水洗トイレの1回の洗浄水量は、古い型で13リットル、近年の節水型で6リットルが一般的であることを考えると、あながち外れた設定でもないでしょう。
そうして、この防火用貯水槽の水の用途は、ほぼトイレ用水に限定されるのです。なぜならば、地下の防火用水貯水槽の溜り水ですから水カビなどが繁殖していることは確実で、飲用水としてはもちろんのこと、洗面、洗濯、掃除のための生活雑用水としても、まず使えないと思っていいからです(生活雑用水には、各戸の風呂の残り水―バスタブ満タンで約200リットル―を利用すべきでしょう)。

計算の大前提と大地震直後の排水系統確認について
 ただし以上の計算には留意すべき大前提があって、それは❶消防用貯水槽が満タンであった場合、❷消防用水として使用されなかった場合、❸地震によるコンクリート水槽の亀裂漏水が起きなかった場合、という3つの「場合」をクリア―してはじめて可能な数値であるということです。
 これらの条件が満たされてはじめて、断水中のトイレ用水については2週間はまず大丈夫ということになります。逆に言えば、その期間の飲用水と生活雑用水については、すべて各戸の備蓄水ないし公共機関の災害給水施設に依存することになりますが、さてどうでしょうか。
人口約3500万人が集中する世界最大のメガシティ(巨大都市圏)にあって、緊急時の公共機関の水供給が実際にどれだけ可能かについては、未知の領域に属する事柄です。ちなみに1人1日あたり生理的に必要な水分の最低補給量は2~3リットルと言われています。では、首都圏の大地震による断水はどれくらいの間つづくと考えればよいでしょうか。
 ところで、大地震直後のマンションの最大の懸念事項は、給水よりもむしろ排水系統のパイプのズレや破断が起きていないかどうかという点にあります。大地震直後のマンションでは、一時すべての排水系統を使用禁止とし、状態点検後に使用可能な部分からそれを解除していかなければなりません。したがって、トイレやキッチンの水使用については、一時的に地階に集中する事態を想定しておくべきでしょう。いずれにしろ「井戸端」は国分寺マンションの場合、地階に出現せざるをえないのです。

震災経験と被災想定
 さてしかし、そもそも断水状態がどれくらいの範囲で何日つづくかは、とりわけ広域で巨大、それもコンピュータ制御のシステムに全面的に依存している首都圏では想定がむずかしく、「起きてみないとわからない」とすら言われます。
 それでも一応の指標はあり、都の「首都直下地震等による東京の被害想定」(最新版)は、上水道のライフライン復旧には「阪神・淡路大震災以降に発生した既往地震災害時には、いずれの地震時にも断水被害の復旧に1カ月以上を要している」と記します。ちなみに下水道については同様の1カ月とし、ガスに関しては「1~2カ月程度」と約2倍の復旧期間が示されています(74ページ)。
 さらに、立川断層地震におけるライフライン被害総括表では、国分寺市の上水道断水率については、68.7%とかなり高い数値が示されている点は要注意でしょう(172ページ)。
 以上の被災想定は、6年前の3月11日の東日本大震災における本格的被災エリアのうち最大の都市域であった仙台市(人口約110万人)における被災経験に関する、私の聞き取り調査にも符合するものです。
 首都圏を襲う大地震においては、すくなくとも断水は1カ月間つづくことを前提に、私たちはものごとを考えなければなりません。飲用水にかぎって考えてみても、公共機関の災害給水ステーションが稼働していて、全国から給水車が駆けつけ、給水量が十分と仮定しても、何時間も行列して待つことやそれに伴うトラブル、それなりの距離を往復して水運びする労力を避けるわけにはいきません。しかしマンションに「本物の井戸」の備えがあれば、水を得るために地階(自転車置場)に下りまた上る労力だけで済むのです。

