6月 14th, 2011
江戸の崖 東京の崖 その29 ――茂吉の崖、ふさ子の谷
あかあかと一本の道とほりたり 霊剋(たまきは)るわが命なりけり
「歌聖」柿本人麻呂以降の近世大歌人と言われ、帝国芸術院会員にして帝国学士院賞と文化勲章にかがやく斎藤茂吉の「元」は、山形県南村山郡金瓶村 (かなかめむら )の守谷家三男。
同郷の出郷者、浅草で医院を開業していた斎藤紀一に拾われて、入婿となった挙句、南青山の大病院の経営を継いだが、その生涯はなかなかに苦渋に満ちたものだった。
冒頭の歌がつくられたのは、大正2(1913)年(「あらたま」所収)。
歌の師伊藤左千夫亡きあと(同年7月30日)の、「アララギ」派中心人物としての決意を述べたものと言われる。
歌道の世界では、そう見るのが妥当で、またそのようにしか解釈できないのだろう。
大歌人の代表歌のひとつであるから、そのまま素直に受け入れればいいのだろうが、調子(チューニング)が合わない。
前の17音と、後の14音とで、韻律が分離している。
14音は連歌における他人の付句めいて、無理やりくっつけたような印象がある。
霊剋(たまきはる)は、「命」にかかる枕詞で、万葉集の山上憶良の長歌などに用いられていて、例は少ないものの「短命」な場合に使われたようだ。
当時31歳の茂吉は、枕詞の意味逆用して、むしろ「この歌道命(いのち)」と宣言したのだろうか。
いやいや、決してそれだけではないのではないか。
茂吉にとって、歌よりも斎藤家の後継者としての立場と仕事が優先していた。
その道は、実際の道。青山脳病院の正門前、赤茶けて土埃立つ関東ロームの舌状台地の上を、北西から南東に一直線に走り、渋谷川(古川)の支流、笄(こうがい)川の支谷に南下する尾根道だった。
まわりに建物などさして不在の当時、茅、薄などの草原(くさはら)の真中を通るその尾根道は、朝日に照らされ夕陽に焼かれる、文字通りのあかい道だった。
そうして、脳病院の裏手(北側)は、彎曲して延びる笄川支谷の崖が連続する。
崖斜面が竹藪となっていて、子どもたちがそこを抜け道として遊びに出たことは、北杜夫の『楡家の人びと』に詳(つまび)らかである。
「たまきはる」尾根道は、崖つまり谷筋に併行していたのだ。
(上の地図は明治42年測図。2段階表示の2番目の拡大図でみると、「立山墓地」下に水流がつづいているのがはっきりわかる。ちなみに、「脳病院」の南と西の塀はレンガ製で、東の立山墓地に面した塀は板塀。裏の崖側には塀もなく、竹ヤブだった。また、脳病院の向かいの建物の正面は「土囲」、西側は生垣、東は竹垣であることが、地図記号からわかる。)
「ローマ式建築」の偉容を誇る青山脳病院が、複式舌上台地の一画に開業したのは明治40(1907)年。
茂吉が、13歳年下の斎藤家の長女輝子と結婚したのは大正3(1914)年。
長崎医専の教授、ベルリン留学を経て、全焼した脳病院の跡に帰国し、病院院長を継いだのが昭和2(1927)年。
そうして、世間の耳目をそばだてた「ダンスホール事件」(「不良華族事件」)を契機に、茂吉が輝子と別居する(「追出す」)のは昭和8(1933)年。
その孤閨の暇、人生の「崖」が眼前するのに時間はかからなかった。
昭和9(1934)年9月19日の向島百花園のアララギ歌会。
永井ふさ子24歳、茂吉52歳の邂逅。
古比志佐乃波気志貴夜半者天雲乎伊飛和多利而口吸波麻志乎
(こひしさのはげしき夜半は天雲をい飛びわたりて口吸はましを・昭和12年2月17日)
光放つ神に守られてもろともに / あはれひとつの息を息づく (合作)
明治神宮で、茂吉のつくった17音の上句に付句するようにとの指示に、ふさ子が「相寄りし身はうたがはなくに」と詠んだところ、「弱い」と言われ、「あはれひとつの息を息づく」としたところ、茂吉は「人麿以上」と喜んだという。
ふさ子は、崖上の青山脳病院を訪れてもいた。
正岡子規の縁者にあたるふさ子との関係は、しかし「アララギの道」に悖(もと)り、「家」に背く。
それゆえか、老いゆえか、恋は激しく、かつ粘着的であった。
一時は「駆け落ちも」と燃え上がる。
しかし一方で茂吉は、その150通あまりの書簡すべての焼却を、ことあるごとに指示してもいた。
昭和20(1945)年を契機に輝子との同居に復した茂吉は、同28(1953)年、72歳で死去。
ふさ子は書簡130通あまりを守り、茂吉の死の10年後に『小説中央公論』で公開する。
茂吉との記憶を生涯の証とし、郷里松山で独身を通して、平成5(1993)年に亡くなった。
享年83。