Archive for 9月, 2018

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悲しい運動会

大型台風直撃のために延期や中止となった運動会のことではない。
先般たまたま近隣の小学校の運動会練習風景に遭遇し、思わず目を背けたからである。

芝生の校庭で、運動着という制服を着た大勢の子どもたちが、音楽や号令に合わせて整然と体を動かしている。
何人かの先生がそれを取り囲んで見ている、というより監視している。
ただそれだけであるが、こんな光景のなかに私の過去があったと気付いた。

「運動会」は過去には植民地にも強制したかも知れないが、いまでは日本列島でしか実施されることのない、地球上のアナクロ教育・社会行事である。
いや、北朝鮮などのお得意「マスゲーム」が、ご同類動員行事の例として挙げることができるかも知れない。
この列島においては、初等公教育の従事者(教諭)たちがブラック企業以上の労働環境にあっても、旧態依然たる運動会や学芸会等の「行事」遂行はなお墨守されるのである。

大災害時の地域住民の避難所がおもに学校であり、その体育館とされるのは、19世紀以来の初等公教育を拠点とする中央集権地域動員国家の名残りである。それは上意下達国家体制の残滓である。

運動会から子どもや教師を解き放つことと、体育館や廊下から避難者を救済すること、下意上達体制をつくりあげることは同義なのである。

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オリンピックと避難所

「体育館に雑魚寝」は日本の避難所の典型的光景であろう。
そこで人々は、行政などからの配給を受け、指示を待つ。

縄文時代以前から、人は所帯ごとのプライベート空間を基本として生を紡いできた。
それは生きることの基本である。
「衣食住」が人間生活の原基であるとすれば、体育館雑魚寝避難所に「住」は存在しない。
人は赤の他人に、自分の寝顔や寝姿などをさらすいわれはないのである。
しかし避難所の「責任者」の多くは、「絆」や「平等」をタテに「勝手な行動」を禁止し、「間仕切り」さえ拒否する。

避難者はストレスにさらされ、不眠に襲われる。
床面生活は冷えと埃・雑菌をもたらして呼吸器症を発症させ、高齢者などは肺炎を繰返して死に至る。
数少ない避難所のトイレはたちまち最悪の状態となり、「使用禁止」の紙が貼られる。
男女別のトイレがあったとしても同数のため、とりわけ女性が排尿排便を「我慢」せざるを得ず、水をひかえてエコノミー症候群から肺血栓に陥る。
避難所においてプライベート空間は存在せず、寝返りも打てない狭い空間で人は家畜同然となる。

熊本地震の避難所生活が原因で亡くなった人の家族からは「地獄のような環境」という言葉が発せられたが、近い将来想定される巨大都市圏の広域大都市災害では、災害の直接死よりも「地獄の避難所生活」を契機とする災害関連死のほうが断然多く、またそれは膨大な数にのぼると思わなければならないだろう。
マスコミは日本人の美徳や美談を追いかけ、避難所の負の側面が表に出ることはめったにない。
テレビ画面によって刷り込まれた「体育館雑魚寝」が当たり前と思っているならば、われわれはよほどお目出度いかお人よしなのである。

「体育館や廊下に雑魚寝」は世界的には論外で、国際赤十字の「スフィア基準」(sphere〈球体=全地球〉)に遠く外れている。つまり「難民キャンプ」以下の状態なのである。
ことは人命にかかわるというのに、災害特別予算は大部分が見返りのある巨大な土木建設費や核汚染対事後費用、防衛費に流れ、人の「生」の現場には「余滴」ほどしか届かないのが日本の政治の現状である。
日本に似た地震火山国のイタリアでは、政府機関の「市民保護局」が直接、避難所の設営や避難者の生活支援を行うという。
「オリンピック」以前に、政治貧困の象徴のような自治体任せの「体育館避難所」から離陸し、一家にテント一張ないしは宿泊施設借り上げなどが標準とならなければ、災害大国日本は避難に関していつまでたってもよちよち歩きのコガモかアヒルで、旅行や訪問は敬遠されるか、世界の笑いものになるだけである。

北海道の「ブラックアウト」では、中国からの観光客をはじめとする多くの外国人が「情報の谷間」に取り残されたが、一部が体育館などに案内され「ほっとした」と美談めかして報道されたことは記憶に新しい。
熊本もそうであるが、復旧後に外国人観光客(インバウンド)が戻らないのは「風評被害」でも何でもない。
内向きの避難想定と避難所、そして日本人の頭の中が疑われているだけである。

霞が関や永田町の政治・政策がマクロな問題であるとすれば、ミクロとしての各地の避難所の問題点は、避難者がもっぱら行政担当者や地域ボスなどの「責任者」の指示に従い、皆おなじ行動をとることが求められるところにある。内閣府を筆頭に、町内会・自治会の防災マニュアルに至るまで、ほとんどはそのような書き方をしている。

