Archive for 5月, 2023

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齋藤愼爾氏のこと

 3月30日の午後2時近く、神保町の路地を歩いていた。どこの桜なのか、薄く積もった花弁が風で路面を流れて行った。知人から訃報メールが入ったのはその時だった。フェイスブックの情報ということだったが発信元は確かめなかった。胸を突くものがあった。

 ネットでは同日午後5時の報。各新聞紙のベタ記事は翌日か翌々日だった。ネットニュースの主文は「齋藤愼爾さん(さいとう・しんじ=俳人、文芸評論家、編集者)28日、老衰で死去、83歳。葬儀は近親者で営む。喪主は弟齊(ひとし)さん」である(朝日新聞デジタル)。

 些細なことで愼爾氏と袂を分かったのは、20年も前だったろうか。しかしかつては、私の跡をついで某出版社の編集責任者となったY君から「芳賀さんは齋藤さんとマブダチだから」とよく言われたような間柄で、「マブダチ」とは親しいというよりも「同志」の意味あいを含んでいただろう。端折って言えば、彼は60年安保、我は70年安保世代なのである。
 
 大学を4年で中退、紆余曲折のなかで身過ぎのために出版社に身をおき、義務のように稼ぎ仕事に精をだしていたが、その社で最初の翻訳出版を成功させ、また齋藤氏と縁を得て、それまでは彼岸にあった文学や評論の分野に手を伸ばせることになった。私は嬉しかった。彼のお陰もあってようやく「編集者」になれた思いがあったからである。

「同志」というのは、氏は私が高等学校の生徒だったときから秘かにその書いたものを読んできた吉本隆明氏の信奉者で、吉本氏宅訪問や吉本氏を囲む集いなどに屡々誘ってもくれたからであった。ただしそもそも私と齋藤愼爾氏との縁がどのような契機ではじまったのか、いま詳らかにしない。それは、意図的に自分の記憶から追放したことかも知れない。
 
 氏はいわば伝説の人である。かつて誰かが出版記念会で、「齋藤愼爾さんは怖い人というイメージがあった。まずその名前の画数が多すぎ難しすぎる」と言って集まった人々を笑わせたが、それはある意味で示唆的であった。日本海の「飛島」で少年時代を送り、山形大学を中退、「深夜叢書社」という名の一人出版社の社主にして俳人、という簡単な経歴からも、その異貌の一端はうかがえる。

「やや小柄で痩せていて、わけても猛禽を思わせる顔立ちは、議論に対していつも臨戦態勢にあるかのように鋭いが、それでいてまなざしはどこか優しく、加えてまた、深く刻まれた皺がそれなりの年輪をこの風貌に与え、にもかかわらず、全体として永遠の文学青年を思わせる若々しさをも失っていない」。野村喜和夫氏は『齋藤愼爾句集』(芸林21世紀文庫、2002年)の解説(「ロマネスクから名辞以前へ ―齋藤愼爾句について」)でまことに適切にその風貌をスケッチした。

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 対して、愼爾氏を「妖精」と呼んだのは瀬戸内寂聴氏である。少々長くなるが以下引用する。

