おお。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも気づかずにゐた。
みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは氷上を匍(は)ひまはり、
‥‥‥‥‥文学などを語りあった。
うらがなしい暮色よ。
凍傷(しもやけ)にただれた落日の掛軸よ!
だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで、
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、
反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」
上掲は、金子光晴の詩集『鮫』(1937年8月刊)から、「おっとせい」の最終部(三)である。
1937年(昭和12)といえば、7月7日盧溝橋事件を契機に日中両軍が全面戦争に突入(所謂支那事変)し、8月には国民精神総動員実施要綱が閣議決定されている。
「皇軍」が中華民国の首都南京まで「侵攻」占領し、国際的非難の的となる「南京事件」を他所に、列島のあちこちで祝賀の「提燈行列」が行われたのはこの年の12月であった(「提燈を遠くもちゆきてもて帰る」白泉)。
大陸における文字通り泥沼の戦争に引きずり込まれ、それでも世間が「勝った、勝った」と唱和しているなかでの「うた」であるから、『鮫』は「当時の軍国主義への抵抗詩として注目され」(百科事典マイペディア)、また「天皇中心の権力支配,戦争を痛烈に否定した抵抗詩集」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)とも言われるが、しかしもし当時「注目」されていたとすれば、うたの作者はただでは済まず、生死の岐路にも立たされたはずだ。
つまり「抵抗詩」という評価は戦後のものである。
実際、金子はこの年の10月には次のような「参戦鼓舞」のうたを発表してもいるのである(櫻本富雄『空白と責任 戦時下の詩人たち』1983。発表誌は『文芸』特集「戦争を歌へる」)。
(略)
戦はねばならない
必然のために、
勝たねばならない
信念のために、
一そよぎの草も
動員されねばならないのだ。
ここにある時間も
刻々の対峙なのだ。
なんといふそれは
すさまじい壮観!
(略)
(抒情小曲 「湾」の一部)
しかし、このうたの語には、実はすべて見えないカギカッコが付けられていると言っていい。すなわち端的には「ねばならない」という語に建て前を、「すさまじい壮観」という語に彼岸性を隠し、総じて一歩離れ「むかうむき」から振り返った、醒めた表現がなされているのである。読む側にとっては常識的に翼賛のうたであるが、表現には辛うじて両義性が含ませてある。これは「抵抗詩」などでは無論ないが、翼賛韜晦のうたである。
ただし、それだけで金子が戦時を無傷でくぐり抜けられたわけではなかった。
戦後改竄されたり全集に収められることのなかった「翼賛作品」は、2、3にとどまらなかった(櫻本)。上掲「湾」も、全集に収録されたものとは異なっている。
しかしながら、ほとんどの「うたびと」が翼賛体制に身も心もとりこまれていったなかで、金子光晴の「うたびと」としての軌跡はきわめて稀である(森三千代、森乾との合作自筆詩集『三人』など)。
翌1938年に『中央公論』に発表された次のうたは、両義的な表現というよりも、詩の象徴性を用いた風刺の代表というべきもので、同じパラシュート降下を扱ってはいても「藍より蒼き 大空に大空に 忽(たちま)ち開く 百千の」と歌った「空の神兵」(梅本三郎作詞・高木東六作曲、1942。陸上自衛隊第一空挺団歌)とは位相が異なるのである。
落下傘がひらく。
じゆつなげに、
旋花(ひるがほ)のやうに、しをれもつれて。
青天にひとり泛(うか)びただよふ
なんといふこの淋しさだ。
雹や
雷の
かたまる雲。
月や虹の映る天体を
ながれるパラソルの
なんといふたよりなさだ。
だが、どこへゆくのだ。
どこへゆきつくのだ。
おちこんでゆくこの速さは
なにごとだ。
