9月 25th, 2018
オリンピックと避難所
「体育館に雑魚寝」は日本の避難所の典型的光景であろう。
そこで人々は、行政などからの配給を受け、指示を待つ。
縄文時代以前から、人は所帯ごとのプライベート空間を基本として生を紡いできた。
それは生きることの基本である。
「衣食住」が人間生活の原基であるとすれば、体育館雑魚寝避難所に「住」は存在しない。
人は赤の他人に、自分の寝顔や寝姿などをさらすいわれはないのである。
しかし避難所の「責任者」の多くは、「絆」や「平等」をタテに「勝手な行動」を禁止し、「間仕切り」さえ拒否する。
避難者はストレスにさらされ、不眠に襲われる。
床面生活は冷えと埃・雑菌をもたらして呼吸器症を発症させ、高齢者などは肺炎を繰返して死に至る。
数少ない避難所のトイレはたちまち最悪の状態となり、「使用禁止」の紙が貼られる。
男女別のトイレがあったとしても同数のため、とりわけ女性が排尿排便を「我慢」せざるを得ず、水をひかえてエコノミー症候群から肺血栓に陥る。
避難所においてプライベート空間は存在せず、寝返りも打てない狭い空間で人は家畜同然となる。
熊本地震の避難所生活が原因で亡くなった人の家族からは「地獄のような環境」という言葉が発せられたが、近い将来想定される巨大都市圏の広域大都市災害では、災害の直接死よりも「地獄の避難所生活」を契機とする災害関連死のほうが断然多く、またそれは膨大な数にのぼると思わなければならないだろう。
マスコミは日本人の美徳や美談を追いかけ、避難所の負の側面が表に出ることはめったにない。
テレビ画面によって刷り込まれた「体育館雑魚寝」が当たり前と思っているならば、われわれはよほどお目出度いかお人よしなのである。
「体育館や廊下に雑魚寝」は世界的には論外で、国際赤十字の「スフィア基準」(sphere〈球体=全地球〉)に遠く外れている。つまり「難民キャンプ」以下の状態なのである。
ことは人命にかかわるというのに、災害特別予算は大部分が見返りのある巨大な土木建設費や核汚染対事後費用、防衛費に流れ、人の「生」の現場には「余滴」ほどしか届かないのが日本の政治の現状である。
日本に似た地震火山国のイタリアでは、政府機関の「市民保護局」が直接、避難所の設営や避難者の生活支援を行うという。
「オリンピック」以前に、政治貧困の象徴のような自治体任せの「体育館避難所」から離陸し、一家にテント一張ないしは宿泊施設借り上げなどが標準とならなければ、災害大国日本は避難に関していつまでたってもよちよち歩きのコガモかアヒルで、旅行や訪問は敬遠されるか、世界の笑いものになるだけである。
北海道の「ブラックアウト」では、中国からの観光客をはじめとする多くの外国人が「情報の谷間」に取り残されたが、一部が体育館などに案内され「ほっとした」と美談めかして報道されたことは記憶に新しい。
熊本もそうであるが、復旧後に外国人観光客(インバウンド)が戻らないのは「風評被害」でも何でもない。
内向きの避難想定と避難所、そして日本人の頭の中が疑われているだけである。
霞が関や永田町の政治・政策がマクロな問題であるとすれば、ミクロとしての各地の避難所の問題点は、避難者がもっぱら行政担当者や地域ボスなどの「責任者」の指示に従い、皆おなじ行動をとることが求められるところにある。内閣府を筆頭に、町内会・自治会の防災マニュアルに至るまで、ほとんどはそのような書き方をしている。
避難当事者とりわけ女性が「主体」となって、避難所の決定プロセスに参加することは、はなから想定されていないのである。外国人の避難者も想定されていないか、別扱いとなっている。
避難者が行政の「客体」とのみイメージされているかぎり、これまた日本の未来は存在し得ない。
ところで、この災害列島においては「てんでんこ」という古くからの言い伝えがある。
「津波てんでんこ」は三陸に伝わる、肉親を捨ててでも逃げられる者は先にひとりで(てんでに)高台に逃げろという非情な知恵だが、「群れ」や「絆」に捉われていると、助かる命も助からない場合が多いことは、先の戦争と空襲でも証明済である。
従順な家畜であることを拒否する「てんでん者」からしか、道はひらけないのである。