「齋藤愼爾さんからこの本の企画を聞いたのは数年も前であった。すっかり忘れていたら、突然ゲラが送られてきた。だいたい齋藤さんは人間の姿はしているが、私には妖精にしか思えないので、その言動もおよそ非現実的で本気にしていなかった。それだけに、目の前にどかんと置かれたゲラのうず高さにびっくり仰天してしまった。/自分の文章があるので気になって、そこだけ拾って読みはじめたら面白くてやめられなくなった。まぎれもなく自分の書いたものにちがいないのだが、妖精の手に撫でられると、妙に摩訶不思議な色艶が加わったようで、なかなか名文に見えたり、気の利いた文章に見えたりするのである。これだけ抜粋するためには、むやみに量の多い私のエッセイを、齋藤さんは少なくとも数回は読み返してくれたにちがいない。/つづいて、齋藤さんの文章を読んだら、これがまためっぽう面白い。博学の妖精から、私は大変実のあるレクチャーを受けて、すっかり物識りになった気がした。/それから、いよいよ、俳句を読みはじめた。これがまた興味津々、俳人でもある齋藤さんの選び方に一本筋が通っていて、世間の物指ではない妖精の物指で選んでいる。/おかげで、私は、一晩眠ることが出来ず、アメリカへ発つ前夜に、書かねばならない原稿をそっちのけで、このゲラのとりこになってしまった。齋藤愼爾さんは、はじめて会った三十年前から少しも年をとっていない。嫁ももらわなければ、〈深夜叢書〉なる怪しい城にひとり立てこもり、御飯なども食べているのやらいないのやら。つまり人間ではないから、霞と夢を食べて生きているらしい。/この本はそういう妖精の昼寝の夢から生まれたものであろう。すべては妖精の手品に頼って出来上がった本なので、共著というのは何だか面映ゆい。それでもこんな面白い本は、誰彼に贈ろうと、愉しみにしている」(『生と死の歳時記』瀬戸内・齋藤共著。1999年)。

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 実際、愼爾氏は「僕は、1日1食、睡眠時間3時間」と言っていた。酒も飲んだが、美酒を少々。こちらは当時飲みはじめれば記憶がなくなるまでを常としていたし、勉強家には程遠かったから、それに対する妖精の訓告だったとも思えてくる。いずれにしても、私の齋藤愼爾氏追悼5句のうち2句に「妖精」の語を使ったのは、もちろん瀬戸内評によるのだが、それが野村スケッチにあるように、かの風貌そのものでもあったからである。妖精とは言うものの、いつ歯をむいて嚙付くか知れない存在。その風姿は、「孤島の孤立」によって、小中学齢期に鋳つくられてしまったとみることもできるのである。

 報道の「老衰」の語とはギャップが甚だしいが、野村氏も言うように愼爾氏はいつも「若々し」かった。氏との縁で私が編集責任者となって刊行できた書籍に『必携 季語秀句用字用例辞典』(1997年)、『寺山修司・齋藤愼爾の世界』(1998年)、『太宰治・坂口安吾の世界』(1998年)、『明治文学の世界』(2001年)の4冊があるが、そのうち「寺山・齋藤」のサブタイトルは「永遠のアドレッセンス」なのである。これらはその企画と素材提供、そして構成までを実質齋藤氏に負っていたから、サブタイトルも氏の言葉にほかならない。だがアドレッセンス伝説は意図して仕立てられたというよりも、避けようもない氏自身の生の軌跡でもあったと思われる。

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 そのアドレッセンスがもたらした、編集者としての情熱と資質は、比類ないものであった。ちなみに近隣の公共図書館の検索で「齋藤愼爾」と入力すると、1989年から2022年まで69点がヒットし、国立国会図書館のそれでは1161件に及ぶのである。
「永遠のアドレッセンス」とは、言い換えれば「永遠の憧れと焦燥」である。そのことを埴谷雄高氏は「天性、あちこちに顔を出すおっちょこちょい」(『夏への扉』帯文、1979年)と言い換え、愛惜したが、私などが俳句に手を染めるようなことになったのは、愼爾氏の次のような「おっちょこちょい」文(『身體地圖』帯、2000年)の賜物でもあったのである。

「奇才 いな 鬼才というべきか 畏るべし芳賀啓 『身體地圖』は近代の懸崖から垂鉛された一代の奇書、稀書、貴書、危書、飢書、悲の器書である。三行詩形式「打越‐前句‐付句」は「生‐死‐再生」「テーゼ‐アンチテーゼ‐ジンテーゼ」「序‐破‐急」の喩か。刻々に改訂されることにおいて地図は肉体に相同じい。〈実體〉の仮りの写し繪=地圖とかりそめの肉體。彼は己が身體地圖を己が眼の虚空を凝視することで、聖なるものの通過した肉體が、荒地に等しいことを知るだろう。/三十億年分の夢を見るという胎児の記憶が紡ぎ出す古代から未来に至る都市着色版画集。記紀万葉から前衛・思想小説までの本歌取り、宇宙大に拡大された身體感覚。「正義なるファンタジーあり地球星」の地上の規範の破砕。「極星とホームの端は詩に似たり」の銀河鉄道の夜の詩人の孤独。そして「共に棲む区切りの夏の果てにけり」の寂寥。人間の廃墟を夢見ながら、任意の縮尺の内に封じられた地圖の限界を超え、都市の断崖を歩く途方もない歩行者、刮目の第一詞華集(齋藤愼爾識)」。

