Archive for 9月, 2010

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江戸の崖 東京の崖 その17

現在日本は世界に冠たる火葬国(ほぼ100パーセント)だが、江戸時代までは土葬が一般的で、確かな統計はないものの火葬率は2割以下とみられている。
それも京都や北陸のような浄土真宗の影響力が強い地域がほとんど。なにせ火葬は、おおきな「生もの」を、骨片になるまで一昼夜以上焼かなければならないのだから、半端ではない「コスト」がかかる。
江戸時代は徳川将軍家といえども土葬。一方天皇となると、鎌倉時代から江戸時代までは火葬に付されるのが通例だった。
五代目古今亭志ん生十八番の「黄金餅」は、貯めこんだ金銀の小粒を餅にくるんで呑みこんだ長屋隣室の男の遺体を漬物樽に入れて担ぎ、上野の下谷から単身長駆、麻布を経て桐ケ谷の「燒き場」まで運びこんでお宝を手に入れ、それを元手に餅屋を開いて繁昌する、というグロテスクな唯物(ただもの)主義落語。
無理してでも死体を麻布の寺まで運びこんで「火葬切符」を手にしなければなければならないのは、「寺請制度」を前提としているからで、そこが江戸時代を思わせるけれども、明治以降のつくり噺。これが土葬だったら気味悪すぎて、落語にならない。
三遊亭円朝の演目では、裏長屋のある場所は芝将監殿橋(現在の港区芝二丁目)際となっていて、火葬場も「焼場」とあるだけで場所を特定していない(『明治の文学 第三巻』)。
江戸を舞台とした小説でウケている作家の作品でも、気楽に「火葬」しているものがあったりするけれど、それは調べる努力を怠っているだけの話。
明治政府はその初期、廃仏毀釈の勢いで、「火葬禁止令」(明治6年)まで太政官布告したけれど、これは翌々年解除。
逆に東京市や大阪市では、衛生上の理由というよりも都市スペース上の問題から、条例で土葬を禁止することになる。これが現在日本列島火葬率ほぼ100パーセントの源流。
ところで、渋谷が区として東京市に編入されたのは昭和7年(1932)になってから。古くから市域であった芝区は三田に自宅があった福沢諭吉が、火葬されることを嫌って、市外上大崎(現在の品川区)の常光寺に埋葬されたのは明治34年(1901)。
現在港区の麻布善福寺にある福沢家の墓は、昭和52年(1977)に地下水につかって死蝋(ミイラ)化していた福沢の遺体を掘り起こし、火葬して改葬した結果でした。
もちろん欧米では、現在でも土葬が基本ですから、福沢が因循(いんじゅん)にこだわったとはいえない。
よく考えれば、現在の日本列島にあっては余程の辺鄙な場所にでも行かないかぎり、火葬以外選択の余地はありえないわけで、そういう意味では人間「最期の選択」の自由は存在しない。
ついでに言うと、人間としてはまことに不自由な天皇という存在にも最期の選択の自由はなくて、明治以降の天皇は、都市部で火葬が義務づけられると逆に、火葬されないことになった。
つまり陵墓をつくって土葬されるのですね。巨大古墳に象徴される古代親政王権の復活というのが、天皇を担ぎ出した連中が描いた表(おもて)イメージで、それは戦後も形式としてはつづいているのでした。
中沢某(アースダイバー)は渋谷の神泉谷は火葬場で、その一帯に火葬に従事する人々が住んでいたなどと、見てきたようなことを言っているが、もしどうしても神泉谷を「死」と結び付けたいなら、ちょっとだけ慎重に調べたうえで、 そこは火葬場ではなくて〝古くは「谷葬」あるいは「崖葬」場であった可能性がある〟と言い直すべきなのです。
埼玉県は比企郡吉見町(ひきぐんよしみまち)にある「吉見百穴」は古墳時代後期の横穴墓群として知られています。そもそもその「百穴」は、標高100メートル前後の比企丘陵の東に残丘状にせり出した吉見丘陵が沖積地に向う面に掘られた墓で、つまりは崖墓。
古墳のような造営に無駄な労力を使うこともなく、土地利用としてもきわめて賢い、すすんだ墓場のありかたでした。崖利用ではないけれども、戦争末期には、吉見百穴の下に中島飛行機の地下工場もつくられ、その跡は現在でもみることが可能です。
方や沖縄では、先の戦争で凄惨な戦いの最後の拠点となった洞窟の多くは、ガマと呼ばれる自然洞で、かつては「再葬」の場所でもありました。つまり一旦土葬した遺体を経年後に掘り起こし、遺骨を洗い清め(洗骨)、古来墓所とされてきたガマの所定の場所に安置するものでした。そうして、さらに古い沖縄の先史遺跡には「再葬墓」ではない、直接の「崖葬」が多く認められるのです。
こうした空間的時間的な崖利用葬の痕跡は、日本列島において、かつてはひろく「崖葬」が行われていたことを示唆するものです。それが、急斜面に穴をうがって埋葬したものか、丁寧な弔いの詞とともに、切り立った斜面の上から遺体を投下したものかは別として、ある種の崖と墓所は密接な関係があったのです。
余計なところに莫大な化石燃料をつかってお金をかけて、CO2を大気中に放出しているのだから、環境破壊もいいところ。散骨や樹木葬もいいけれど、いずれはこの列島でも、土葬が主流になることでしょう。場所がないという向きには、「再葬墓」という古くて新しい智恵が、人口密度のきわめて高い香港で生かされている例などを参照していただければよろしい。

