詩人の高良留美子(こうらるみこ)さんに、『崖下の道』という詩集があります(2006年)。
そのタイトルになった1編、全20行の最初は「その崖下の道を通るとき/彼女はいつも/十歳の少女に戻っていなければならない/その崖下の道を通るとき」の4行ではじまり、そしてそれがまた繰り返されておわるのです。
この作品の具体的な背景が何であるのか、何故10歳の少女に戻らなければならないか、作者の内面に深く刻まれた幼時体験があるはずですが、その詮索は措いて、「崖下」という設定だけを取出してみると、あたりまえのことながら、崖下を通る自分はそのことによって一種の圧迫を感じており、同時に、崖下の道を通る自分を見る「もうひとりの自分」の存在を前提としていることがわかります。
崖は、常ならざる危うきもの、容赦ない厳しいもの、そして瞬時の結末、を暗示します。
崖下ではなく、崖上からの目撃視線で梶井基次郎の作品とは別に思い起こされるのは、昭和31年(1956)に中央公論新人賞を得てベストセラーとなり、幾度か映像化もされた、深沢七郎の小説「楢山節考」です。
70になったらお山へ行く、姥捨てならぬ棄老の掟のある山村の、主人公おりん婆さんの、優しくも気丈、美しくさえあるお山行きの場面がクライマックスですが、背負っていった母親をおいて、山を下りかけた辰平が眼下にみとめたのは、お山行きから逃げ出した「又やん」が息子に雁字搦めに縛られたまま谷につき落とされる崖縁であり、そのとき谷底から「湧き上るように舞い上って」きたカラスの大群でした。
もちろん「楢山節考」はフィクションですからそのような「事実」を提示しているわけではありません。しかし、高良留美子さんの詩にオーバーラップさせて言えば、「その崖の上に立つとき/ひとはみな○○歳であった/その崖の上に立つとき」ということがなかったとは言えず、むしろその蓋然性が高いからこそ、「語りて平地人を戦慄せしめ」(柳田国男『遠野物語』)たといっていいのです。
もうひとつつけ加えれば、それは「時の崖」ともいうべき問題性で、作家の安部公房にボクサーの独白体をとった同名の短編がありますが、日本列島の都市部に本格的に出現しつつある「高齢化社会」がもたらす状況を崖にたとえることも、あながち荒唐無稽ではないのです。
高齢者のための負担が過重となる一方で、カネやモノ以外での価値創出を見いだせていない「東京」は、とりわけ若い世代の貧困化と閉塞感を増大させていくほかありません。
「現代の予言書」とされるドストエフスキーの老人殺し小説『罪と罰』のもうひとりの主人公は、その舞台ペテルブルグであると言われるほどに、かの長編は都市小説なのですが、「東京」という主人公が、無前提の「敬老」から「棄老」の谷に傾斜せざるを得ないとしても、その舞台に生きる私たちは、退場時間というもうひとつの「時の崖」までの距離を測り、その役割を精一杯つとめる義務があるというべきでしょう。
本邦唯一の古地図専門店だった「忠敬堂」
田端駅の近くで《江戸・明治・大正・昭和 古地図 忠敬堂》の看板を掲げて、古書店を営んでおられた今井哲夫さんが、9月14日に急逝された。享年80の由。
弘文荘反町(そりまち)茂雄氏の主宰した「文車(ふぐるま)の会」の、スターティング・メンバー「7人の侍」の一人として、父君の代からの古書店(今井書店)を古地図専門店に切り替えて勉強された方であった。
忠敬堂という屋号も、弘文荘の考案だったと聞いている。お元気な折に、もっとお話を伺っておくべきだったと悔やまれるが、49号まで出された「忠敬堂古地図目録」は、古地図書誌の基礎資料である。