結論 ―これからのことおよび経費について
 繰り返しますが、今回の国分寺マンション地下の消火用貯水槽井戸設置はまことにありがたく、トイレ用水に関して一安心できる施設ができたことを率直に喜びたいと思います。しかしながら、以上のシミュレーションと想定に照らすならば、今回の「ポンプ」設置はあくまで暫定措置と考えるべきであって、大地震に対応できるものでないことは明らかです。
「本物の井戸水」は地下水です。その量や用途には原則として制限なく、飲用にもそのままあるいは加熱すれば十分に役に立つのですから、これに優るものはないのです。そうして「本物の井戸」は、実質的な「コミュニティ」を生み出す源でもあるのです。
 土地取得で注目を浴びた国分寺マンションが、今回の「ポンプ」設置から一歩すすめて防災用の本物の井戸を持つとなれば、注目度はいやがうえにも高まり、実際的な価値は測り知れないものとなるでしょう。
 ニュースでは「井戸の掘削には相当の費用がかかる」として具体的な数字を示していませんが、2年前に私が業者見積もり(複数)をとった例から言えば、掘削およびポンプ設置の経費は、地下15mの場合200万円、同40mで300万円ほどと見込まれます。
 国分寺マンション管理組合理事会におかれては、是非「本物の井戸」の実現に努力していただきたいと思います。場合によっては募金や出資によってでも、それを実現するべき価値ないし必要性はあると思われます。

2017年5月10日

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靴・帽子 × サンダル・笠

日本列島において履かれる靴は、開放系をもって最上とす。
小氷河期の西ヨーロッパで成立した「ネクタイ正装」信仰が、近年はクールビズとか称して揺らいでいるのは慶賀の至りだが、迷妄打破は肝心の履物には及んでいない。
身体に悪影響を及ぼす程度は、ネクタイより靴のほうが段違いに大きいのである。

革靴もスニーカーも、閉鎖系である以上、この夏期亜熱帯列島では同然、愚物である。
外歩きを専らとする者にとって、足部のコンディションは全身にかかわる一大事なのだが、閉鎖性の不快感は、一般の意識においては圧殺されているのである。
靴は、「明治」以降「文明」の表象のような顔をしているが、実際は「軍」「官」の舶来模倣、つまりは「野蛮」のお仕着せであった。

柳田国男が「働く人の着物」(『木綿以前の事』所収)の末尾で「一ばん都合の悪いのは靴であった。靴は日本のような夏暑くてむれる国、毎度水の中へ入って働かなければならぬ国では、特別のものが無くてはならぬ。そうして是だけは古いものが既にややすたれて、新しいものがまだ発明せられていないのである。諸君は是からの研究問題として、是非とも仕事に都合のよい日本の靴を、考え出さなければならぬのである」と書いて、すでに80年以上を経ているのである。

通気性および冷気性は、底面に穴のあいた靴(たまにシューズショップに出回ることがある)がもっとも優れているが、湿地歩行や雨天時には最悪である。また砂地や細かい砂利道、刈草地を歩くにも適さない。
結局のところサンダルに如くものなし、ということになるが、いざ本格的に採用しようという段になると、足部保護性や長距離歩行性、走行性を備えること、つまり「レジャー用品」からの離陸が不可欠である。

30年以上探した果てにたどりついたのが、チヨダのBIO FitterシリーズBF-3906である。
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サンダルといっても、踵があり足部全体を包む構造で、走行にも十分対応可能である。
通気性が抜群であることはもちろんだが、軽量で屈曲性と衝撃緩衝性に富み、底面の把握力(グリップ性。つまり雨天などの際に滑らないこと)にも優れていることに加え、靴幅に余裕のあるのがまことに嬉しい。そして安価(6000円以下)でもある。

このブラックモデルに黒靴下を併用すると、ちょっとしたパーティ会場でも違和感はない。
ヘビーな雨天時はそれ用の靴を履けばよろしい。
岩場の多い登山にもそれ相応のアイテムが必要だが、ハイキングにはこれで十分対応できる。
ただし砂地などを歩いた後は、脱いで入り込んだ砂を落とさなければならない。
しかし、その手間はいかほどのこともないと思わせる爽快さである。
われわれの「正装」は、「サンダル文化」を基本として成り立つべきなのである。

          ★            ★

足先ついでに頭まわりに言及すれば、とりわけ夏期は頭のてっぺんにも風通しが欲しい。その風通しの良い被りモノとして、かつての菅笠の類に如くものはないのである。

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ノンラーと称するベトナム笠も同様だが、笠の下に頭部への装着部が別立てで附属しており、その間を風が抜けるのであって、一度でも被ってみれば、それは忘れられない体験となろう。

100万人以上の犠牲を払った、アメリカ軍に対する「ベトナムの勝利」は、このノンラー(笠)が象徴していた。そうして、いわゆるべトコン(南ベトナム民族解放戦線)の履物は、破壊された車両等の古タイヤを利用した「ホーチミン・サンダル」だったのである。ゲリラ戦におけるこの廃物利用は正解だった。足跡が残りにくかったからである。

