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石山貴美子作品展 マネキン

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上掲はJCIIフォトサロンで開催中(2024年3月5日から31日まで)の石山貴美子作品展「マネキン」から、「a-21 1995年2月11日」。

今年か来年、Collegioから刊行予定の佐山則夫詩集第6冊目の表紙には、これを使わせていただこうと思っている。
日刊ゲンダイ連載「流される日々」(五木寛之)の写真家として知られる石山さんとは古いお付き合いで、お話しして了解を得ているが、さて装丁はどんなふうにしようかと。

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左『復元江戸情報地図』(1994年刊)の一部/右『大江戸今昔めぐり』(2017年リリース)の一部

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facebookでHistorical mapsというサイトを見ていると、欧米を中心としたいろいろな「歴史地図」が登場するが、たまに「古地図」の例示が混入する。

講座では機会あるごとに言い、またあちこち(このサイトでも)で書いているが、日本語の「古地図」(old maps)と「歴史地図」(historical maps) はまったく別概念で、前者は過去における現在の空間認知表現、後者は現在における過去の空間認知表現、つまり表現の時間ベクトルが異なるのである。「古地図は最新地図」という、一見矛盾した謂いが成立する所以である(拙著『地図・場所・記憶』『古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』等参照)。

日本地図学会監修『地図の事典』(朝倉書店刊、2021年、18000円)ではそのことがまったく理解されておらず、間違った説明が堂々と掲載されていた(132ページ「歴史地図」の項)のには驚いた。
版元の編集部にメールして増刷時には書き直させたが、他の訂正箇所を問い合わせたところ、それ以外でも私が気づいたいくつかの誤りや疑問点は考慮されていないらしい。
高額本だから公共図書館でも所蔵はかぎられ、まして改版本を見る機会は一般にはほとんどない。
良心的な版元ないし編著者(この場合日本地図学会)ならば、いずれかがネットで訂正を公告して然るべきと思うが、どうだろうか。

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ところで昨今の地図は、スマホで見るものと相場が定まった。
そのスマホの「古地図」ならざる「歴史地図」アプリのひとつに、『大江戸今昔めぐり』がある。

毎年4回2・4・8・10月に講座をもつ早稲田大学エクステンションセンターで、私は東京23区を順番に、古地図および旧版地図を用いて地形とヒトの営みの話をしているが、この2月は13番目の渋谷区であった。
渋谷区エリアは江戸の「朱引き」線にかかる「府内外」の境界領域で、その市街地化の過程はきわめて興味深い。
例示のひとつとして、『復元江戸情報地図 1:6,500』 (朝日新聞社刊、1994年)の一部を使用した。
これはそのタイトルが示すように、信頼に足る典拠により当時の江戸府内を「復元」した著作物で、つまり「古地図」ではなく「歴史地図」である。
明治初期の大縮尺地図(参謀本部「五千分一東京図」)をベースとして、3年がかりで幕末の江戸を平面に描き上げたのは中川惠司氏(現88歳)だが、本の奥付には「監修児玉幸多、編集制作吉原健一郎・俵元昭・中川惠司」と4人の名が並ぶ。しかし中川氏以外は皆鬼籍に入った。

情報メディア激変の波濤、地図は常に最先端を走るらしく、この『復元江戸情報地図』はその後『江戸東京重ね地図』( CD-ROM版、2001年刊)、『江戸明治東京重ね地図』(DVD-ROM版、2004年刊)、そして『大江戸今昔めぐり』(アプリ版、2017年リリース)と、典型的なイノベーション・プロセスの末に、スマホ情報の母体となったのである。
アプリ版では、表示エリアは「江戸府内」から「東京23区」まで拡大され、今では「川越」そして「駿府」(静岡)版がリリース。さらに、「あなたの街の古地図を作りませんか?」と意欲的である。

