Archive for 4月, 2018

collegio

最後の海辺 ―盤洲干潟

2018年初夏、海風強し。
ヒッ、ヒッ、と鳴くは、鳥類にしては珍しく一夫多妻のセッカ♂か。
後浜の小流れのなかアシハラガニ走り、砂の丘にはハマヒルガオとハマエンドウの花。
新日鉄施設廃墟浸透実験池外周池に浮かぶはカルガモらし、数羽飛び立つ。
風紋の干潟に潮満ちくれば海の泡、アマモ、ホンダワラの離片を寄せる。
東京湾に残された、最後の自然海浜。

img_1819_edited-1.jpg

以下のような文章を理解できる場所は、今ではこのあたりしか存在しない。

 海辺は、寄せては返す波のようにたちもどる私たちを魅了する。そこは、私たちの遠い祖先の誕生した場所なのである。潮の干満と波が回帰するリズムと、波打ち際のさまざまな生物には、動きと変化、そして美しさがあふれている。海辺にはまた、そこに秘められた意味と重要性がもたらす、より深い魅力が存在している。
 潮の引いた海辺に下りていくと、私たちは、地球と同じように年月を経た古い世界に入りこむ。―そこは太古の時代に大地と水が出合ったところであり、対立と妥協、果てしない変化が行なわれているところなのである。私たち生きとし生けるものにとって、海とそこをとりまく場所は特別な意味をもっている。浅い水の中に生命が最初に漂い、その存在を確立することができたところなのだから。繁殖し、進化し、生産し、生きもののつきることのない変化きわまる流れが、地球を占める時間と空間を貫いてそこに波打っているのだ。

 海辺を知るためには、生物の目録だけでは不十分である。海辺に立つことによってのみ、ほんとうに理解することができる。私たちはそこで、陸の形を刻み、それを形づくる岩と砂でつくられた大地と海との長いリズムを感じとることができる。そして、渚に絶え間なく打ち寄せる生命の波――それは私たちの足もとに、容赦なく押し寄せてくる――を、心と目と耳で感じとるときにのみ理解を深めることができる。
(R・カーソン『海辺』 The Edge of the Sea 上遠恵子訳)

近年では地球生物の誕生の場は深海海底火山の高温域と学説が変容したようだが、浅海とりわけ干潟が現生物種のもっとも多様豊穣の地であることには変わりがない。また海幸と山幸では、海幸が断然優位なのである。

さて東京湾の現在は、この100年の人為がもたらした地表の異貌である。
しかしもう半世紀も経ずして、この海陸のはざまは別の相貌に転じるだろう。
ヒトのいかなる欲望も営みも、ついには地表に一時の刻印を残すだけなのである。