Archive for the '散歩' Category

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ぞろ目のうち

4月4日 《『川の地図辞典』多摩東部編出版記念んウォーク》

今日はありがとうございました。
ちょっと肌寒く天候も危ぶまれるなか、沢山の方々に、4時間半もお付き合いいただきました。
日立中央研究所はもうお祭りの屋台状態でしたね。
どうしてあんな施設を1年に1・2回しか開放しないんでしょうね。
もったいつけて、結局囲い込んでいるだけだということが、よくわかったのですが。

で、なかには高崎から来られた向きもいて、ところがその方は都立武蔵国分寺公園のデザイン張本人だったりして、どうして保育園の北側に結構大きい礫石が投げ込んであるのかということはようやく理解したわけです。
つまり、それは公園全体の雨水集合施設なのだということ(津久井さん、これでいいですか?)でした。
こういうことは、何の説明もないから、人を得ないとどうにもならない。
今日はそれぞれ一家言ある方がお集りで、こんな素敵な日はめったにありません。
三次会までご一緒いただいた皆様、どうかご無事で。

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ぞろ目

1月1日は元旦。
3月3日はお雛様。
5月5日は端午の節句。
7月7日は七夕。
9月9日は重陽(ちょうよう)で「菊の日」。
1月1日は重要過ぎて五節句には含まれない。
1月7日人日(じんじつ)七種(ななくさ)をもってそのひとつとする。
同じぞろ目でも偶数は節句にはならないということ。
偶数は「陰陽」で言えば「陰」で、しかも「割れる」のでよくない、というのが一般俗説。
例えば、6月6日は雨ザアザア、でオーメンの日(6月6日朝6時に生れた悪魔の子)。
2月2日は?6月6日は?8月8日は?さておいて。
10月10日は双十節で、中国では国慶節にあたる。辛亥革命の記念日だから台湾でも大陸でも祝日。
実は6月6日も結構よい日で、宮中の故事をひいて「お菓子の日」とすべき、という意見もあるほど。
12月12日はもういいから、問題は4月4日。
次の日曜日。
この日は国分寺恋ヶ窪の日立中央研究所2010年春の庭園開放日にあたる。
で、『川の地図辞典』多摩東部編の出版記念ウォークをやろうという、実に慶賀すべき日。
多分申込先着十数名様にはこの日特別早くつくってもらった本が行きわたります。
奥付は4月10日だけれど、4月8日には多分出来ている。
で、今度の4月4日だけれど、多分雨にはならない。
四(si))の四は、「回生」なのです。
でも気温は谷間のようだし、国分寺は都心より幾分か寒いから、いらっしゃる方は十分お気をつけて。

4月4日、日立中央研究所の開放日にあわせた『川の地図辞典』多摩東部編の出版記念ウォーク(午前9時45分、JR国分寺駅集合)ですが、そろそろ参加申込を締切ます。
年度末で製本の日程が厳しく、4月4日にはとりあえず十数冊だけ別につくってもらい、間に合わせる、というのが確実になったからです。
奥付日の4月10日までには出来ると思いますが、4日に本を手に出来る方は限られます。
ただし、本は後でもいい(あるいは要らない)、とりあえず参加したい、という方はどうぞ。
恐縮ながら当日購入は、参加申込先着順とさせていただきますのでご承知おきください。

ううむ、うまくいかない。
『川の地図辞典 多摩東部編』の出来日には、もう少し時間がかかるようです。

で、「出版記念ウォーク」の日程は、いっそのこと国分寺の「日立中央研究所」庭園開放日に設定しようと思います。
なんと言っても、野川の源流が見られる数少ない機会(春秋各1日、年間2日)ですからね。

今年の春のオープン日は、4月4日(日曜日)午前10時~午後2時半。

午後は庭園内の桜の木より人が多いような状態となりますから、オープンと同時に入場したいので
集合は午前9時45分、JR中央線「国分寺駅」びゅうプラザ付近ということで。