しかし今日江戸時代の地図を作るとすれば、それは復元作業にほかならず、すなわち「歴史地図」である。
対して「古地図」とは、江戸時代までにつくられたもので、今日記録物(ドキュメント)としての価値をもつ地図の謂いであるから、この用い方は誤りである。ところが「あなたの街の歴史地図を作りませんか?」では、キャッチフレーズにはならないのだ。
「古地図」と「旧版地図」同様、里俗では言葉の概念が溶解し混淆しつつある。
だがもし「学」を目指すのであれば、『地図学用語辞典』(増補改訂版、1998年)に立ち帰る必要があるだろう。

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さて講座の準備中に気づいたのは、イノベーションに伴う内容改定の著しい例である。
冒頭に掲げた図をご覧いただきたい。
左が『復元江戸情報地図』、右が『大江戸今昔めぐり』のそれぞれ同一エリアである。
左図の左下、今の「駒沢通り」は渋谷橋以西のほとんどが欠けており、恵比寿駅近くに存在した、当時としては繁華な町並地(ちょうなみち)の「渋谷広尾町」がまったくネグレクトされていたのがわかるだろう(なお、左図中央から右下にかけての緑の帯は「川敷」である)。

『復元江戸情報地図』の段階では、中川氏も「府内」の精確、とくに武家屋敷のそれを示すのに精一杯だったのだろう。
内容がその時点で固定されてしまうモノ情報と、可塑性をもち随時変更可能なデジタル情報の差でもある。

繰り返すが、「古地図」とは往時の状況証拠すなわち「典拠」となり得るものの謂いである。
書籍であれアプリであれ、仮に「復元」とうたっていたとしても「歴史地図」は誤認を含む「表現」ないし「創作」であり、往時の典拠とはなり得ないのである。

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自主講座のお知らせ

久しぶりで再開します。
2月28日水曜日です。
詳細は右側の「お知らせ」からどうぞ。

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武蔵野地図学序説 その10

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「武蔵野地図学序説 その10」掲載の『別冊 武蔵野樹林』が発刊された(2024年1月25日)。
上掲は拙稿全5ページのうちの最初のページである。
ただし当号の内容はおもに角川武蔵野ミュージアムで展示の「サルバドール・ダリ 永遠の謎(エンドレス・エニグマ)」の図録となっている。
だから書店では販売せず、角川武蔵野ミュージアムのショップ販売という。

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「武蔵野樹林」は角川文化振興財団発行の季刊誌だと思っていたら不定期発行、2023年3月刊の前々号はVol.12で、以降はVol.Noが付かない「別冊」となった(前号は角川武蔵野ミュージアム「ツタンカーメンの青春 全展示品紹介」)。
結局ミュージアム図録の付録のような感じだが、12回までと思っていた当連載を継続してくれているのは有難い。
ただし次号は今年中に刊行となるかどうか。
12回までの原稿は仕上げてしまって、単行本に備えておいたほうが良いかもしれない。

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「本物の場所」

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上掲は寧楽短歌会歌集第三十七集『風月春秋』(2023年12月31日刊)の一部である。
当該誌は『日本読書新聞』の伝説の編集者故巖浩氏が主宰していた関係上、新宿ゴールデン街の「ナベサン」で続けてきた句会の年次報告を、第27集以降11回にわたって掲載している。

この文章のなかで「本物の場所」という言葉を使ったのは、エドワード・レルフの『場所の現象学』(邦訳1991 年)拠っている。

レルフは「場所の本質は(略)「外側」とは異なる「内側」の経験にある」としつつ、「没場所性(placelessness)に向かっている」この世界において「人間的であるということは、意味のある場所で満たされた世界で生活すること」、また「自らの場所をもち、知るということ」」であると言う。
「没場所性」の典型例のひとつが「ディズニーランド」の類であると言えば、分かりやすいかも知れない。

ともあれあと何年か知らず、こうしたの「本物の場所」に身をおくことができる幸いを生かし、今春からは句会にくわえて歌会と朗読会をはじめる予定である。

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2024年はじめ

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麻布がま池谷の谷頭付近右岸から、私が「奇跡の谷」と名付けた非再開発木造住宅地を眼下に、六本木ヒルズレジデンス2棟と同森タワーを望む。撮影地の背後左手奥にはキノコ型の元麻布ヒルズフォレストタワーが佇立。このスポットは2024年日本地理学会春季大会の巡見(3月21日午前案内)コースに組込まれている。(2023年11月25日撮影)