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 深夜叢書社刊とは言え、華麗、過分な言葉の列には、まことに恐縮したものであった。ただ愼爾氏と別れた後で、これまた知人の編集者との縁で講談社から上梓した拙著のタイトルは『江戸の崖 東京の崖』(2012年)である。齋藤氏の「都市の断崖を歩く」という言葉には、いまさらのように予言めいた力を認めざるを得ない。

 人は俳人と言い、自身それを認めてもいたが、私は氏を広い意味での詩人であったと思っている。高校生時代、秋元不死男の主宰する『氷海』に投句して以来、いずこの俳句結社にも結縁することはなかった。そのことが逆に、「文学としての俳句」を目指した齋藤氏の句の純度を高めたであろう。新興俳句の旗手の一人に師事し、無季や超季を至然としながらも、自身は有季定型、旧仮名遣いに依拠した趣きがある。上野千鶴子氏も指摘するように、一定の季語がフェティッシュに頻用される。「木枯」や「枯野」に「梟」、「蝶」と「螢」「空蝉」そして「百日紅」「蟻地獄」等々。それらを梃子として、イメージの領域をかぎり、極地化するのが愼爾句作のスタイルであった。

 私が齋藤氏の代表句と目してきたのは『冬の智慧』(1992年)の冒頭「百日紅死はいちまいの畳かな」である。しかしあらためてみると、『齋藤愼爾全句集』(2000年)および前出「芸林21世紀文庫」では、「いちまい」は「いちまひ」とされていた。仮に誤植でないとすれば、その意は何処にあるのか。しかしそれを本人にたしかめるすべは、永遠に失われたのである。

『佐山則夫hobo全詩』
-2028年春刊行予定-

詩の底無沼に花開いた
稀代ノンセンス小劇場

言葉の信管が点滅する
奇想天外異空間の列陳

「抒情に故意に背を向けた、卓抜なアイディア」
「ショート、ショートと呼んでいいエンターテインメント」
(谷川俊太郎氏『國安』評)

半世紀以上に及ぶ隔絶無類の詩業約400篇をご照覧あれ!

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詩人近影(5月14日、仙台市青葉区「星乃珈琲店」にて)

佐山則夫詩集0『首饂飩』(売り物でねえのっ社・自筆出版,2013)
佐山則夫詩集1『イワン・イラザール・イイソレヴィッチ・ガガーリン』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2014,925yen)
佐山則夫詩集2『君かねウマーノフ』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2014,925yen)
佐山則夫詩集3『國安』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2016,2400yen)
佐山則夫詩集4『台所』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2019,2000yen)
佐山則夫詩集5『滿尿集』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2023,1800yen)
佐山則夫詩集6『(タイトル未定)』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2025,?)
佐山則夫詩集7『(タイトル未定)』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2027,?)
『佐山則夫hobo全詩』(売り物でもあるのっ社・之潮刊,2028,?)

