Archive for the '放映案内' Category

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川について その1

都市河川を考える前に、水そのものについての考察が必要だということに遅まきながら気がついた。

川を流れる水はどこから来るのか?
都市化以前の自然河川では、その根源は雨水であり、またそれによって涵養された湧水であって、それ以外ではない。

現在、都市を流れる水は、じつにさまざまな出自というか径路をたどってきた水である。
そうして、都市の「川」とは何を指して言うのかということ自体が単純ではない。

今日、その多くが暗渠というより公共下水道に変身したかつての「川」は、川と言えるのだろうか?
現在の公共下水のほとんどは屎尿・生活排水と雨水の合流式であるから、その意味では川は「死んだ」のだし、「再処理水」という名の「清流」が流れる水路も、その水面に顔を近づけてみればたちどころに判然とするように、既に「川」ではない。

さかのぼって、江戸時代には「下水」とは「上水」に対する言葉であって、通常は自然河川そのもの、あるいは人工の雨水排水路、灌漑用水の余水路であるから、その限りでは都市の「川」そのものの別称でもあった。

現在の都市に川を「復活」するためには、まずは屎尿・生活排水と雨水の流路分離が必要である。
分離された雨水は、豪雨時の溢水対策として、また災害時の利水、そして地下水涵養のために、都市のサイズに応じた、都市地震の内部に設置される、いくつかの湖水に導かれる必要がある。
そのための導水は、ポンプすなわち電力に依存しない自然流下式のものでなければならない。
ポンプはあくまでも補助的な役割を担ってもらうものでなければならない。

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「崖線」と「三日月湖」

「タモリ倶楽部」再び(2月27日金曜日深夜0:15~)

「季刊Collegio」がまだ「月刊Collegio」だった2007年6月、「生きている『池霊』」という寄稿がありました(第23号、田中正大執筆)。《場所と記憶》を標榜する小誌にまことにふさわしい内容で、鮮やかなイメージを刻む記事でした。

先般またまた「タモリ倶楽部」からお声が掛り、今度は「国分寺崖線」特集だと。

当方はJR中央線国分寺駅前、「国分寺崖線」を利用してつくられた旧岩崎の別荘「都立殿ヶ谷戸庭園」の目の前を事務所兼自宅(標高約70m)としているものだから、そのことを知ってのお誘いかと思ったらそうではなかった。単にアイツなら何かオモシロイことになるかも、という程度らしい。ロケ地も世田谷区域の成城から等々力渓谷に至る国分寺崖線(標高約40m)という。

場所は大方スタッフが調べていて、「ほかに適当なロケ地がありますか」というので、思い出したのは、上述の世田谷も野毛にある国分寺崖線直下の河跡湖(三日月湖)「明神池」跡。
埋立てられた湖跡は昭和35年ころには住宅地となった。頻々と火事も起こる。夢枕に龍神が立つ。土地の人々は浄財を持ち寄って祠をつくる。そうしてその祠と由来を記した看板が現在も住宅地を貫く緑道のすみにひっそりと佇むことになった(世田谷区野毛三丁目17番9号)。

ロケ中に、祠のお向かいの家の方が庭先から声を掛けてきて、「そりゃあきれいな水だった。潜ると、底からブクブクと水が噴き出しているんだな。水泳も覚えたし、魚もいろいろ獲った・・・」と。「崖線」に湧水は付きもので、それが湖を維持してもいたのでした。

傍らを流れる多摩川に堤防がつくられる以前、この湖から見る光景はいかさま神秘的であったかと思われます。多聞、夕陽の方角にはシルエットの富士も見えたのでしょう。

龍神とはまさしくゲニウス・ラクスGenius Lacus(このラテン語表記は文法的に保証のかぎりにあらず。ゲニウス・ロキGenius Lociのもじり)、それは人々の生まれ育った場所に関する記憶の象徴であり、一方、日本の多くの神がそうであるように、祠は人間の腕力行為に伴う罪障感が形を変えたものだったのです。

ところで「崖線」という言葉は、どんな国語辞典を探しても見出しに出てこない。地学辞典、地理学辞典、地形学辞典の用語としても存在しない。これは普通名詞ではなく、「国分寺崖線」と「府中崖線」にかぎって、接尾辞的に出現する特殊な語。「崖」も、厳密には傾斜角70度以上を言い、それ以外はせいぜいが急斜面。独立した言葉として(「街宣」「外線」「凱旋」はあっても)「崖線」は存在しない。さらに、厳密な定義を適用すると、「崖」としてもほとんど存在しないということに気がついたのでした。