なんのあやまちだ。
(「落下傘」一)
日本語で書かれた「戦争文学の最高峰」などというものがあるとすれば、吉田満の『戦艦大和ノ最期』をあげるのが、まずは順当かも知れない。
特攻出撃して被弾沈没する巨艦のむなしさ、戦闘の実際を語って圧巻である。しかしそれも戦争の一側面にすぎず、むしろその最奥部に届いているとは言えないのである。
先の大戦での「日本側」死者約310万人(内閣衆質152第15号、2001年8月28日)のうち、「戦死」の多くは、実は餓死と戦病死であって(金子兜太『あの夏、兵士だった私』ほか)、とりわけ「外地」における極限状況は日本兵の一部をして人肉食の餓鬼に変ぜしめた(大岡昇平『野火』ほか)。しかし、アジア大陸に「進出」した「皇軍」が殺戮し、また占領した地域での死者の数は、「日本側」とは桁違いに多かったのである(たとえば中華民国行政院賠償委員会発表、1947年) 。
一方「内地」にあって「唯一」の地上戦が展開した沖縄では凄惨な戦いとともに、「大和」の自殺(特攻出撃)と似て非なる「集団自決」が叢生した(比嘉富子『白旗の少女』ほか)。
さらに前線ならざる都市爆撃、そして一瞬で夥しい破壊と膨大な数の死者を生じさせ、生き残った者の骨髄をも蝕みゆく原爆は、先の大戦から今日に至る戦争と戦略の著しい特徴である(原民喜『夏の花』ほか)。
そうして都市とインフラ、生産システムの完膚なきまでの破壊は、戦争が終結した後も食糧をめぐる悲惨な状態を現出せしめたのである(野坂昭如『火垂るの墓』ほか)。
「戦争文学の最高峰」などという表現がそもそも「笑止」なのは、たとえば先にあげた二つの「うた」に「戦争」が描かれているわけではないからである。
ここに並べられているのは「戦争」ではなく、「いくさ」に駆り立てられ、赴かんとする者の、出立の心情とそれを鼓舞する言葉であって、それ以外ではない。であるからこそ、逆に「心ゆさぶられる」(高揚させられる)のである。
「『戦友別盃の歌』がはじめて『うなばら』(当時は赤道報といった)に出た時の感激は大きかった。将校も兵士もその感動を隠さなかった。歌のところだけが切り取られ、手帖に秘めて愛誦された。(略)ある若い将校は私に語って言った。『長いこと詩を忘れてゐたのが、大木さんのあの詩で、詩の存在に気づき、詩が如何に大切なものかをはっきり知ることが出来たのを喜んでゐます。戦場と詩といふものほど離れてゐるようで実はしっかり結びついてゐるものは恐らく無い筈ですからね』と。(後略)浅野晃」
「戦争に於て勝敗を決するものは、兵の数でもなければ装備でもなく、人間の、民族の、精神力の凝集したものであると同時に、人間の、民族の、表現力が凝集したものは詩であることを知ったのは、僕にとっては大きな発見であり、啓蒙であった。かつで僕は『詩人認識不足論』を書いて日本の詩壇を騒がせた男であるが、その際何の反駁もしなかった大木君に対して、今の僕はただ黙って頭を下げるほかないはない。/戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である。大宅壮一」
上掲2文は、宮田毬栄著『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』に『海原にありて歌へる』の「跋」から引用されているものである。そうして著者すなわち大木惇夫の次女は次のように書くのである。
「父の戦場での詩の働きは、ジャワ方面軍の首脳部が予想していたものを遥かに超えていた。宣伝班員のだれもができうるかぎりの仕事に励んでいたが、父の仕事はひときわ直截的な効果をもたらしたのだった。それは詩というものの力にほかならなかった。「詩人大木惇夫の任務は十二分に果たされた」との判断によって、父に帰国をうながす意向が伝えられたのは、胃痙攣の発作で寝込んでから数日後のことであった。」
巻末の年譜によれば、大木惇夫が「現地除隊の形で極秘の帰国」をしたのは1942年(昭和17)9月下旬という。
この時期、戦争は死の翳の下ではあったが、まだその上半身を白々と露出させていたにすぎなかった。