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不法な法 ―情けない国

「不法滞在中の外国人が入管施設で長期収容されている問題の解消を図る入管法改正案は9日、衆院本会議で賛成多数で可決され、衆院を通過した」(毎日新聞・ネット、20230509)

この記事はその冒頭から「不法滞在」という言葉を使ったことによって、「問題の所在」を報道する精神をすでに失っている。
日本の主要ジャーナリズムが「お上」の言葉のチェックをせず、「垂れ流し」ている見本のようなものである。

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2017年6月に来日して日本語を学んでいたスリランカの女性ウィシュマ・サンダマリさんは、2020年8月同居スリランカ男性のDVから逃げて交番に駆け込んだが、DVや仕送り問題をかかえて除籍されていたため、在留資格のない「不法滞在」者として即刻名古屋の入管(出入国在留管理庁)に収容された。

入管の収容施設は、収容者に精神的苦痛を与え、諦め絶望させ、屈服させて国外退去させるための拘禁所である。
日本の入管行政の現状は、つまるところ「非・国民」の国外退去と追放に携る、公的なヘイト、排外機関と言える。
そのため出入国管理法は、入管行政のトップすなわち施設管理者(管理局長)にほぼ無制限の権限を認め、その権限はおよそ基本的人権に顧慮するところがない。約半世紀前、法務省入国参事官は(外国人は)「煮て食おうが焼いて食おうが自由」(池上務『法的地位200の質問』1965年、p.167)と漏らした通りで、その認識と処遇は変わるところがない。

そのため2021年1月頃からウィシュマさんの体調が悪化し、翌月外部の病院での診察と点滴等の処置が必要と判断されたにもかかわらず実質放置され、3月6日に死亡した。33歳であった。
しかしその死に関して誰一人として罪責を問われることはなかった。
検察は「因果関係」を認めず、すべて不起訴相当とした。

この事件は日本の入管法と行政の非人道性を世に知らしめる結果となり、それ以前から準備されていたいわゆる入管法「改正」案、すなわち難民認定申請を却下された外国人の本国送還を容易にし、入管当局の権限を強化する出入国管理及び難民認定法改正案は、2021年5月に成立見送りとなり、翌年1月の国会でも再提出は断念された。

しかしながら「増え続ける長期収容」状態に対する解決として入管法改正案は執拗に上程され、今回は形式的な答弁が繰り替えされたのみで、この4月28日衆議院法務委員会において自民・公明、維新・国民の賛成で可決された。

この4党とその党員ならびに議員たちには、現代法治国家の政治を担う責任も資格をないと言わざるを得ない。
それは「手続き」ないし「アリバイ」としての些末な「法律」以前、人類にもっとも普遍的な「法」すなわち正義を弁えることなく、理解しようともしていないからである。
「普遍的な正義」とは、人権すなわちヒトがヒトとして生きる権利である。
そこには国家のちがいも民族の差異も存在しない。

2019年6月24日、長期収容に抗議してハンガーストライキをつづけていたナイジェリア人は入管大村収容所で餓死に至った。
長期収容に対し、仮放免などを求める入管収容者のハンストは拡大している。
それは、死を賭けた抗議である。

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日本の難民認定率はG7のなかでも極端に低い。
それは厄介を引き受けたくない本音のあらわれであり、同時に人権意識の低さのあらわれである。
世界の難民はこれから増えこそすれ、減ることはないだろう。
どの国であろうと、21世紀はそれを引き受ける覚悟なしに、まともな国家たらんとすることはできない。
しかしこの島国の法と政治のもとでは、「共生」も「おもてなし」も「絆」も、虚構ですらないのである。

難民認定を避けんとして、ひとりよがりの「非人道ヘイト政策」をつづければ、情報拡散手段の発達した今日、得られるのは侮蔑と汚名だけである。
「法」や「施設」の非人道放置は、「外国人」だけではなく「国民」にも適応されると言わなければならない。

すでに2020年8月、国連人権理事会恣意的拘禁作業部会は「日本においては難民認定申請者に対して差別的な対応をとることが常態化している」「入管収容は恣意的拘禁にあたり国際法違反である」旨の指摘を行った。
そこで求められたのは、「1.収容の目的を限定し、法律に明記すること、2.収容の期間に上限を設けること、3.収容の開始・継続について司法審査を導入すること、4.ノン・ルフールマン原則(迫害を受けるおそれがある国への追放や送還禁止)を遵守すること」で、また2021年9月21日国連人権理事会の恣意的拘禁作業部会や同理事会の特別報告者らが「国際人権基準を満たしていない」ため入管法を見直すことを求めた。