今日に一般的な「帽子」は、布やらフェルトやらが毛髪や頭皮、そして汗に直接接するのであるから、アジアの伝統的な被り物とは構造が異なるのである。
したがってその構造に由来する本来的な条件は、「洗える」ことでなければならないはずである。

しかし、この条件を満たしてなお良質な素材とデザインの帽子にであったためしはない。ファッションとしての帽子もまた、ヨーロッパ発の防寒具の系譜から離陸できてはいないのである。

笠でない利点を生かすのなら、せめて「たためる」(カバンに入れられる)くらいであればよいのだが、それもまともなものを探すには一苦労する。
さらに撥水性を得られること、また顎紐付きであることをも必要だが、それらすべてを満足させるモノは、現代に至ってもなお出現してはいないのである。

付言すれば、ヘルメットは一般に直接頭部には接しない構造であるが、それらは決して「風が通り抜ける」ものではないのである。

イカモノ

使っていた醤油差しは、ガラス製で丈夫そうなのが気に入っていた。
それがある日突然口が開かなくなった。
いわゆる擦り口ガラスがくっついてしまって、湯を掛けても、水に浸しても、どうにもならない。
諦めて、100円ショップで陶器製の小さな醤油差しを買ってきた。
100円にしてはちょっとしたデザインかなと思った。
ところが、使ってビックリ。
だらだら垂れて、底辺を半めぐりして醤油が落ちてくるのである。
買うときにちょっと懸念はしたが、まさかこれほどまでに使えないシロモノだとは思ってもみなかった。
差し口の穴がとんでもない位置に付いているである。
シロモノどころか、烏滸(おこ)モノ、つまりはイカモノである。
このようなものを、造らせるモノも、売らせるモノも痴れモノである。

先達とは、その分野のオーソリティのことを言うのだろうが、当方にとってはそれは「素人」にほかならない。
まがりなりにも大学で教壇に立つ者として、先達とは第一義的には先行研究者(とその業績)だが、学問を正式に修めていない当方にとって、教えるということはその先達の膨大な森に分け入って、自分なりの細道をたどりなおす作業でもある。
だから指導している学生や案内している履修者から発せられる思いもかけない質疑事項は、当方の理解程度や修学の欠陥を衝き、あらためて途切れ途切れの細道をつなげさせる役割を果たす場合が多い。「質問」は「素人」であればあるほど率直であるから、その説明のために勉強し直し、あるいはあらたに学ぶことになる。それが私にとってはこの上ない先達となる。

最近の質問に、「ここの地形はどういうものか」というのがあった。
都内は北区飛鳥山公園の花見会場で発せられたため、とりあえず「山ではなく、平野」と答え、台地端の段丘と沖積低地にも言及したのだが、問いは「平野は川がつくりだしたというが本当か」とつづいた。
そうして「アメリカやカナダの平野も見たが、川がつくったとはとうてい思えない」「(最近よく話題になる)プレートテクトニクスがつくったものではないか」という意見が追いかけてきた。

海外旅行体験皆無の貧乏人で、仕事が終わればただちに帰る数回の海外出張しかもてず(そのうち1回は単身1ヵ月弱の結構長期だったが)、近年もっぱら東京を中心とした微地形を追ってきた者としては、これは意表を突かれた形の質疑であって、せいぜい「(日本列島の)関東平野と大陸の平野を直接比較することはできない。地形とそれをつくりだした時間のスケール、営力のステージがまったく異なるからである」といった答えしか返すことができなかった。

念頭にあったのは「斉一説」にもとづいた「大きな地形は長大な時間」「小さな地形は短小な時間」であるが、それも近年は一般的には使えなくなった。地球の歴史において「破局説」(激変説・天変地異説とも)で説明する事蹟が増えたからである。

さて「平野」であるが、日本最大の関東平野といえども、中国やヨーロッパ、南北アメリカ大陸など海外に存在する大きな平野と同列に論ずることはできない、というのは間違いではない、というよりまったく正しい。
しかしもっとも基本として用意すべきは、平野は大別して「侵食平野」と「堆積平野」の2種類があり、日本列島の平野は基本的に後者である、という答えであった。

構造平野は前者の代表であるが、古生代や中生代の地層(いずれも岩盤)が水平状態を保ちつつ侵食を受けてできあがったそれは、南北アメリカやアフリカ、ユーラシア大陸のような安定陸塊のみに存在し得、日本列島のような地殻変動のとりわけ活発な新期造山帯には存在余地がないからである。プレートテクトニクスはもちろん地形営力の基本のひとつだが、その力は新期造山帯に顕著にあらわれる。ただし日本列島の平野をつくりだした営力は、直接的には河川のそれであり、プレートテクトニクスではない。