それが赤く黒く黄色の巨大な姿を誰の目にも明らかにしはじめる(「赤く蒼く黄色く黒く戦死せり」 渡辺白泉)には、大木が「任務を果たして」から半年も要しなかった(吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』)。
言葉は人類の虚構の根源である。民族語は「民族」の虚構であり、うたはその直接力である。戦争の「現実」が、「うた」の虚構と乖離を甚だしくすれば、うたは色あせる。「飢え」はその最たる「現実」である。
二つのうたは、つまるところ「行きはよいよい」うたであって、マルスの凛々しくも蒼白い若者顔とは裏腹の、目鼻のない化物の本質に迫るもの(「戦争が廊下の奥に立つてゐた」白泉)ではなかった。だからこそ、うたは「役目を果たし」えたのである。
戦争は、「いくさ」と言われた古代のそれとはまったくの異次元に移行していた。「銃後」もすでに消えていた。「感状」も「勲章」も無意味であった。その結末は、死と廃墟と飢えであった。「帰り」を生きた「生き残り」たちは、当然ながらこれらのうたとメロディーを記憶に封印し、それを見聴きするのを好まなかった。すくなくとも私の父はそうであった。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(T・アドルノ)。東アジアにおいても加害と被害を問わず、同然の「記憶」が刻印されたからである。
「うたびと」は、地獄へつづく「言葉の片道切符」しか手渡さなかった、あるいは手渡し得なかったのである。
これらのうたが今日再び「戦争を知らない世代」の間に浮上し、あるいはわれわれにある種の「感情」をもよおさせるとすれば、さらに切開しなければならない問題が残ると言わなければならないのである。
彼その終局をおもはざりき 此故に驚ろくまでに零落たり (『エレミアの哀歌』第1章9節)
以下に掲げる五七調の16行は、1942年(昭和17)11月に現インドネシアのジャカルタ(当時オランダ領バタビア。日本軍が占領)で出版された大木惇夫著『海原にありて歌へる』のなかの「戦友別盃の歌―南支那海の船上にて。」と題されたうたである。
言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビアの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字星を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。
このうたについて、wikipedia「大木惇夫」の項では根拠を示さず「日本の戦争文学の最高峰ともいわれる」と書いている。「も」付の伝聞体が、書いた本人がそう思っているにすぎない事情を語って笑止であるが、このうたに心揺るがせられた者はすくなくないだろう。しかしwikipediaの記述としては、もちろん失格である。
さて、次のうた(「海ゆかば」)はどうであろうか。
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへり見はせじ
こちらは『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」の一部で、大伴家持が大伴氏と佐伯氏の家祖家系を言上げした部分である。
これに曲をつけたのが東京音楽学校教授であった信時潔で、1937年(昭和12)にNHKの嘱託を受けたものという。
しかし阪田寛夫の「海道東征」(『文学界』1986年7月)によると、「海ゆかば」には明治初期に東儀季芳が作曲した雅楽ふうのものがあり、それは「軍艦行進曲」の一部をなすという。つまり一般に知られる「海ゆかば」は戦時期の「国民精神総動員体制」用改曲であった。
この新しい「海ゆかば」は、負け戦感が濃厚となる1943年(昭和18)5月以降、大本営の玉砕(全滅)ラジオ発表の冒頭曲とされて人口に膾炙し、戦時中は「第二国歌」ないし「準国歌」とも称されたという。
「戦友別盃」同様(戦時期の日本列島と旧植民地の、そしてそこからアジア大陸と太平洋島嶼に散開させられた)人心の多くにくい込んだうたで、「日本人によって作られた名曲中の名曲」という評もある(新保裕司『信時潔』2005)。