ついでに言うと、「桃栗3年、崖10万年」というのは当日のオープニングに出る看板の文字ですが、「崖8万年」が正しい。スタッフに言ったのですがそのまま。これは言い訳です。

『帝都地形図』から、国分寺崖線と明神池

図は、小社刊『帝都地形図』第6集から、「玉川」図幅(昭和14年3月測図)の一部。国分寺崖線がこれほど明瞭にわかる地図(等高線間隔2尺:約60cm)も珍しいでしょう(画像をクリックすると拡大します)。

明神池が崖裾からわき出る湧水で涵養されています。崖下には花卉栽培の温室農園も。現在等々力渓谷に架かる橋に「ゴルフ橋」というのがありますが、大塚山古墳の周辺がゴルフ場だったのですね。現在、東急大井町線の地下化計画で帯水層の切断が心配されている等々力渓谷はこのすぐ右(東)側。

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放映案内

タモリ倶楽部

NHKの次はテレ朝。
 『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』の著者菅原氏から電話があって、タモリ倶楽部の担当者から出演依頼があったが、その日は都合がつかないので・・・と言う。その番組の話はどこかで聞いたことがあるけれど、見たこともないしと・・・と躊躇したものの、宣伝になるのならと、NHK〈美の壷〉につづいてこれまた出演。

川の地図辞典書影

 石神井川ということで、10月11日の金曜日は朝から小雨のなかを王子へ。今回の企画提案者は漫画家の江川達也氏の由。
 マイクロバスのなかではタモリ氏、江川氏、そして私(芳賀啓)が撮影前から大盛りあがり。3人とも「地図好き・川好き」で、どの川が面白いか話し出したら止まらない。周りのスタッフとツッコミ役のおぎやはぎの2人は呆れていました。
 江川氏は、日本地図センター「地図の店」で平積みになっていた『川の地図辞典』を見て、即座に2冊買ったという。
 街なかを歩くにはこれくらいのスケールがないと、と『帝都地形図』(第1集。王子附近の図が収録されている)をお目にかけたら、2人とも食い入るように見て、「これ買うよ」と。

帝都地形図書影

 こういう人たちはざらにはいないでしょうが、「(古い?)地図好き・(消えた!)川好き」が強固に存在し、そして増殖していることは確かであると思われました。
 〈鉄道マニア〉の次は、〈川マニア〉が浮上してくるでしょう。
 民放は、番組冒頭で、当の『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』も紹介してくれるので大変助かります。
どうか、これらの本が多くの人の手に渡り、世の〈川と地形へのまなざし〉の復権に寄与しますように。〔放映は2008年11月14日深夜、というか15日0:15からでした〕

江戸図の宝石

先日、久しぶりで都心に出て新宿駅南口の紀伊國屋書店に入り、2階の平積み本を眺めていたら、『地図男』というタイトルが目に入りました。
インターネットの2チャンネル書き込み小説として話題となった『電車男』以来、ナントカ男というのが流行なのですね。
ついに「地図男」出現ということならば、こちらは「古地図男」。
「美の壷」というTV番組(10月10日NHK教育テレビ本放送。NHK総合では17日と18日に再放送)に出てしまった。
「古地図」特集で江戸図を取り上げたい、というので取材に協力したのが運のツキ。かつて三井の「秘図」であった『明暦江戸大絵図』「江戸図の宝石」!)を世に知ってもらいたいという動機でしたが、「江戸切絵図」までカバーして「出演」する羽目になりました。でも、実際に放送されたのは収録時間の3パーセントか。そして結局番組の中身は幕の内五目弁当になってしまった。でも、この番組のためにこちらは大分勉強したことがある。以下はその一部。(「季刊Collegio」No34に一部掲載)。

江戸図の宝石『明暦江戸大絵図』好評発売中
明暦大江戸絵図2

江戸図について ―切絵図と武鑑

学の東西偏角 「古地図」というと、「江戸図」ないし「切絵図」を思い浮かべる人が多いでしょう。実際、時代小説と並んで、切絵図をあしらった書物が平積みになっている書店の風景は、大分長いことつづいていて、江戸時代にもそうだったように、切絵図が人口に膾炙している度合いは群を抜いています。