世界的にみればまことに小規模な関東平野は、川がつくりだした。それも川の堆積作用がつくりだしたのであって、侵食作用ではないのである。その堆積作用がつくり出した関東平野も、地形としては3種類に区分される。丘陵、台地、低地である。台地は基本的に扇状地である。低地は沖積低地や三角州である。ただし丘陵は堆積後に、小河川の侵食作用によっていまの形状がつくりだされた。各々の形成過程(時間)は別物である。

強靭な護岸堤防の内側に住む現代人は、そこがほとんど定期的に訪れた溢水がつくりあげた土地であることをとうの昔に忘れてしまった。その一方で、台風後茶色い土石流が流れ下る映像の刷り込みがあるから、川の作用に「堆積」があることはイメージし難い。ましてそれに類した現象が、この土地をつくりだしたとは思いもよらない。しかし、われわれの主要な生活舞台である平野は、「洪水」がつくりあげてきたと言っていいのである。「埋立」や「干拓」も人間による川の堆積作用への便乗増幅であって、「人為」は時間のステージを転移させれてみれば「自然」に含まれる。

日本列島の地形は地球表面上きわめて「特殊」であって、規模小さく、しかし動き(活動)と危険度は群を抜いて著しい。つまり脆弱である。これを理解していないと、マンガのように深刻な悲劇に巻き込まれる。例えば54基も「原発」を立地させながら、事故の対処もほとんどできていない(放射性物質の「露天掘り」「ただ漏れ」状態継続中。本ブログ2013年11月参照)のはその典型である。

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芳賀ひらくの 古地図展

2017年3月の平日、吉祥寺の喧騒外れエリアですが・・・

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江戸初期から昭和まで - 東京23区・多摩東部 
3月7日(火)~9日(木)/3月13日(月)~15日(水) 
いずれも午後1時~6時オープン・入場無料
随時 地図ワークショップ開催/古地図類の特価販売もいたします
galleryナベサン 180-0001 武蔵野市吉祥寺北町2-2-22

飯田龍太白泉をして「たんねんに読んでも、ほとん見るべき作はない」とし、「極月の・・・」は「なんともつまらない作品である。こんな句に魂の甦りもなにもあったものではない」(『秀句の風姿』一九八七)とたたみ掛く。「読み」を放擲、ただに貶めんてふ、無視無化への「義務的な衝動」なり。「魂の甦り」とは白泉自身の言葉に候。以下にそを引かん。『渡邊白泉全句集』中「瑞蛇集」あとがきなり。

「俳壇や文壇から絶縁された孤独の窖で無償の努力をつゞけることは、わたしにとってさしたるくるしみではなかったが、この時期にあっては身の細胞が日に日にハラハラと舞い落ちてゆくような痛苦を味わったのである。/しかし「夜の風鈴」の一句によって、わたくしは甦えることができた。五年間わたくしから離れ去っていた何かゞ突然帰ってきて、わたくしの魂と一つになったのである。生きていてよかったというような言い方では十分に言いあらわせないような充実感をわたくしは覚えたことである。/爾来わたくしは、焦ることもなく、恐れることもなく、ひとり閑々として俳句を作りつゞけて来た。俳壇というところにとゞまっていたら、このような制作のありかたはとうてい実現することはなかったであろう。わたくしは、この境を何よりも貴重なものとして守り通さねばなるまい。昭和四十四年、渡辺白泉記」

「瑞蛇集」すなはち白泉戦後の作集にて「自昭和三十九年至昭和四十三」とあり、「霧の舟」および「夜の風鈴」の二部より成る。その間五年の空白期あるゆゑとは白泉自ら記すところなり。

龍太が「なんともつまらない」「こんな句」「・・もなにもあったものではない」と三段構えに貶しめし極月の夜の風鈴責めさいなむは、一九六六年(昭和四一)に成りし白泉の魂の甦りなりき。「かの事件」から二六歳を経、自身の逮捕そのものを梃子とし、戦後俳壇の重鎮と仰がれるに至りし飯田蛇笏代表句「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」の虚構脱化を果たし得たり。すなはち俳壇・文壇に隔絶しつつ、この句をもってつひに「俳句ムラ」序列を顚倒せる境域を得たがためなり。「責めさいな」めし者あに官憲のみならんや。詩人の孤絶「二十億光年」たるべし。「瑞蛇集」てふ命名に白泉の意志と面目躍如を見んか。因みに蛇笏句は一九三三(昭和八)年の作なり。

