Archive for 2月, 2021

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成増台の大露頭

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大森昌衛監修『東京の自然をたずねて 新訂版』(日曜の地学4、1998年)カラー口絵から
以下はキャプション
「成増露頭(板橋区、1981年撮影) 武蔵野台地の代表的地質断面。地層は下から東京層、武蔵野れき層、関東ローム(茶褐色の部分、下限は黄色のPm-1軽石層)。現在、この露頭はコンクリートでおおわれてしまいました(36ページ参照)。」

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上掲同書36ページの一部。「百段階段」のある赤塚四丁目の崖は、「かつての成増大露頭」と注記されている。
百段階段は、地上4階建てのマンション「東久パレス赤塚」2棟の東側を上下する。
露頭写真が1981年、マンション竣工は1983年5月だから、マンションの新設と擁壁工事は辻褄が合う。
岩盤ではなく、泥や砂礫、火山灰(ローム)主体の崖は生成後幾許もなくして緑に覆われ、露頭を目にする機会はめったにない。首都圏の露頭は、ほとんどが工事による「一時(いっとき)露頭」である。

長大な崖地は、人家の少ないところは行政体が土地を買い上げて公園とするのがもっとも望ましいが、人家の既に密集しているところでは擁壁を設けて崩壊に備えるほかない。マンション建設は、都による擁壁工事に合わせて行われたものであろう。

以下は拙著『江戸の崖 東京の崖』の冒頭、7ページに掲げた写真とそのキャプション。写真は百段階段の途中から、その西側を撮影した。初刷りは2012年8月だから、擁壁工事約30年後の様相である。それからさらに10年近くを経て、さて「崖」の今日の状態は如何であろうか。

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雛段と階段

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照葉樹林北限地に鎮座する陸奥一宮
鹽竈(塩釜)神社の202段石段

雛人形の段飾り1セット7段は「日本文化ヒエラルキー」の端的な発露だが、百段階段と称してその延伸を試みたり、逆にランダムな人形配置でそれを崩してみたりする例もあるようだ。

百段階段と言うと東京は目黒雅叙園のものが有名だが、実際にはその一部しか目にしたことはない。
建物内部に幾層も設けられた、木造階段である。

茨城県北西部、袋田の滝が有名な大子町(だいごまち)の百段階段は、一列の石段に赤毛氈を敷き雛飾りを並べる。

横浜市青葉区美しが丘のそれは雛飾りとは無縁で、「100段階段」と表記からして異なり、「美しが丘小学校下の「百段階段」とそれに続く遊歩道は、この地域のいちばん標高の低いところ (標高49㍍) から一番高いところ(標高83㍍)を包含し、”丘の町・美しが丘”を最短距離で体感できる場所」として名づけたようだ。

巷間「百段階段」と称する所は処々に存在し、拙著『江戸の崖 東京の崖』で紹介した板橋区赤塚四丁目の階段もその例。こちらは北に開けた河成の急斜面に設けられたもの。近年都内で増殖傾向にあるタヌキの出没地帯でもある。

講談「寛永三馬術」、曲垣平九郎で知られる愛宕山の上り坂は俗に「出世の石段」と言うが、こちらは100段に14段不足の86段。
寛永年間に石段が整備されていたか否か実は不明なのだが、海食崖の通例として傾斜は垂直に近く、勾配70%、傾斜角約35度もある。

同じ海食崖斜面でも、陸奥一宮鹽竈(塩釜)神社の表参道石段は、勾配46%、約25度。
しかしながらそれは202段の大階段で、斜辺距離87メートルは、愛宕山27メートルの3倍以上。
つまり比高は36.29メートルと、同15.4メートルの愛宕山の倍以上なのである。

こちらも石段がいつ設けられたのかは定かではないが、おそらく当初は直登坂でなく、いまもある裏参道や七曲り坂のような曲折した坂道が参道だったのだろう。
しかし敢えて塩竃湾入江の谷に向いた大崖に、表参道石段は設られけた。
陸奥国府多賀城政庁前に設けられた階段も緩傾斜なれども大階段で、いずれも蝦夷に対する最前線の祭政庁の前舞台装置。
人をして畏仰せしむる演出である。

雛段は、ミニ・クラシフィケーションのジェンダーデバイスといったところか。
人形一般に言えることだが、「嫁入り先」がみつからないと処分に困るシロモノである。

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My favorite things

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わが方丈書斎の木製bureau書台の上に据えた密封ガラス瓶の中身は、本夕仕上げた自家製プリックナンプラーである。
トラチャン(天秤)印ナンプラーに、青唐辛子、ニンニク、レモンを加える。
青唐辛子は2、3掴みを刻み、ニンニクは1玉摺りおろし、レモンは2個ほど絞る。
(砂糖を入れる人がいるが、私は砂糖は使わない)
これで明日から1月以上はもつ。
これがないと、食事そのものに差支える。
小瓶に移して、泊りの遠出にも持参する。

写真向かって左側はアンモナイトの化石、右側はAFN(旧FEN)を聴くための小型ラジオ。

事のついでに、わがbureauまわりの普段は以下のような状態。

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上位の棚に並んでいる本のうち、真ん中から左寄りのA5判ハードカバーの3冊は藤森栄一の三部作『かもしかみち』(1972年重版)、『古道』(同)、『峠と路』(1973年)で、黒い箱背はシュライバーの『道の文化史』(1962年)。真ん中あたりが地学関係書、そして中央右寄り「599 BOOK」とあるのが高尾山の博物館で出している『TAKAO 599 MUSEUM 599 BOOK』(大黒大悟、2015年)。
下の段の左端はCartographical Curiosities(Gillan Hill, 1978)で、その棚の中央にみえるグレーのベレー帽の中身は自転車用折畳レザーヘルメットである。

自転車は地下駐輪場に置いてあるから写っていないが、ブリジストンのマークローザ7S、26インチ。
クロスバイクまがい7段ギアのチャリだが、国分寺駅周辺の坂道(国分寺崖線)の大方はローギアでなんとか立ちこぎせずに上ることができる。
この「なんとか」が大事。
1日のうち1回は、息も絶え絶えの時間が必要である。
国分寺市と小金井市の境、結構車が通る西の久保通りの一部は水平距離約250m、比高17.7m、勾配7.1%(約4.1度)の「くらぼね坂」で、これはギチギチ上れるが、西隣の通称「地獄坂」は、背後ないし対面から来る車につい足を突き、結局立ちこぎしないと上れない。
上る途中で、背後にひっくり返る妄想にとらわれる。
傾斜のきつい部分は水平距離約118mで比高16.6m、勾配は約14%(8度)もある。
シニアサイクリストのヨロヨロ走りにはヘルメットが必須だが、それでも干支はもう六巡。
車が来たら下りて曳くほうが賢明だろう。

さてまたまた事のついでだが、木製bureauの多くはパイプオルガンの奏部にも似、左右対称でロマネスク建築の教会礼拝堂を想起させる。
それらは決して無関係ではないだろう。
敢えて言えばビューロー型書見台は、デスクやテーブルなどの水平面確保ではなく、垂直軸につながる祭壇ないし龕や厨子の、祈りの系譜の末裔(すえ)なのである。