しかしながらいずれの「うた」も、まだ大戦緒戦の景気のよい時期につくられたにもかかわらず印象は暗く、悲壮というよりも悲愴な「無理やり」感がある。新曲「海ゆかば」の最終部「かへり見はせじ」の唐突急激な高揚部はとくにそうである。
それは Wir müssen sterben (われわれは死なねばならぬ)、つまり自分あるいは他者の死を絶対的に強制する戦争という極限状況にあって、それを諦念とある種の高揚感で無理やり受け入れ、生への執着を断ち切らんとする不自然で奇怪な心性を前提としているからである。
「戦友別盃」の最終行は「雲」という自然現象を引き合いに、「黙々と」運命に従うことが指し示される。
これはほとんど「阿Q」(魯迅)の論理であり、奴隷の心性であって、心理的にはマゾヒズムと等価である。
ある者は「海ゆかば」をして「決して「勝利」への行進曲ではない、「偉大なる敗北」の歌である」と言う(同前)。しかし「敗北」に「偉大」を付けて美化するとすれば、結局のところ「精神勝利法」と変わるところがない。
「猿蟹合戦」の主人公はズワイガニでもタラバガニでもありません。海に近い森や里山に棲み、木にも多少なら上れる、アカテガニです。
アカテガニの呼吸法は少々変わっています。カニは一般に鰓呼吸をするけれど、アカテガニの場合は「鰓呼吸した水を口から吐き出し、腹部の脇を伝わせて空気に触れさせ、脚のつけ根から再び体内に取り入れ」ることで、陸上生活にもっとも適した種のひとつとなりました。
雑食性だから、おにぎりでも熟した柿の実でも食べる。古い家なら土間にも入って来たと言います。
昔話では、サルの投げた青柿で潰された母ガニの死体から仔ガニたちが這い出し、ハチや臼、牛糞などの味方を得てかたき討ちを遂げました。
現実のアカテガニのお母さんは、7月か8月の大潮の晩、つまり満月か新月の夜お腹にたくさんの卵を抱いて森から浜や磯に下り、潮に浸かって体を震わせ、孵化した幼生(ゾエア)を海に放ちます。
つまりアカテガニは、森と海がつながったエリアにしか生きることができないのです。しかし日本列島の海岸線はほぼすべてコンクリート護岸や自動車道路に変わってしまい、辛うじて残された森も海浜に直接続くところはめったにありません。実際、関東地方でアカテガニの棲息エリアとして知られるのは、神奈川県三浦市の小網代湾にのぞむ一帯と千葉県勝浦市の鵜原理想郷の2ヵ所くらいです。
三浦半島の南西端、小網代湾に注ぐ小河川浦の川の谷戸は、近年とくに生物多様性の観点から「小網代の森」として保存され、人の手で維持管理がはかられています。
いまの季節、少しひらけた湿地ではハンゲショウ群落の半分白い化粧姿が目を惹き、磯浜では小さなチゴガニのオスたちの盛んなウェービング(「ダンス」と言う人もいますが)が見ものでしょう。山裾の岩間に比較的大きなアカテガニが隠れているのを、見つけることができるかも知れません。この夏休みを利用して、出かけてみてはどうでしょう。
小網代湾のアカテガニ
小網代湾につづく森つまり谷戸とその自然については、『「流域地図」の作り方』(ちくまプリマ―新書、岸由二著、2013)、『「奇跡の自然」の守りかた』(同、岸由二・柳瀬博一著、2016)が紹介しているので一読してみてください。最近ではNHKのEテレでも取り上げられたので、その映像も参考になるでしょう。
〈本で学ぶ〉から〈場所で学ぶ〉、そして〈場所に学ぶ〉それぞれのテーマと方法があります。生物多様性だけでなく、そのエリアの地形や地質、地名や歴史といった面についても、いろいろなメディアを通じて探ってみることも「図書館」の意義と存在性を深めることになるでしょう。
さて、この稀有な自然を体感しに出かけるには、京浜急行の久里浜線終点三崎口からバス(引橋下車)を利用するのが一番ですが、それには「みさきまぐろきっぷ」がおあつらえ向きです。京浜急行が発行している「おトクなきっぷ」のひとつで、品川からの往復の電車賃とバス代、食事代や観覧料などが含まれ大人1人3500円、ただし発売当日かぎり、自由席のみです。
