NHKが本夕7時のニュース7と9時のニュースウォッチ9で大々的に報道した《原発「民間」事故調査報告書》。
結局、原発事故の責任を、「官邸」に押し付ける「無責任村別働隊」の隠れ大本営発表だった。
問題の所在はそんなところにあるのではない。
安全神話の飴と鞭を全面に、膨大な税を投入して国策として原発を推進し、現在なおその神話から脱しえない、官政財学報の原発村そのものにあることは明らかである。
「民間」をわざわざ名乗るのに、「調査金」の出所は不明であり、メンバーはその筋の「権威」ばかり。
その「原作」を、NHKの「中枢」は、より「脚色」して全国放送した。
シナリオの目的は、人々の「政治不信」につけこんで責任を「下手人以外に」なすりつけることにあった。
曰く、政府-官邸の対応は「場当たり」であったと。
本件は、ひとりの下手人と監査・オマワリ役が仮面を変えて出て来るだけの、愚かしくも哀しい狂言劇である。
報告書のシナリオは、「対応」に集約された。
問題の根源を問わない、その責任を明らかにしない、「目くらまし報告書」である。
それを大々的に電波に乗せた「公共放送番組」も、また視るに、聴くに、堪えない、「日本的構造」の一場面である。
甲 また、書評を引受けたんだって?
乙 うん、なにせ本が読めるからね。
甲 どれどれ、これか。著者は高名な学者じゃないか。たしかレヴィ・ストロースのお弟子さんだったね。
乙 そう。文化人類学がご専門だけれど、出身が「深川」なんだ。
甲 それはそれは。小津安二郎の出もあのへんだったね。
乙 小津監督の生家は清澄庭園の南側。川田家は深川でもずっと北の小名木川北岸だから、家歴も古い。
もっとも、両家ともそれなりの商家だったようだ。
甲 そうね、「川向う」は北から陸化してきたところだからね。小名木川の北なら土地としては江戸以前からだし。
しかしタイトルの「下町」はどうだろうね。すくなくとも江戸時代から明治あたりまでの「下町」は今の日本橋や銀座とその周辺だけれど。
乙 「武蔵野」と同じように、「下町」も指す場所が外側に移るんだね。なにせ今は葛飾柴又が「下町」だし。
甲 しかし著者の意気込みはすごいよ、“この本で私が試みたいのは、連続した「江戸=東京下町という「地域」の視点から、変革された日本という「国家」を捉え直すことだ。そして江戸=東京下町民のありようを、西洋モデルともかみ合う形での、「市民社会」のモデルとする可能性を探ることだ”と帯にある。
乙 終章を含めて全27章のうち、書き下ろしと思われるのは1、4と終章だけで、あとはいくつかの雑誌に書いたもの。「朝日ジャーナル」(1987年)のもあって、最初からそういう視座をもって書かれたわけではないのね。
帯にあるようなことは、二宮宏之『結びあうかたち――ソシアビリテ論の射程』(1995年)の元になったシンポジウムに大きな啓示を受けたと終章に書いているから、段々にかたまってきたということだろうね。
フィールドワークの記録(インタヴュー)あり、思い出話あり、パリと江戸=東京の比較あり、水鳥(ミヤコドリ)についての調べごとあり、歌舞伎の話ありで、いろいなスタイルが詰まっている。
甲 なにが面白かった?