雨天決行ですが、その場合庭園には入れません。

参加費は、資料代として300円いただきますが、『川の地図辞典 多摩東部編』ご持参の方は無料とします。もちろん、当日購入していただいても結構です。
水筒とお弁当をお忘れなく。

現在、考えているコース(予定)は以下の通りです。

国分寺駅→日立中央研究所(野川源流)→伝村上春樹夫妻旧居跡→恋ヶ窪・姿見の池→西国分寺駅→古代官道跡(東山道武蔵路跡)→都立武蔵国分寺公園→国分寺崖線→真姿の池→武蔵国分寺跡→お鷹の道→タンポポハウス(藤森照信氏邸)→池の坂(押切間)→国分寺駅

参加申し込みはメールで、どうぞよろしく。

「神保町谷」は、この先、大手濠や桔梗濠・和田倉濠、そして皇居外苑(皇居前広場)、日比谷公園とつづく旧海域(=日比谷入江)が、潮の舌先を延ばして陸地を洗う水辺でした。

「その10」の図の左下セクション(索引では「Ce」)には、清水濠からつづく内濠の「牛ヶ淵」があります。牛ヶ淵周辺の等高線は人工的地形改変が明らかですが、昭和58年に国土地理院が編集し、平成11年に発行された1万分の1地形図「日本橋」によると、このあたりは標高約7メートル。神保町は約3メートルですから、4メートルほど高い。そして牛ヶ淵は「九段坂下」にあたるのです。

1万分の1地形図「日本橋」の一部(平成11年)
1万分の1地形図「日本橋」の一部(平成11年)

「その10」の図では、牛ヶ淵の土手際に「アーミイホール」が見えますね。アーミイホールとは、米軍が建物接収していたときの呼称で、元来は軍人会館にして、現九段会館(『東京地盤図』の初版は1959年)。
その軍人会館建設(昭和9年)にあたって、地下から縄文時代の貝塚が発掘されたと言います。その証拠に、現在駐車場の奥に貝塚の碑がひっそりとうずくまっています。
「その10」セクションCeの赤丸7のボーリング結果は、地下9メートルほどまで神保町谷と同じ粘土ですが、そこから下5メートルは砂層。現在の地表地形の標高差4メートルは、川が運んで堆積した砂礫で、そこは縄文人の生活(すなどり=漁)の場にほかなりませんでした。

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「崖線」と「三日月湖」

「タモリ倶楽部」再び(2月27日金曜日深夜0:15~)

「季刊Collegio」がまだ「月刊Collegio」だった2007年6月、「生きている『池霊』」という寄稿がありました(第23号、田中正大執筆)。《場所と記憶》を標榜する小誌にまことにふさわしい内容で、鮮やかなイメージを刻む記事でした。

先般またまた「タモリ倶楽部」からお声が掛り、今度は「国分寺崖線」特集だと。

当方はJR中央線国分寺駅前、「国分寺崖線」を利用してつくられた旧岩崎の別荘「都立殿ヶ谷戸庭園」の目の前を事務所兼自宅(標高約70m)としているものだから、そのことを知ってのお誘いかと思ったらそうではなかった。単にアイツなら何かオモシロイことになるかも、という程度らしい。ロケ地も世田谷区域の成城から等々力渓谷に至る国分寺崖線(標高約40m)という。

場所は大方スタッフが調べていて、「ほかに適当なロケ地がありますか」というので、思い出したのは、上述の世田谷も野毛にある国分寺崖線直下の河跡湖(三日月湖)「明神池」跡。
埋立てられた湖跡は昭和35年ころには住宅地となった。頻々と火事も起こる。夢枕に龍神が立つ。土地の人々は浄財を持ち寄って祠をつくる。そうしてその祠と由来を記した看板が現在も住宅地を貫く緑道のすみにひっそりと佇むことになった(世田谷区野毛三丁目17番9号)。