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極少部数と高原価率のため、先月末刊行の『追悼自余』はAmazonや一般書店では買えないとアナウンスしたが、都内2ヵ所で購入可能である。

ひとつは新宿ゴールデン街の「ナベサン」、もうひとつは吉祥寺の「茶房 武蔵野文庫」で、それぞれ10冊ずつ置いてもらっている。

今回は後者「茶房 武蔵野文庫」について、触れておこう。
そこの経営者にしてマスターの日下茂氏は小・中学校の同窓生。
といっても1学年上で、大学でも同窓となった。
彼は早稲田大学南門の先にあった「茶房 早稲田文庫」でアルバイトをしていたのである。
その喫茶店は土間と中庭をもつ一軒家で、文人や学生サークルの溜まり場であった。

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早稲田の国文出身の冨安龍雄氏が妻都子(くにこ)氏とともに、1951(昭和26)年頃にはじめた店であった。

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(以上「茶房 早稲田文庫」の写真 : 日下氏提供)

惜しくも1984(昭和59)年11月に閉店したが、翌年6月にそれを引き継ぐ形で日下茂氏とその妻真木子氏が吉祥寺の東急裏に開いたのが「茶房 武蔵野文庫」である。

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こちらは残念ながら土間や中庭はないが、上掲2店の写真を見較べると同じものが写っているのがわかるだろう。

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わたしの心/の大空に/舞ひ狂ふ/はるかなる/残凧/舞ひあがれ/舞ひあがれ/わたしの心の/大空たかく/舞ひあがれ/井伏鱒二

井伏の墨筆である。
井伏鱒二(1898-1993)は1967(昭和42)年7月から12月まで26回にわたって、店とその主人をモデルの一部として、『週刊新潮』に「友達座連中」という作品を書いた。
「友達座」という架空の学生演劇サークルの話だが、「茶房 早稲田文庫」は「テアトロ茶房」、富安氏は安田氏、早稲田大学は「L大学」の名で登場する。
以下はその描写の一部である。

 テアトロ茶房という店は、普通の喫茶店とは少し違っている。入口は木造の扉(ドア)になっているが、建築雑誌などに写真で出ているお茶屋の玄関先のように、筧の水が絶えず流れこむ石の手水鉢が店先に据えてある。その鉢前には羊葉や蔦などをあしらって、釣竿にすればいいような竹を目隠しに植え、ごみごみしたこの横丁ではちょっと風変わりな店先の構えになっている。/店のなかは、コーヒースタンドのある土間が鉤の手になって、夏冬の区別なく大きな囲炉裏に自在鉤で茶釜が吊してある。/土間の裏に出ると、淡竹(はちく)を疎らに植えて田舎の藪のほとりの感じを出した中庭がある。これが裏手の二つの座敷に行く通い路を兼ねている。たいていクラブ活動の討論会や研究会など聞きにここに来る学生は、この竹藪のほとりを飛石づたいに裏の座敷に入っていく。/この店の主人は頭が半分以上も禿げている。戦前のL大学文学部の出身だが、戦後、焼け残りのこの家を仮住いにして映画会社へ勤めながら、遊びに来る学生たちに自分の蔵書を自由に読ましていた。たぶん勤めが面白くなかったのだろう。間もなく勤めを止すと、家を改造して喫茶店の商売を始めたのだそうだ。/学生たちはこの主人のことを、小父さんまたは安田さんと云っている。主人の方は学校の大先輩のつもりだから、学生たちに対して客扱いの言葉を使わない。

小説「友達座連中」は、前半に女性の顔の整形手術を、後半は山梨県観光案内めいた釣話をメイン素材とし、学生サークルが唐突に解散して終わる失敗作だが、上掲のように在りし日の「茶房」の素敵なたたずまいのスケッチをはさんでいて、貴重である。