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江戸の崖 東京の崖 その16

「ここらは昔、海だったんですってね」
歴史の仕事をしていると、こんなことばをよくきかされる。質問というよりは、確認、あるいは同意を求められる、といったほうがよいかもしれない。
私の答は決まっている。
「そうですね、ここらは、たしかに昔は海でした」
実は、どんなところでそういわれても、答えはいつもこうなる。つまり、昔は、どんなところでも海だったからだ。ただ、内心では、これは少し注釈を加えなければいけないな、と思う。
(俵元昭『港区の歴史』昭和54年)

この文章の著者俵元昭氏は、「坂学会」の重鎮。飯田龍一氏との共著『江戸図の歴史』は大冊で、これは版行図を中心に、確認できる江戸古地図をすべて調べ上げて、系統を明らかにした労作です。また氏は、長谷川伸賞を受賞し、「重ね地図」の先駆として知られる『港区近代沿革図集』の中心的編集者でもありました。その方がこのような感慨をもらしておられる。けれども、加えなければならない注釈は、本来「少し」ではとても済まない。もし、少しで済ませるなら「時代によるよ」とでも言うほかありません。
 それから先の注釈は、とりわけ台地と坂、低地が複雑に入り組んでいる港区だから、「ここら」(場所)と「いつごろ」(時間)によって、ごく狭い町域でも隣り合って海と山とを変えることがある、という具合に錯綜する。
既述のように、縄文時代が流行しているらしい昨今ですから、「縄文時代にかぎって言えば」とする方法もあるだろうけれど、その時代幅は一万数千年もあり、とても江戸時代や奈良時代、というわけにはいかない。まして明治・大正・昭和・平成は、引括って「東京時代」としても150年に満たず、まだまだ短い。
 「滄海変じて桑田となる」あるいは「蒼桑の変」という言い方があって、『広辞苑』(第四版)で「滄桑」(そうそう)を引いてみると、「滄海桑田(そうかいそうでん)の略。桑滄。」とあり、つづけて「滄桑の変」として「桑田変じて滄海となるような大変化。世の変遷のはげしいことにいう」としています。周囲の激変をいうのだから、田圃が海、海が田圃、どちらでもいいと言えばいいのでしょうが、こと地形のうえでは正反対。この出典について、デジタル大辞泉は「滄海変じて桑田となる」とし、儲光羲の『献八舅東帰』を挙げている。 goo辞書は、「滄桑の変」を『神仙伝』からとしている。
漢文教育で知られた石川正久氏の「漢字の世界」(112)ではちょっとちがって、タイトルを「桑田碧海」とし、『神仙伝』の話で、麻姑(まこ)という仙女が、「私は東の海が三べん桑田に変わったのを見た」と語ったことにもとづくとし、また唐の劉庭芝(りゅうていし)の詩に「己(すでに)見る松柏(しょうはく)の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)となるを、更(さら)に聞く桑田の変じて海となるを」と詠(うた)い、「年々歳々花相い似たり、歳々年々人同じからず」とつづけたと紹介しています。ううむ、結局どっちが先か、よくわからない。
海退かせて市街地となす「滄街」の変は、「世界でもっとも人工による改変の著しい」(貝塚爽平)東京湾にみることができます。
余談ながら埋立てと干拓は同じような結果となるけれど、造成手法と目的が異なり、一方は文字通り土水面・湿地に土砂などを投入して陸化すること、他方は水面(海面)を仕切り、水を抜き去って農業用地(水田)とすることを言う。この2語は英語では区別して対応する単語がなく、合せて動詞形をリクレイムreclaimという。ただしこの語の原意は「呼び返す」というのであって、野生というか自然界そのものである水域をドライ・アップして「文明化する」、という意味を下敷きにもっているのですね。
底生藻類やゴカイ類、アサリ、シオフキといった貝類、ヒラメやカレイなどの魚類、そして大型渡り鳥のガン類まで、「野生」の豊饒(ほうじょう)な生命をはぐくんでいた旧江戸川河口の「大三角」(おおさんかく)干潟約1平方キロメートルが埋立てられ、一大遊興場(TDL)に化けた昭和58年(1983)4月は、戦後東京湾「滄桑の変」のひとつのピークでした。干潟埋め立ては大三角だけでなく広域におよび、実際にはこの何倍もの干潟が一気に消滅しました。東京湾に「雁(かり)が渡る」ことはなくなったのです。こうした「リクレイム」が「文明化」にあたるかどうか、そもそも「文明」とはなにか、結末はあと数十年以内に露出してくるように思われます。