ロケ中に、祠のお向かいの家の方が庭先から声を掛けてきて、「そりゃあきれいな水だった。潜ると、底からブクブクと水が噴き出しているんだな。水泳も覚えたし、魚もいろいろ獲った・・・」と。「崖線」に湧水は付きもので、それが湖を維持してもいたのでした。

傍らを流れる多摩川に堤防がつくられる以前、この湖から見る光景はいかさま神秘的であったかと思われます。多聞、夕陽の方角にはシルエットの富士も見えたのでしょう。

龍神とはまさしくゲニウス・ラクスGenius Lacus(このラテン語表記は文法的に保証のかぎりにあらず。ゲニウス・ロキGenius Lociのもじり)、それは人々の生まれ育った場所に関する記憶の象徴であり、一方、日本の多くの神がそうであるように、祠は人間の腕力行為に伴う罪障感が形を変えたものだったのです。

ところで「崖線」という言葉は、どんな国語辞典を探しても見出しに出てこない。地学辞典、地理学辞典、地形学辞典の用語としても存在しない。これは普通名詞ではなく、「国分寺崖線」と「府中崖線」にかぎって、接尾辞的に出現する特殊な語。「崖」も、厳密には傾斜角70度以上を言い、それ以外はせいぜいが急斜面。独立した言葉として(「街宣」「外線」「凱旋」はあっても)「崖線」は存在しない。さらに、厳密な定義を適用すると、「崖」としてもほとんど存在しないということに気がついたのでした。

ついでに言うと、「桃栗3年、崖10万年」というのは当日のオープニングに出る看板の文字ですが、「崖8万年」が正しい。スタッフに言ったのですがそのまま。これは言い訳です。

『帝都地形図』から、国分寺崖線と明神池

図は、小社刊『帝都地形図』第6集から、「玉川」図幅(昭和14年3月測図)の一部。国分寺崖線がこれほど明瞭にわかる地図(等高線間隔2尺:約60cm)も珍しいでしょう(画像をクリックすると拡大します)。

明神池が崖裾からわき出る湧水で涵養されています。崖下には花卉栽培の温室農園も。現在等々力渓谷に架かる橋に「ゴルフ橋」というのがありますが、大塚山古墳の周辺がゴルフ場だったのですね。現在、東急大井町線の地下化計画で帯水層の切断が心配されている等々力渓谷はこのすぐ右(東)側。

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久我山 

シホレル

4か月以上更新していないサイトはブログとは言えず、ほとんど死に体。
一方、「季刊Collegio」は定期刊行中(上の「季刊COLLEGIO」という白文字をクリックすると総目次が見られます)。
ただし、それをここで公開(デジタル出版)する予定はいまのところありません。
「PR誌」の体裁をしていますが、〈場所と記憶〉の「メッセージ誌」として、岩波ブックセンターと日本地図センター(地図の店)にほんの少し、そして時々ジュンク堂池袋本店に置いておくだけで、一般にどこかの書店で手に入る可能性はほとんどゼロ。バックナンバーも欠号が多く、このサイトに寄っていただくほどの方には、定期購読をお勧めします。

ところで、昨今の漢字ブームに棹差すわけではないのですが、「尽れる」と書いて「スガレル」と読める人はそう多くはないように思えます。

かつて、吉本隆明さんの都市に関する発言やら書いたものを追いかけていて、その、取り残されたような界隈の慰撫感覚を語る一方で、開発の最先端を評価する、意識的な両ベクトルの立論を不可思議に思った時期もあったのですが、その前者の都市域、つまり時間的に窪まったような場所について、元一橋大学教授でランス文学者の出口裕弘氏は「スガレタ町」と言い、吉本氏の都市論を「分裂していますね」と評したのでした。

「日国オンライン」では、スガレ(ル)について、末枯れ、尽れ、として18世紀の川柳と幸田露伴、芥川龍之介の用例を掲載していますが、それだけでは要領を得ない。けれどもちょっと考えればわかるように、この言葉の正体は「ス+枯れた」つまり「素枯れた」であって、ソッカレ、スッカレ、スッカリ、スッカラカンに通じる「枯れ言葉」なのですね。つまり水気が抜けて、シナビてしまった状態を表わす。
だから、「スガレ(タ)」という形容は、下町の取り残されたような界隈の謂いとして相応しくない。なぜならば、そのような場所はむしろしっとりとした情感を残しており、人が慰撫されるとすれば、そこに一定の湿度と温度がわだかまっていることが基本与件となるからです。