しかし、今回衆院を通過した「入管法改正案」はそれらに一切対応することのない「収容長期化の問題は送還の促進で解決」を内容としている。
その端的な表れは「難民申請は2回を限度」とし、それ以降は強制送還を可能としたことである。

この5月7日、「入管法反対杉並デモ」が行われた。
東京都杉並区高円寺駅近くの小さな公園が集会場所であった。
当日は連休の最終日で日曜日であったが土砂降りの大雨。
ほとんど期待していなかったが、公園に入りきれない人々が駅前に溢れていた。
知人の、比較的若い女性が集会スピーチ者のひとりだったことにも驚いた。
隣りの阿佐ヶ谷駅前まで、青梅街道を経由する比較的短いコの字型のデモコースだった。ただ靴の中は水浸し、気温も低く、後期高齢者(に近い)老人にはちょっときつかったが、この雨の中3500人が参加(主催者発表)したと聞いていささかの希望を得たのである。
上掲の写真は、その時の様子と、私が掲げたプラカードである。

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地図学の先達 1987年11月6日

写された面々の苗字を記した紙とともに、およそ35年前の写真が出現した。
地図学のうちでもとくに古い地図にかかわる先達が一堂に会した趣きである。
当然ながら、既に鬼籍に入られた人もすくなくない。
それまでの古地図研究の軌跡が、ある意味では断絶した現在、この写真の語るところもまたすくなくないと思われ、敢えて以下に掲げる。

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前列中央、杖を手にされた南波松太郎(1894-1995)先生はこの時御歳93。東京帝大工学部出身の日本史学者にして日本海事史学会名誉会長。
その古地図コレクション約4000点は、故秋岡武次郎先生のものと並び神戸市立博物館収蔵品の中核をなす。

向かってその左は西川治(1925-2019)先生。東京大学教授、地理学専攻。晩年まで「世界地図博物館」創設の意義を語っておられた。

南波先生右側の颯爽としたお姿は矢守一彦(1927-1992)先生で、大阪大学の教授にしてこの時は同大学図書館長。
ヨーロッパと日本にまたがる都市プランの研究(『都市図の歴史 日本編』『都市図の歴史 世界編』)にはお世話になった。

2列目中央は木下良(1922-2015)先生。神奈川大、富山大、國學院大の教授を歴任。古代交通研究会名誉会長で、故立石友男先生が実質編集にあたった画期的なアトラス『地図で見る東日本の古代』『地図で見る西日本の古代』の古代官道ルートは木下先生のお仕事に基いている。

3列左から2番目は式正英(1927-)先生。東大理学部で地理学を学び、建設省地理調査所を経てお茶の水女子大学教授となられた。
2009年上梓の著書は『風土紀行 地域の特性と地形環境の変化を探る』は之潮刊である。

前列右から2番目は清水靖夫(1934-)先生。法政大学で秋岡武次郎先生に学び、立教高等学校教諭にして法政、国士館両大学の非常勤講師をつとめられた。1980年代、柏書房が倒産の危機を反転することができたのは、清水先生の旧版地図コレクションと助言によるところが大きかった。

3列右から3番目は川村博忠(1935-)先生で、江戸時代までの日本列島の官製基本図である国絵図研究のパイオニアにして第一人者。山口大学の教授から東亜大学に転じ、その名誉教授。川村先生と各地の図書館や博物館で巨大な国絵図や日本図を閲覧し、かつ撮影などの手続きをしてつくりあげた大冊(複数)は柏書房のドル箱であった。

筆者の立場から自ずと「先生」とお呼びするのは以上の方々で、以下は「氏」とすることを許されたい。
最後尾、三角形の頂点に顔を見せているのは山口恵一郎(1921-1991)氏で、文部省から国土地理院を経、日本地図センター調査部参事役として活躍された。地名や地図に関する著作も多い。

そのほか名を挙げコメントすべき方々は多いが、それは追々加筆する予定である。