極月の夜の風鈴責めさいなむ
時節ゆゑ掲句としたれども、此れ奇妙なるヒユモアの底に湛へたる鋭き悲哀を感ぜしめ、あらためて秀逸句と認めずばあらず。取り込み忘れられた風鈴の軒先寒風にさらされ已まざる音を悲鳴と聴くか、或はなにがしかの感慨になぞらへて己がそをさいなむSMめきし戯画図とせしものか。否、白泉生涯を画せし治安維持法逮捕を踏まへばむしろかの大戦期「空気を読めぬ」「空気に馴染まぬ」時節遅れ者の拘引拷問の記憶転ぜしと解すことこそ自然なれ。「四合目からの出発」阿部筲人理想句と高唱してやまざる飯田蛇笏の
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
が「日本的美観」を背負ふ伝統俳句の極致とせば、こはその対極に屹立し、飯田親子が口を拭へる翼賛句作の足元を抉りたり。龍太この句執拗に貶めたりと。げに、さこそあらめ。

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永らく依存してきた中国漆の輸入途絶を機に、日本の漆器業は産業として大きな変化を遂げた。漆器産地ごとの技術変化の具体相をとらえた好著。

馬場章著『漆器業地域の技術変化』
ISBN978-4-902695-30-4  C3025
B5判 上製・函入 145ページ
限定200部 本体 2800円+税

目 次
(口絵カラー「漆器の絵暦」・モノクロ口絵)
序 章 研究の目的と方法、および全国の生産動向
と研究対象地域の特色
第1章 漆器工業地域の技術変化と生産構造
1 木曾漆器工業地域
2 輪島漆器工業地域
第2章 漆器工業と塗物工業の併存地域における技術変化と生産構造
1 紀州(海南)漆器工業地域・会津漆器工業地域の技術変化と生産構造
2 越前漆器工業地域の技術変化と生産構造
3 高松における漆器工業の生産構造の変容と要因
4 山中における漆器工業地域の技術変化と生産構造
第3章 塗物工業地域の技術変化と生産構造
1 静岡漆器工業地域
2 名古屋における漆器工業(一閑張漆器工業・硬質漆器工業)の盛衰について
   あとがき
   英文概要
   索 引

馬場 章(ばば・あきら)
1934年、東京生まれ。
早稲田大学教育学部卒業、日本大学大学院文学研究科地理学専攻修士課程修了。
駒場東邦中学校・高等学校教諭、長野大学・日本大学非常勤講師を歴任。

前回の〈「ハケ」は、「ガケ」ではない。まして「崖線」ではない〉(2016・11・20、collegio.jp/?=819)および〈水の場所〉(2016・9・22、collegio.jp/?=813)は、拙著『江戸の崖 東京の崖』の訂正補遺であるが、ことのついでに訂正3として標記についていささか述べておきたい。

国分寺崖線の定義については、松田磐余先生が『季刊Collegio』(No.62、2016年夏号)について述べているのがもっとも妥当すると思われるので、以下長くなるが引用しておきたい(数字表記を改変)。