避難当事者とりわけ女性が「主体」となって、避難所の決定プロセスに参加することは、はなから想定されていないのである。外国人の避難者も想定されていないか、別扱いとなっている。
避難者が行政の「客体」とのみイメージされているかぎり、これまた日本の未来は存在し得ない。

ところで、この災害列島においては「てんでんこ」という古くからの言い伝えがある。
「津波てんでんこ」は三陸に伝わる、肉親を捨ててでも逃げられる者は先にひとりで(てんでに)高台に逃げろという非情な知恵だが、「群れ」や「絆」に捉われていると、助かる命も助からない場合が多いことは、先の戦争と空襲でも証明済である。
従順な家畜であることを拒否する「てんでん者」からしか、道はひらけないのである。

枝落ちし野分過ぎれば咎ありと駅前古木皆伐られたり

「大木」や「古木」と言うには少し足りないけれど、それでもその三本のケヤキの木は堂々としていて、たくさんの枝を広げ、夏には一息つける木陰をつくり、夕方には鳥の群れを受け入れ、その蒸散作用で駅前の廃熱の幾分かを和らげ、それ以上に三本の緑のひろがりは、人の心を知らず知らずのうちになごませてくれていたのです。

それがあっと言う間に伐り倒され、運び去られて、無惨な切株と素寒貧の駅前風景がひろがるだけとなったのでした。

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この前の突風と言うか強風を伴った集中豪雨の際に、枝落ちか倒木にちかい状態になったのでしょう。
国分寺駅南口のその一帯は人が通れないように紅白ダンダラのバリケードが設置され、一時はものものしい警戒ぶりでした。

土地を所有するJR東日本の担当責任者つまりは「駅長」でしょうが、即断で伐採を手配したのでしょう。
街なかの緑化に責任のある準公共機関が、こうした責任逃れの対処しかできないとすれば、愚かと言うほかありません。

樹木をなきものとする文明は早晩滅びる、とまでは言いませんが、このような短絡が人の心を知らず知らずのうちに荒ませていくことだけは確かである、とは言えるでしょう。

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2018年9月の新刊

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地域史研究の最前線に身を投じ、30年以上にわたり
日本列島約4000ヵ所以上を調査・踏破してきた著者が
ここに明らかにし得た、東日本の被差別部落起源!
     
本田豊著『部落はなぜつくられたか ―茨城県の部落史』
ISBN978-4-902695-31-1 C3021
B6判 196ページ 地図・索引付
並製 本体1200円+税

目 次
第一章 茨城県の部落の現状とその特徴……………1
 石田三成と部落/東北地方にも部落は存在する/茨城県の部落数と人口/今も根強い部落に対する差別意識/多くは消えてしまった非人部落/利根川と部落/長吏とは誰か/かはた呼称は部落とは無関係/洪水と竹林の関係/サンカと言われた人々/非人として扱われた江戸時代のサンカ/以前の墓地は土葬だった/板碑を持つ墓地もある/豪華な墓石もある部落の墓地/部落には大地主もいた 

第二章 茨城県の解放運動……………………………45
 水平社の拠点は旧総和町/茨城県下の解放運動の困難性/茨城県解放運動は古河から開始された/行政は何もしなかった/五霞町では融和事業が行われた/解放運動を活性化させた高松差別裁判
 
第三章 近代文学と被差別者…………………………69
 序文は夏目漱石が書いた/部落史の視点で読む/女性は学校に通っていなかった/根深い間引きの習慣/シャボン玉は間引きの唄/梅毒を引き受けさせられた女性たち/土葬が一般的だった茨城県/犬はさかんに食べられていた/猫も食べられていた/馬喰という商売もあった/瞽女さんという芸能者もいた/冠婚葬祭には乞食もきた/古河には遊郭があった/大問題だった軍隊内の花柳病/漂泊の芸能者/差別された芸能者/非人の仕事は役所がやるようになった/部落は古墳の警備はしていない/後に尾を引く洪水の被害/藁葺や茅葺屋根は燃えやすかった/「下人」に対する差別  

第四章 白山神社は語る………………………………123
 東日本の部落には白山神社がある/白山神社は弾左衛門の支配地域に建てられた/水の神である白山神社/白山神社の建物は大小様々/白山神社は弾左衛門支配の確立記念に建てられた  

第五章 部落はなぜつくられたか……………………143
 部落がつくられたのは理由がある/落ち武者伝承/県下各地の具体像/境町/五霞町/旧真壁町/結城市/旧総和町 
              
  茨城県地名索引

本田 豊(ほんだ・ゆたか)
1952年埼玉県生まれ。部落問題論、被差別社会史論専攻。元東京都立大学人文学部講師。部落史関連著書は『部落史を歩く ―ルポ東北・北陸の被差別部落』(1982、柏書房)『白山神社と被差別部落』(1989、明石書店)『被差別部落の民俗と伝承』(1998、三一書房)『戦国大名と賤民 ─信長・秀吉・家康と部落形成』(2005、現代書館)ほか多数。