8月 7th, 2008
古地図巡礼 map pilgrimage
川の地図
猛暑のなかで、水に関するニュースがつづいていますが、8月5日、東京都豊島区雑司が谷二丁目の下水道工事現場では、急激な増水のため、死者・行方不明併せて5人という痛ましい事故がおきました。
地上から引揚げ指示が出された時は、もう間に合わなかった。増水のスピードは、想定を上回るものだったと言われています。地表に十分な植生や土壌があれば話は別ですが、広大な関東平野の大部分が宅地化され、コンクリートとアスファルトに覆われ、流路が三面張り、直線の溝と化した巨大都市では、水は矢のように走って来るのですね。8月2日、増水で死者5名を数えた、神戸市灘区の都賀川(とががわ)のことも思いおこされます。
ところで、毎日新聞のネットニュースでは、工事区間は「雑司ケ谷幹線(延長約4・2キロ)の一部約600メートル」で、「普段は水深10センチ程度の汚水が流れており、後楽ポンプ所(文京区)を経て芝浦水再生センター(港区)へ向かう。雨で水深が20センチ以上に達した場合は途中の神田川へ直接放流され」ていたといいます。(毎日新聞の記事はこちら)
これは悪名高い「ミソクソイッショ」の「合流方式」と言われるもので、日本の首都でも、まだこの程度の「水処理」なのですね。電柱や看板、屋上施設が「美しい日本」の都市景観を台無しにしているのはよく知られた話ですが、見えない地下でも人間の環境破壊は継続しているのでした。
この「雑司が谷幹線」という下水道の大部分は、実はかつて湧水を集めて流れ下るきれいな小川でした。その名も弦巻川。池袋駅西口の東京芸術劇場とホテルメトロポリタンの間あたりに発し、雑司が谷という「谷」から護国寺下を通って、江戸川橋際で神田川に注いでいました。もうすこし東側に谷頭をもつ音羽川(水窪川とも)いう川もあって、このふたつの流れは護国寺の参道の左右を下る、仲のいい双子の川でした。
護国寺の開創は1681(天和元)年ですが、そこは元来幕府の薬園(高田薬園)があった場所。「御薬種畑」と記入されている唯一の古地図(之潮刊『寛永江戸全図』)では、音羽の谷は神田川に下る水田地帯。水田ということは、人間が田にする以前は川だったということです。そうして、護国寺の参道をつくるため水田は埋められ、水流は道の左右に振り分けられたのです。そのようしてつくられた音羽谷の道は、近世城下町には大変めずらしい、長い直線道路でした。
『寛永江戸全図』から、現在の護国寺・江戸川橋付近
下の二本の流れは神田川と神田上水。左上の四角く区画された場所は現在の護国寺で、「御薬種畑」と記入されている。
話を弦巻川に戻せば、東京芸術劇場では、現在も地下から膨大な量の湧水がみられ、何台ものポンプを使って汲み上げ、捨てているのだそうです。小社刊『川の地図辞典』を見るまでもなく、かつての大小の川あるいは水域で、今日私たちの視界から隠されたものは大変多いのです。けれどもそれらの「水辺」が「もうなくなってしまった」わけでは決してないのです。
左/『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』から、p298池袋・雑司が谷付近
右/『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』から、p300「明治初期」の池袋・雑司が谷付近