Archive for 10月, 2011

collegio

杞 憂

数年以上前から、9月も半ばを過ぎるときまって体調がくずれ、咽喉の痛みと微熱に悩まされてきた。
けれども今年は少し様相が異なる。
3月半ばから鼻の奥に異物感があって、オカしいと思っていたら咽喉に来て、9月には咳となった。
今、朝夕がつらい。
喘息とはこういうことを言うのか、と思わされる。

ちょっとの寒さがひびくので、外出には毛糸のキャップとマスク、マフラーが必需品となった。
いろいろ探して、ネットで肩蒲団なるものを見つけた。
不格好だが、家では昼間も着けている。
手首、足首も何か巻くものが欲しい。

医者に行ったらレントゲンを撮られて、専門医に紹介されたが、専門医もとくに異常は見出せないという。
アレルギーの薬を処方された。
しかし、薬は一向に効かず、現実に、とりわけ朝夕は苦しい。

あきらかに体の免疫力が低下している。
内外の被曝の影響は、個人によって千差万別である。
東電原発立地エリアでなくとも、東日本に住まいしている以上、何人もその発症の可能性について、一笑に付すことはできない。

還暦も過ぎたほどの人間は、多少の被曝は仕様がない、問題は子どもたちだ、というのは「正論」である。
しかし、「被曝する」ということは、身体的にも精神的にも「苦しむ」ことにほかならない、というのは、この喘息でよくわかった。
だから、むしろ「正論」は、何人といえども、できるだけ被曝を避けるに越したことはない、ということになる。

災厄咽喉元を過ぎ、「冷温停止」などという言葉になんとなく日常に返ってしまった「東京」だが、「最悪の事態」の可能性はまったくそのままである。
「保安院」も、最近こっそりシミュレート発表した「4号機の倒壊」の可能性である。
使用済核燃料1535本が、原子炉建屋の5階にプールの水に浸けられて、四六時中熱交換器で「冷却」されているけれど、この建屋自体が傾いている。
いま、世界中の「専門家」がもっとも注視しているのはこの4号機で、なんらかの「事象」が発生すれば、首都圏などひとたまりもない。

日本の大本営は「勝利」や「神風」、「転進」などという幻影をふりまいた挙句、都市部の徹底空爆・原爆攻撃をゆるし、最後には降伏するほかなかった。
今回もまた同じく、危機がまったく過ぎ去ってはいないのに、「復興」幻想をふりまきつつある。
現実に存在する危機の可能性を「杞憂」とは言わない。
それを無視したり、軽視したりするのでなく、正面から受けとめ、説明し、対処するのが「おとな」だろう。
聞きたくない、見たくない「現実」に耳目を逸らさないのも「おとな」だろう。
「日本人」は、子どもばかりか?

collegio

ゆるい崖

(承前)
坂は、本源的に「ゆるい崖」、ないし人の手によって「ゆるくされた崖」なのである。
「無縁坂」(さだまさし、1975)などという、「坂」一般にまつわる日本的情緒を取り払ってしまえば、それは容易に近づきがたい異界であった。
ゆるゆるな情緒の背後にある異貌の世界に架橋しない、凡百の「坂の本」もまた、ただの与太話にすぎない。


渋谷道玄坂は古い坂である。
東海道脇道の矢倉沢往還、大山街道に数ある坂のひとつ。難所でもある。
傾斜角4度ほどの現在のような坂であれば、難所などにはならない。
道玄坂の説明標柱や碑が、渋谷マークシティ道玄坂口の道沿いにあるが、坂そのものの変容について触れているものはない。

「道玄坂へあがって行くと、坂がいわばおでこの額のように高くなっているあたりの左の方に狭い横町があって、それへと曲って、与謝野君の家に達するのであった。」
馬場孤蝶(『明治の東京』)が書き残していた、明治は35年頃の道玄坂の景である。

この当時の道玄坂の傾斜角度は、最低10度はあったと思われる。「おでこの額」のような急傾斜道こそが「道玄坂」なのである。
いまの、だらだら坂全体が道玄坂なのではない。