乙 それは、この著者の「杵柄」であるフィールド・ワーク、つまり地域の聞きとりね。それから、自分のお母さんやお祖父さんのこと。とくに16章の「私の幼時の記憶の中にも、生あたたかい潮の匂いが、水浸しになった早朝の街をおし包んだ、荒涼として世の終わりのような光景がある・・・・」などというのがあざやかだね。なんといっても直接体験の記憶だから。
甲 東京湾岸の高潮災害は現代にも無縁でない、というより下町ゼロメートル地帯には常に切実な課題だね。
乙 そう。砂町銀座は「東京で一番元気な商店街」といわれるけれど、ゼロメートルどころかマイナス2~3メートル地帯。だから201ページの昭和38年の水害と現代の比較写真はとてもインパクトがある。
ただ、全体には文化論的な記述が多いし、身びいきの温(ぬる)さが目立つね。たとえば歌舞伎の「助六」を、「武士の文化に対抗する江戸町人の意気」と言うけれど、助六になぶられて最後は殺される「意休」という「武士」が、実は歌舞伎界がその支配から脱した後の弾左衛門をモデルとした、という説をどう見るのだろうと思ったね。
甲 そうね。下町もいいけれど、「地域」を問題にするなら、「3・11」以後、東京はもう東京だけでは語れないしね。
乙 これからの人類学は、フィールドをスタティックにとらえていたら成り立たないだろうね。「グローバル化」と「核」の正体が露出したし、実際に東京でも難・流民化がはじまっている。「3・11から20年後」の射程をもった「ソシアビリテ論」が望まれるね。
甲 そう。著者はアフリカの奴隷制も研究したようだけれど(『曠野から』1973)、金原ひとみが『東京新聞』(2011年10月11日夕刊)に書いた「主人すらいない奴隷」という言葉をどう受け止めるか、知りたいところだね。
(以上は、2012年2月4日付『図書新聞』掲載書評。対象は「江戸=東京の下町から 生きられた記憶への旅」川田順三著、2011年11月25日、岩波書店)
「坂」の上の雲
1970年1月に初版の出た、横関英一(よこぜきひでいち)氏の『江戸の坂 東京の坂』を嚆矢として、現在まで20点を超える、江戸ないし東京の「坂本」が刊行されています。
もちろん、改訂版や文庫版化を計上しての数字ですが、2年に1冊という点数は、おおむね東京山手線内という狭いエリアについての記述であることをかんがえると、むしろ異常に多いアイテム数とみてよいのです。
日本人は、と敢えて一般化して言いますが、好きなのですね、坂が。
対して海外では、起伏に富んだ都市として知られるサンフランシスコやリスボン、ナポリですら、坂道が固有名詞をもつとは聞いたことがない。
坂はストリートないしアヴェニューの一部、傾斜地形の特定部分にすぎないのであって、傾斜部だけを取り出して名辞やら物語やらを付与するエートスは、どうやら日本語世界に特有のもののようなのです。
しかし、江戸っ子がとくに坂好きであったかというと、かならずしもそうではない。
それもそのはず、天下の総城下町における工商階級の住まいは、武蔵野台地下の沖積地にあったのですから、そこ(下町)に坂は存在しえない。
台地の上のお屋敷町や寺社には商売やお使いで、あるいは遊山に際し上り下りするものであって、江戸っ子の日常のランドマークは「橋」。坂はまずもって、他所(よそ)の土地の、単純に傾斜のきつい場所という認識でした。
そうして、今日と大きく異なるのは、傾斜地に武家屋敷や商家、まして住宅が建つことはなかったから、台地と低地の境界領域である坂は人気(ひとけ)のない場所。つまり坂は好まれるどころでなく、むしろ難儀な、厭(いと)うべき、「地形の特異点」だったのです。
坂が文字として現われた初例が、「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」(『古事記』)であったように、警戒すべき変異(シフト)地点に付与されたのが、この地における坂名の発生でした。
ところが、明治時代に入ると、坂と坂名のもつ意味合いは逆転というほど大きく変化していきます。
それはもちろん、封建城下町であるがためにエリア閉塞を原則としていた江戸が、一転して個々にひらかれてゆく過程と軌を一にしていたわけですが、長きにわたり徒歩か駕籠か、せいぜい騎馬程度だった列島上の陸上交通が、馬車を手始めに戦後のモータリゼーションに至るまで劇的に変転し、それにやや遅れつつ、坂自体のかたちも急激な変容を見せはじめるのです。
さらにまた、そのひらかれた首都に、「偉く」なりたいあるいは「一旗」上げたい若者たちが列島の隅々から続々と「上京」します。その多くが住まうのは、台地というよりも文字通りの山の「手」。旧武家屋敷地一角の借家か下宿で、つまり坂になじんだ台地縁辺の仮寓でした。
だから、その青雲の志の成否如何が、坂の上下というトポグラフィックなありようと照応し合う心理構造が形成されるのは自然の成り行きでした。
つまり、坂が一種独特の、過剰な思い入れをもつ「地形」として活字に登場するようになるのは、明治期以降の出来事といっていいのです。
そのもっとも極端な例は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』という作品タイトルでしょう。「登って行けばやがてはそこに手が届く」と思われた「近代国家の理想」あるいは「理想の近代国家」は、昨今はしなくも露呈したように、よじのぼった先にあって、届くはずもない幻の存在だったと気づいたとすれば、それは痛切きわまりない逆説でした。かつて山村暮鳥が北関東の地から「おうい」と呼びかけた白い雲は、行先定まらぬ汚染源に転じたのです。
さて、司馬は「国家」の現在・未来にまつわるイメージを「坂」になぞらえたわけですが、それとは逆に、個々の「来し方、行く末」つまり人生過程を坂に重ねる方法が存在していて、どちらかというとこちらが一般的でした。
(以上は、日本地図センター発行『地図中心』2012年1月号、通巻472号掲載文の冒頭部。このあと「無縁坂」「坂の文化史」「坂の生成と構造」「竪の坂・横の坂」「盛土坂」「複合坂、そして橋梁坂」とつづく)