古地図にかかわるものとして、その増刊号をふくめてまとめて世に遺しおくことは重要な仕事のひとつと思っている。
『季刊Collegio』43号(2010年冬号)では、今井さんの紙碑を建てるつもりでいる。
今日、東京の「アザブ」といえば、「ヒロオ」「シロガネ」と並び、スタイリッシュでハイソな町並がイメージされ、高級住宅地として知られています。
歴史学者にして日本歴史地理学会創設者の一人である吉田東伍(1864~1918)は、大著『大日本地名辞書』(増補版)の第6巻(坂東)の「武蔵(東京)麻布区」の項で、麻布については次のように記し、軟質土壌の台地とそれを刻む谷筋に展開する地形を簡潔に言い表わしています。
「全く丘陵の上に居り、地勢高下均整ならず、崖谷分裂して、山丘起伏多し、大小の邸宅、商工の民巷、其間に密布す。大略、中央を六本木と云ひ、其東を飯倉とし、飯倉の北を市兵衛町(霊南坂)とし、市兵衛町の西隣今井谷は六本木の北とす。麻布本村とは、六本木の南にして、其間に日窪(ヒガクボ)の低地あり、桜田町は西偏に在りて、南北にわたり、其南を広尾(ヒロオ)と云ひ、其北を龍土と云ふ。今人口六万、台地の高頂約三十米突」。
そもそも麻布(アザブ)という地名は、北条氏の「役帳」にあるといいますから江戸以前からの地名。天正5年の麻布善福寺の文書にも「阿佐布」とみえる由で、一般には「調布」と同様、古代の租庸調つまり租税地名と理解されているようですが、麻布については既に江戸時代の地誌『御府内備考』(巻之七十五)で、「是等の説皆文字にもとつきての牽強にしてその據をしらず」と、俗説退けられている。同じ「麻」地名でも「アサオ」と訓じる「麻生」は川崎市の多摩丘陵地域にある古くからの地名(元弘3年の文書にあり)で、「アソウ」「アサオ」は秋田県から大分県まで全国に分布する。
「麻布・アザブ」のほうは、小字名(こあざな)として、これも実は全国に散在する地名のひとつで、たとえば宮城県栗原市や新潟県三条市にもあって、いずれも崩れやすい危険地区として知られています。とくに前者は2008年6月の岩手・宮城内陸地震の際には大きな崖崩れをおこし、一帯住民が避難する事態に至ったところ(太宰幸子、2010)。
地名研究者の間では、「麻」の字もよく用いられる「アズ」「アゾ」「アザ」地名は「崩壊地名」のひとつとして知られていて、東京では板橋区の「小豆沢」(あずさわ)もその例。江戸中期の国学者田中道麿は「アズ」(「坍」と表記)について「字鏡に坍、崩岸也、久豆礼又阿須とある是也、俗に云がけの危き所也」と説いたといいます。
危険地名といえば、同じ港区で隣接する飯倉(いいぐら)も同様で、「磐座」(イワクラ)という言葉もあるように、「倉」(クラ)は岩場や断崖、谷を表す地形用語(松永美吉「民俗地名語彙辞典」上『日本民俗文化資料集成』13、1994)。だから「大倉」や「石倉」「岩倉」は倉庫を指したものではなくて崖の謂いで、「倉沢」といえば岩場の沢登りするようなところ。飯倉を伊勢神宮領とみとめた寿永3年(1184)年の源頼朝寄進状を根拠に、飯倉を贄倉とする地名由来説があるけれど、飯倉はこれまた全国にまたがる地名で、それがすべて伊勢神宮領かというと疑問が残る。むしろ「最初の地名」は、その場所が安全かそうでないかを判断ベースにした自然地名であったと考えるのが自然で、「歴史以前」というより「米以前」、つまり縄文時代から今日につづくとかんがえるほうが、人口に膾炙した「歴史」物語への付会を免れてよほど健康的である。だから、「世界都市東京」の地名といえどもそのいくつかは、今日でいえば元来は「山岳用語」の類であったとみてよいのです。