あちこちで指摘してきたことですが、近代都市はひたすらに「乾かし」「平らにし」「明るく」する方向に「進化」してきました。
その典型が、窓の開かない、24時間エアーコントロールのガラス張りスカイスクレーパー、つまりナントカヒルズであって、街は「経済」によって、そうあるように「強制」されてきた、とも言えるでしょう。結局、ガラスとコンクリートの巨大な墓標が突っ立ったような「最先端」の「ヒルズ」こそ、「スガ(末枯・尽)レタ」場所に他ならなかったのです。

では、「スガレ」の反語はどのようになるのか。人の情感に潤いを与えるような場所はどう形容したらいいのか。敢えていえば、シオ(ホ)ル「霑る」がそれにあたると思われます。
けれども「シオレタ町」と言うと、当然「萎れた町」と受け取られるでしょうね。萎れるのは、水分がなくなったからですが、ドライフラワー状態ではない。まして造花ではない。瀕死の状態に近いかも知れないが、死んでしまったわけではない。
半死半生、絶滅寸前、瀕死状態、気息奄奄、辛うじて、纔(わず)かに、生息している状態。けれどもそれこそが、大切なのだと言いたい。転換期にあっては、逆に斯様な「小さな存在」こそ、可能性を秘めている。
「霑(れ)る」は、濡れてうるおっている状態。だから、シオレルは、半死半生でも、シットリしていますよ、これから芽が出る(萌える)のですよ、という意味で言葉としてはまことに未来形であるわけです。

前置きが長くなりましたが、久我山です。
昔は「帝都」井の頭線と言っていましたが、駅のホームを上って階段を下りればそこは神田川のV字谷。線路と川に直行する商店街は久我山商店会。北にすすめば都立西高。南へ行けば國學院久我山高校。いずれも坂道を上る。
ここは南口の久我山橋を渡って人見街道を横断して踏み込むのは岩通(いわつう)通り。その名は國學院久我山校の手前にある岩崎通信機の本社に由来する。
で、岩通通りを上りきったところを流れているのは玉川上水なのですね。その水が岩通と國學院久我山の手前を左(東)に向かう。
V字谷を底から上って来て、また水流に出会う。こちらの水は、繁茂した樹叢を伴う。そうしてほの暗い小径が水に沿っている。つまり、先に述べた、「乾かし」「平らにし」「明るくし」てきた近代都市にあって、その逆をいく、まことに稀な場所なのです。
ましてや夜は。夏ともなれば、ホタルもちょろちょろお出ましになるらしい。

写真

写真は、玉川上水に架かる岩崎橋の橋際の焼鳥屋さん「大鵬」。カウンターにスツール10席ばかりの、小さなお店。40年ほど前の創業時から変わっていないと思われるスタイルがうれしい。テレビはないし、ラジオから流れるのも「スタれた」ジャズかロック系統。総じて「シホレて」いる感じが好ましい。

赤くない提灯も、それなりに結構です。まず頼んだのが「煮込み」で、これがおいしかったものだからおかわりして、焼鳥を賞味するまでには至らず。でも、それでいいのです。「味」の半分は「場所」なのである。ガラスとコンクリートの中で、皿の真中にポツンの餌、星いくつ、点数グルメなんぞクソにもならぬ(ご無礼)。

もうひとつの見どころ、岩通通りをはさんで大鵬はす向かいの「毛里多屋(もりたや)食品工業」は、平たく言えば豆腐屋さん。玉川上水の水で仕込んでいるわけでもないでしょうが、「ごま入り豆腐は最高に旨い。もちろん普通のも旨い」由。
こちらは、いずれ、の楽しみにとっておきます。
豆腐は、いつだってシホレている訳で。