ところが『地図出版の四百年』(京都大学大学院文学研究科地理学教室・京都大学総合博物館編、2007)という本(A4判、カラー図版31ページ、本文133ページ)では、切絵図はおろか江戸図については一言半句も言及がありません。「はしがき」にも「ことわり」がない(ただしサブタイトルが「京都・日本・世界」となっている)。江戸図、切絵図については資料が少ない、あるいは研究者がいないということなのか。いや、この本のスタンスは、京都(上方)は「江戸(図)は問題にしない」と表現しているに等しいのでした。
「江戸図」や「切絵図」は愛好家や素人が好むもので、学問の対象にならないというより学者は近づかないほうが無難だ、という雰囲気はなにも京都に限ったことではなく、アカデミズムのなかでは濃厚に漂う気分ではあります。けれどもこれが東京で編集・出版されたものなら、すくなくとも、はしがきかあとがきでの言及を欠くことはなかったはずです。「学問の東西偏角」露出例として貴重かもしれません。

古地図の定義 問題といえば、とくに問題となることがなかったためか、「江戸図」の定義については寡聞にして知らないのですが、簡単に「江戸時代に作成された江戸の地図」としておきましょう。「図」ということから、鳥瞰図や図会の類はどうなるのか、といった議論が予想されますが、それらは除外して「地図」と言っておけばよい。「地図」とは何だ、といううるさい向きには「地上に対する垂直視線を図化したもの」と言いましょう。
さて、「切絵図」の定義は少々面倒です。『江戸図の歴史』(飯田龍一・俵元昭著、一九八八年)では、「切絵図とは」として六項目ほどを挙げていて、江戸市街を単純に切り割ったものではなく、独自のスタイルと機能、あるいは見識を備えた「究極の江戸図」であるとしています。
「伊能図」の定義となるともっと面倒で、元図が一切失われている上に、後世さまざまの写図や利用図が残されており、近代になってからあちこちで「伊能図」が名乗りを上げているから収拾がつきません。
ところで、伊能図で知られるようになった、地図の大きさ上のシリーズ「大図」「中図」「小図」は、近世地図一般においては表現(縮尺)の階梯というよりは、むしろその利用状態によるのでした。大図は座敷に広げ立って見る、中図は同様に畳や床に置くが、ただし座って見る、小図は両手の間に拡げて見る(近松鴻二、1997)というのは、実際に折り畳んだ図を開け閉めしてみるとなるほどと肯かれます。切絵図は小図の典型であって、これは一人の利用者が懐中にし、路上で拡げるのを想定してつくられたことがよくわかります。大図や中図は、複数者が四方を取り囲み、協議して用いるのに相応しい。

切絵図伝説 さて、圧倒的な人気を誇った江戸切絵図誕生にまつわる逸話に、「番町の付届け」があります。
幕府の諸役職の中枢を担う旗本の屋敷が蝟集する番町地区ですが、参勤交代する大名側にとってもこれら役職者との接触は不可欠。しかし江戸時代に表札というものはありません。役職替えや屋敷替えも頻繁に行われます。一方、町人側でも御用聞き、物納めは日々の勤め。尋ねごとで煩わしかった糀町十丁目の荒物屋近江屋が、すべての武家(屋敷)の名入り地図を発刊したのはまことに理にかなっているという話ですが、どうでしょうか。
近江屋の切絵図の最初の版(「懐中番町絵図全」)は弘化3年(1846)という幕末近くになってから(糀町=麹町十丁目つまり四ッ谷附近というのも疑問点のひとつ。これが半蔵門附近なら話はわかる)です。それ以前(宝暦5年・1755)に創刊された吉文字屋板切絵図(吉文字屋は日本橋通三丁目にあった)も、長くは続かなかった。
では260年の江戸期を通じて、「付届け」にはどうしていたのでしょう。恐らく、「付届け」ツールの基本は地図ではなく、古くから出版され、大まかな地名も添えられていた各種の武家名鑑、つまり「武鑑」だったのです。
江戸切絵図や小型の懐中江戸図の類は、その補助的メディアの役割を果たしていたのでしょう。すなわち、江戸の町の訪問プロセスは次のように想定されます。
相手の氏名・役職を、まず「武鑑」で確認する。この場合、家格・禄高も参照。「家紋」は表札のない時代にはとくに重要な表象(軒瓦などで確認できるサイン)なのでしっかり記憶しておく。さらに所在する地域名(住所・番地というものはなかった!)を間違えないよう覚えておいて、あとは、そのあたりに行って、訊けばよい。このとき、訪問先一帯の詳細を描いた切絵図があれば、なお確実。
このようにして確かに、切絵図ははじまりました。しかしその実用性以上に、江戸切絵図はそれ自体が「眼の愉悦」を誘うモノとなり、当時の、そして一世紀半を隔てた今日の、日本列島の巨大都市「江戸」とその「まがいものでない場所」への憧憬を導くメディアの代表となったのでした。