注意すべきは、週末や連休の晴天の日は混雑するかも知れないこと、また万が一の地震や津波も想定に入れ、電車が不通となる事態も考えて、ある程度の準備をするほうが賢明だということです。もっとも後者については日本列島に住むかぎり、どこに出かけるにも必要な心掛けです。
ともあれ、猿蟹合戦の物語を育んだ自然環境、その風や音、そして匂いに触れておくことは、将来どのような職業に就くかにかかわらず必要なことだと思われます。どうぞ、この機会にお出かけください。
『週刊東洋経済』の最新号(2019年7月6日号)をめくっていて、驚いた。
特集の1は「ソニーの復活」であるが、それとは別に数ページにわたって知人が取り上げられていたからである。
数十年前、時間と空間をほんの少しの間だが共にした高橋公(たかはしひろし)。
早稲田大学本部を占拠した、ノンセクト黒ヘル集団「反戦連合」の親玉だった。
いまではすっかり好々爺、いや、水木しげるの子泣き爺(じじい)の風情。
《「地方移住」のパイオニア ふるさと回帰支援センター理事長》として「ひと烈風録」に紹介されていたのである。彼が学生運動を離れ、生活に追われながらも友人たちと「神道夢想流」(杖道)の道場を建てたこと、先の津波でいわき市小名浜の実家が流されたことなどもはじめて知った。
しかしこの高橋氏と表題の「第3の敗戦」はまったく関係がない。
関係があるのは、コラム「グローバル・アイ」のほうで、こちらは小原凡司という笹川平和財団上席研究員、元は駐中国防衛駐在官を経て海上自衛隊第21航空隊司令だった人の書いた「中国動態」である。
可変翼を備え衛星の測位データと極超音速滑空技術を駆使する中国の中距離弾道ミサイルと、従来の抑止力という概念から離陸したロシアや中国の低出力戦術核兵器に触れて戦慄的である。
またこの記事ではないが、いまやその生産および技術大国となった中国のドローンの、軍事への応用は目を見張るものがあるという。
列島の現政権の浅慮は「防衛力」拡充に腐心邁進、標的となるばかりの空母に執着、またステルスではあっても有人事故付の馬鹿高い飛行機、それにミサイル迎撃システム(THAAD:低空飛来のドローンには無効)を、国内防衛産業への支払いを繰り延べてまで買い続ける。「赤ネクタイの大ボス」へのご機嫌取りでもあるが、リアルな認識と政治が意図的および無意識に回避され、かつて巨大戦艦に執着した愚が繰り返されている。
しかしながら今日の「戦争」は、その戦闘レベルにおいては宇宙空間のハイテク戦に軸足を移し、その防衛力レベルにおいては地表の食料自給率が命運を握っているのである。
極東の列島は、ここ1世紀以内に2つの大敗戦を経験した。もちろん第2の敗戦とは、核発電所の爆発事故とその対応処理のための悪夢のような泥沼作業、そして稼働停止にかかわらず垂れ流される途方もないそれらの保持費や解体費の現状を言うのである。
戦争も敗戦もほとんど知ることなく、いま存在するそれに気付かない人も少なくないが、それ以上に近未来の敗戦を想定しえない者は多いだろう。
標的となるのは空母めかした「自衛艦」や有人飛行機だけではない。54基の在列島核発電装置も、それら飛翔体の格好のターゲット以外ではないのである。
そうして東アジア政治のレベルにおいては、極東の島国は近代の「植民地支配」と「侵掠」の負債からいまだ抜け出すことができず、国際的な地位低下にもかかわらずいやそれ故に、過去を美化して内向きに居直ろうとする。
「アメリカの傘」も「自主防衛力」も、もはや頼みにできるものではない。現在ただひとつ確実に言えるのは、われわれがもっぱらひとりよがりあるいは美意識を頼みとするならば、その先にあるのは第3の敗戦でしかないという、冷厳な「格率」である。飢餓と核汚染のなかで「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍」ぶこと自体が不可能となるのは、そのときである。
もっとも「格率」ならざる「確率」に言い及べば、第3の敗戦のさらに高いそれとして想定される事態は、列島のメガシティとメガロポリスを直撃する巨大地震とその結果である。
この近未来に「国土強靭化」と「軍備増強」で対するならば、それは愚かとしか言いようがないのである。