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放映案内

タモリ倶楽部

NHKの次はテレ朝。
 『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』の著者菅原氏から電話があって、タモリ倶楽部の担当者から出演依頼があったが、その日は都合がつかないので・・・と言う。その番組の話はどこかで聞いたことがあるけれど、見たこともないしと・・・と躊躇したものの、宣伝になるのならと、NHK〈美の壷〉につづいてこれまた出演。

川の地図辞典書影

 石神井川ということで、10月11日の金曜日は朝から小雨のなかを王子へ。今回の企画提案者は漫画家の江川達也氏の由。
 マイクロバスのなかではタモリ氏、江川氏、そして私(芳賀啓)が撮影前から大盛りあがり。3人とも「地図好き・川好き」で、どの川が面白いか話し出したら止まらない。周りのスタッフとツッコミ役のおぎやはぎの2人は呆れていました。
 江川氏は、日本地図センター「地図の店」で平積みになっていた『川の地図辞典』を見て、即座に2冊買ったという。
 街なかを歩くにはこれくらいのスケールがないと、と『帝都地形図』(第1集。王子附近の図が収録されている)をお目にかけたら、2人とも食い入るように見て、「これ買うよ」と。

帝都地形図書影

 こういう人たちはざらにはいないでしょうが、「(古い?)地図好き・(消えた!)川好き」が強固に存在し、そして増殖していることは確かであると思われました。
 〈鉄道マニア〉の次は、〈川マニア〉が浮上してくるでしょう。
 民放は、番組冒頭で、当の『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』も紹介してくれるので大変助かります。
どうか、これらの本が多くの人の手に渡り、世の〈川と地形へのまなざし〉の復権に寄与しますように。〔放映は2008年11月14日深夜、というか15日0:15からでした〕

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古地図巡礼 map pilgrimage

公開講座
昨年の8月から、淑徳大学の公開講座で「古地図と文学でめぐる 江戸東京水際散歩」という長いタイトルの屋外講座を月1回の割合で実施しています。講師にとっては1コマごとの準備に半端でない時間と労力のかかるところが難点ですが、それもまた楽しく、発見の多いものとなっています。古地図も部分複製ですが、使いやすい形で提供しています。参加人数枠にまだ余裕があります。講座内容と日程などは別掲の通りです。一度お出かけ下さい。

『地図中心』
(財)日本地図センターが編集発行している『地図中心』という月刊誌があります。その今年1月号から、「江戸東京水際遡行」というシリーズ名で連載執筆しています。私が書くと皆同じようなタイトルになりますが、それぞれ内容は異なり中味は濃いつもりです。お目に留まれば幸いです。

TV出演
今月の初め(2007年5月9日)、午後9時放映のBS朝日30分番組「悠遊!オフタイム」(司会:小堺一機+高樹千佳子)で古地図の話をしてきました。番組タイトルは「古地図をもって町を歩こう」。そこではとくに「本物」の古地図を見ること、後代になぞったりつくられたりした「シンコ(新古)地図」ではなく、「本物」の写真(ファクシミリ)版を利用すること、およびむしろ近年”out of date”となった地図の重要性を強調しておきました。そのココロは前回の「古地図とは?」で多少開陳したつもりです。つまりかつて「最新」であった”real time material”だけが古地図なのです。

上に掲げたものは番組でも使用された古地図の一部(原図財団法人三井文庫蔵。之潮から『明暦江戸大絵図』として刊行中)で、江戸の初期に神田川拡幅(仙台藩が担当)で水没してしまった「御茶ノ水」の湧水口(2ヶ所あった!)が描かれている、唯一の地図です。神田川は山(台地)を切りひらいて造られた人工水路で、開削の際にぶち切ってしまった水脈の水を将軍に献上して以降、「御」が付く、つまり幕府専用の水場となったという伝承を強力に補綴するものです。現在、御茶ノ水橋西詰交番の脇に小さな由来碑が立っています。