真っ白いコンクリートや光るガラス、舗石で被覆された現代都市も、一枚めくれば大地の生理が脈打っている。江戸・東京の街は、硬い岩盤が露出するニューヨークなどとは異質な、未固結火山噴出物で厚く覆われた台地あるいはドロドロの沖積地の上に辛うじてすえられた建物群であって、伝統に即して言えば「浮世都市」にほかならなかったのです。
実際、港区麻布台一丁目から東麻布、隣接する六本木一帯と西麻布、元麻布、そして南麻布にかけては、東京都建設局河川部のインターネットサイト「土砂災害危険箇所マップ」でも急傾斜地崩壊危険箇所約30箇所を数える、都内でも有数の崖集中地区。
なかでも麻布発祥の地である旧麻布本村町は、現在の元麻布1・2丁目。元来は麻布台地の東端から古川谷(麻布十番)の西斜面にかけて広がる麻布善福寺の寺域。
善福寺は江戸でも浅草寺につぐ古刹で、天長元年(824年)空海の開山と伝えます。今日その後背台地上には、巨大卒塔婆然として「元麻布ヒルズフォレストタワー」がのさばっているけれども、そのさらに奥には、麻布七不思議のひとつ、蟇(がま)池という古来の「パワースポット」が、台地面の窪地にうずくまっていたのでした。
一方、これまでの文脈上興味深い崖地といえば、場所が多少北にずれるものの、霊友会の巨大な「釈迦殿」と東京タワーを見上げる谷底地、旧麻布我善坊町(あざぶがぜんぼうちょう)。谷底であるにもかかわらず、現在の住居表示は麻布台一丁目。これまた麻布七不思議に数えられる我善坊ですが、元来は龕前堂谷と記すのが正しく、寛永3年(1626)の徳川秀忠夫人お江の方の遺言による、江戸で初めてといわれる火葬にあたり、増上寺から六本木の火葬地に至る葬儀経路やその設備跡にちなむ、という地名由来説が有力。
とは言っても場所柄だけに、バブル期の地上げにさらされ、しかし再開発は中断。部分的には廃墟の雰囲気もある一帯でしたが、最近では北側の崖部分から開発は再開されたような趣。とりあえずはピカピカのビルが、崖の崩壊を止める擁壁がわりになってくれることでしょう。
もうひとつ加えておけば、西麻布四丁目の首都高速3号線の「高樹町(たかぎちょう)出入口」(インターチェンジ)は、旧地名青山高樹町(現南青山6~7丁目)にちなむものですが、京王線芦花公園駅で知られる徳富蘆花と愛子夫人の二人は明治40年までこの高樹町に借家住まいしていて、そこから徒歩、現在の芦花公園まで歩き、ベストセラー『不如帰』(ほととぎす)の印税をつぎこんで自邸をもとめ、粕谷に移り住んだのは同年2月も末のことでした(『みみずのたはこと』)。
そうして、岡本太郎の母親、岡本(旧姓大貫)かの子は青山墓地入口に近い青山南町の実家別邸に生れ、結婚して後ここ高樹町に住まいし、そこで亡くなりました。「東京地形小説」のひとつとして知られる『金魚繚乱』はそこから約1.5キロ東、青く佇立した甲殻類のような六本木ヒルズ足下、旧日下窪町(ひがくぼちょう。ただし南北あり)あたりで江戸期から盛んであった貧乏旗本の内職、金魚養殖の伝統を踏まえたもので、崖下金魚屋の息子と崖上お屋敷お嬢様の同級生二人を舞台にすえたこの作品は、後に瀬戸内晴美(寂聴)によってタイトル転用され、『かの子繚乱』という伝記小説を産み出すのでした。
近年でもほそぼそと金魚の伝統は絶えていなかったのか、はたまたどこぞのお屋敷の池からなのか、港区白金台五丁目の「国立科学博物館付属自然教育園」(白金長者屋敷跡)に棲息するカワセミの、子育て餌に時々金魚が混じるとは、十数年前までは聞けた話です。
「アザブ」一帯は、東京23区のなかでも江戸をはるかにさかのぼる、時間と空間の凹凸地域で、それゆえに「場所の記憶と物語」は厚く、多彩なものがあるといえるのです。