 〈武蔵野台地を多摩川沿いの地域で説明する時の必須の術語が国分寺崖線で、大岡昇平の『武蔵野夫人』(雑誌『群像』、1950年)で使われた「はけ」と一対で出てくることが多い。筆者もそうであったが、地理学専攻者でも、命名者を知らずに、国分寺崖線という術語を使ってきた。『武蔵野夫人』が発行された2年後の1952(昭和27)年に、国分寺崖線という術語が福田理と羽鳥謙三両氏によって定義されたことを世に知らしめたのは本誌を発行している芳賀啓さんである。その経緯は日本地図センター発行の『地図中心』2012年3月、4月号に掲載されている。両氏の定義を簡略化すると、国分寺崖線は、武蔵野段丘と立川段丘とを境する段丘崖で、北多摩郡砂川村九番付近から世田谷区成城付近に至る、となる。砂川村九番(現立川市幸町)から段丘崖が明瞭になるし、世田谷区成城の約100m下流で立川段丘は沖積面下に埋没していく(交差する)ので、この間を国分寺崖線と呼んだと推測できる。
 鈴木隆介氏は『建設技術者のための地形図読図入門 第3巻 段丘・丘陵・山地』(古今書院、2000年)の中で、段丘面が2段以上あるときに、一つの段丘面の後面(高い方)の崖を後面段丘崖、前面(低い方)の崖を前面段丘崖と呼ぶことを提唱している。扇状地などの氾濫平野は、離水後、ほぼ同時に前面段丘崖が形成されて段丘面となる。国分寺崖線を地形学的に定義すると、武蔵野段丘の前面段丘崖、もしくは立川段丘の後面段丘崖となる。どちらの定義でも、国分寺崖線は成城付近で終わらなくなる。前者の定義を採用すると、国分寺崖線は武蔵野段丘が続く限り、下流部に延長でき、田園調布台まで続く。また、現在では、武蔵野段丘はM1、2、3面の3面に区分されているので、形成年代の異なる段丘面の前面段丘崖の連続となる。後者の定義を採用すると、立川段丘が沖積面と交差しても、段丘崖は沖積面下に下部が埋まって、上部が沖積低地から顔を出すことになる。多摩川低地の下流部は縄文海進時に埋積されているので、多摩川低地と武蔵野台地間の段丘崖は国分寺崖線となる。崖線という術語は「はけ」と同様に地形学用語ではないので、混乱をさけるためには、国分寺崖線は福田・羽鳥両氏の定義を使用して位置を確定し、より下流部の段丘崖は、その延長部もしくはほぼ同時期に形成された段丘崖としておけば無難であろう。〉

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鈴木隆介『建設技術者のための地形図読図入門 3 段丘・丘陵・山地』560ページの図11.1.3(段丘模式図)から、段丘面、段丘崖、開析谷および前面・後面段丘崖の関係

引用文末の「崖線という術語は「はけ」と同様に地形学用語ではない」とあるところに注意されたい。
1981年に刊行された『地形学辞典』にも「崖線」という用語は見当たらない。一般の辞典にも同様であることは既に拙著に触れておいた(『江戸の崖 東京の崖』17ページ)。何故か。

鈴木隆介著『建設技術者のための地形図読図入門 1 読図の基礎』(1997)の139ページ、「地形面の定義」の項に地形面のもつ6種の性質の説明があって、それにつづいて
 〈これらに対して、段丘崖、谷壁斜面、地すべり地形、山地・丘陵の斜面などのような急斜面で構成される地形種は地形面とはよばれない。なぜならば、これらの地形種も上記の①~④において等質性をもつ部分に細分されるが、その等質性をもつ部分は一般に小面積であり、かつ地形変化速度が緩傾斜ないし平坦な地形面に比べてはるかに大きく、その形成時代を特定しがたいからである。〉
と記す。
要は、地形学上、急斜面(崖)は本質的存在とはなり難い、ということである。

さらにつづけて、
 〈重要な地形面には固有名を付ける。東京付近では、下末吉面、武蔵野面、立川面などが著名な地形面である。地形面の命名法については国際的な規約はないが、地層名の命名法と同様に、慣習的には次のように命名される。/①その地形面の最も代表的な地区に成立している地域や都市、集落の地名を付ける。その際、分布範囲の広い地域面については、それにふさわしい広域的な地名を付ける。/②地名+地形種名の形で命名することもある。/③狭い地域に、同じ地形種で、しかも新旧の地形面がいくつもある場合(例:段丘面群)には、その地形場にしたがって上位面、中位面、下位面とか、形成順序で古期面、新期面あるいは数字を付ける(略)。/④人名や研究機関名は付けない(地形は人類共有の自然である!)〉
と、地形面の命名法に触れているが、「国分寺崖線」については、同『建設技術者のための地形図読図入門 3 段丘・丘陵・山地』(2000)の615ページ、「侵食扇状地起源の広い岩石段丘」の項において〈立川面の後面段丘崖は延長が長いので、とくに国分寺崖線と命名されている〉として、例外的な命名であることに注意を促しているのである。

「国分寺崖線」とは、例外的に許容された地形名である。
つまり〈××崖線〉などというネーミングを勝手に乱発してはいけないのである。
拙著の「日暮里崖線」という言葉は取り消さなければならない(p.6,18,19,25,26)。
まして、命名法にまったく無知で、その原則に違背している「南北崖線」などという呼名においてをや(〈《南北崖線》という「ネーミング」について-『き・まま』4号に寄せて〉2015・4・25、collegio.jp/?=737参照)。

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