道玄坂のかつての姿、つまり「おでこの額」を見てみたいと思う向きは、ひとつは、渋谷109の裏手の「道玄坂小路」の「麗郷」という、昭和30年からある台湾料理のお店を目指せばよい。お店に向かって左手の駐車場へ向かう坂、およびその脇の階段(歩道)道がある。その傾斜は優に10度を超える。
もうひとつは、渋谷マークシティの南(道玄坂一丁目11・13)に沿った急坂。傾斜は二段構えになっているが、角度はこちらも10度はある。
この二つの急坂は、道玄坂を南北にはさんだ位置にあって、旧傾斜をある程度保存している。
それは、現在の1:10000地形図「渋谷」の等高線にもあきらかである。

道玄坂1-11-8 「魚がし 福ちゃん 2号店」 前の坂の傾斜はただものではない
道玄坂1-11-8 「魚がし 福ちゃん 2号店」 前の坂の傾斜はただものではない

つまり、メインストリートは拡幅され、掘り下げられるけれども、それに併行する脇道ないし裏道は、存外に手付かずなのである。
どちらかといえば、人ごみのないマークシティ南沿いの道のほうが、道玄坂の旧景をしのぶには適切である。

もし、現在の掘り下げられた道の構造を見ようとすれば、メインストリートの真中に立って左右の枝道ないしはビルの奥を見ればよい。そこがどのように掘削され、自分が樋(とい)の底のようなところに立っているかがわかるだろう。
道玄坂二丁目16番地の「幸楽苑」(ラーメン店)道玄坂店の裏手が3メートルほどの崖になっていて、東京都の急傾斜地崩壊危険個所、つまり崖地に指定されているけれど、この崖は「人工崖」以外ではありえない。

崖の形成要因には①変動崖、②侵食崖、③人工崖の3つがあって、①②いずれの可能性もありえないこの場では、すなわち人間が地面を開削してつくりあげた崖にほかならないからである。
この崖は、道玄坂の拡幅と傾斜緩和掘削工事を受けて出現した急傾斜土壁のひとつにすぎないのである。


こうした、近年の「人為の結果」しか知らない向きが、「地区の大部分を緩やかな傾斜地が占め、概ね東の渋谷川方向に下る傾向がある」(Wikipedia「道玄坂」)などというネット情報をうのみにして、それがまた拡散していく、という状態は嗤うべきであろう。

そういえば、道玄坂二丁目10番地にある、マークシティ道玄坂口の石碑のうち、「樋口清之」の署名と押印まである「渋谷道玄坂」の碑も、嗤うべき迷文である。

渋谷マークシティ道玄坂口への入口にある石碑のひとつ
渋谷マークシティ道玄坂口への入口にある石碑のひとつ

「渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。 それでこの坂を道玄坂というといわれている。 江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。
やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近もひらけだした。近くに住んだ芥川竜之介、 柳田国男がここを通って通学したが、 坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思い出もある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことであろう。」

樋口「梅干」先生、第一高等学校および東大(教養学部)が駒場にあるのは、昭和10年以降のことであるのを知ってか知らずか。
駒場はそれまでは農科大学校で、今の東大農学部。柳田や芥川の高等学校時代は明治の30年代や40年代。まして彼らは農学を専攻していたわけではない。
柳田が砧村(今の成城)に居を移す前は市ヶ谷加賀町に自宅があったし、芥川が自殺するまで住んだ田端の家の前にいたのはいまの新宿二丁目のあたりで、それ以前は両国。

ウィキペディアでなくとも、ネットを検索すれば、「梅干文」をうのみにして、道玄坂と柳田や芥川を結びつけた、垂れ流し情報はすぐに、いくらでもみつかるだろう。
『梅干と日本刀』という、「日本くすぐり」の与太話は、「累計120万部のベストセラー」だという。

独立した取材に基づくことなく、「記者クラブ制」に依存した大本営発表や、タレント教授の空辞を垂れ流して誤謬に導く、列島上の巨大な「相互依存」の破綻が、石碑にまでみつかるのだ。