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島木健作『赤蛙』

 ぼんやり見てゐた私はその時、その中洲の上にふと一つの生き物を発見した。はじめは土塊(つちくれ)だとさへ思はなかつたのだが、のろのろとそれが動きだしたので、気がついたのである。気をとめて見るとそれは赤蛙だつた。赤蛙としてもずゐぶん大きい方にちがひない、ヒキガヘルの小ぶりなのぐらゐはあつた。秋の陽に背なかを干してゐたのかも知れない。しかし背なかは水に濡れてゐるやうで、その赤褐色はかなりあざやかだつた。それが重さうに尻をあげて、ゆつくりゆつくり向うの流れの方に歩いて行くのだつた。赤蛙は洲の岸まで来た。彼はそこでとまつた。一休止したと思ふと、彼はざんぶとばかり、その浅いが速い流れのなかに飛びこんだ。
 それはいかにもざんぶとばかりといふにふさはしい飛び込み方だつた。いかにも跳躍力のありさうな長い後肢が、土か空間かを目にもとまらぬ速さで蹴つてピンと一直線に張つたと見ると、もう流れのかなり先へ飛び込んでゐた。さつきのあの尻の重さうな、のろのろとした、ダルな感じからはおよそかけはなれたものであつた。私は目のさめるやうな気持だつた。遠道(とほみち)に疲れたその時の貧血的な気分ばかりではなく、この数日来の晴ればれしない気分のなかに、新鮮な風穴が通つたやうな感じだつた。

上掲は高等学校の教科書などにも屡々採用される島木健作(本名朝倉菊雄、1903年9月7日 - 1945年8月17日)の短編、「赤蛙」の一部である。
この文章が頭の片隅にでもあれば、次のような珍説が飛び出す余地はなかったのである。

 ところで、「蛙が水に飛び込む音」を聴いた人がいるだろうか。/この句が読まれたのは深川であるから、私はたびたび、芭蕉庵を訪れ、隅田川や小名木川沿いを歩いて、蛙をさがした。清澄庭園には「古池や・・・」の句碑が立ち、池には蛙がいる。春の一日を清澄庭園ですごし、蛙が飛び込む音を聴こうとしたが、聴こえなかった。/蛙はいるのに飛び込む音はしない。蛙は池の上から音をたてて飛び込まない。池の端より這うようにスルーッと水中に入っていく。/蛙が池に飛び込むのは、ヘビなどの天敵や人間に襲われそうになったときだけである。絶体絶命のときだけ、ジャンプして水中に飛び込むのである。それも音をたてずにするりと水中にもぐりこむ。/ということは、芭蕉が聴いた音は幻聴ではなかろうか。あるいは聴きもしなかったのに、観念として「飛び込む音」を創作してしまった。世界的に有名な「古池や・・・」は、写生ではなく、フィクションであったことに気がついた。/多くの人が「蛙が飛び込む音を聴いた」と錯覚しているのは、まず、芭蕉の句が先入観として入っているためと思われる。それほどに蛙の句は、日本人の頭にしみこんでしまった。事実よりも虚構が先行した。(嵐山光三郎『超訳芭蕉百句』pp.108-109, 2022)

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新刊『追悼自余』

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上掲は本日刊行、製本150部の文庫本である。
部数としては前世紀の「ガリ版印刷」以下のレベルだろう。
製作費を最小限に収めた結果だが、目いっぱいの価格(本体1000円)を付しても、原価率は50%である。
つまり正味6割、送料版元持ちのAmazonはもちろんのこと、正味7割の一般書店でも販売は不可能であるから、ISBN(978-4-902695-38-0)やCコード(0195)は付したものの、直売しか手段はない。
つまり直売以外は行わない。
150部のの3割は献本に費やさざるを得ず、残り100部が直販完売してようやく原価回収となる。
それが達成できることを祈るほかない。
もちろん献本先からも「投げ銭」はもろ手を挙げて歓迎したいが、さて。

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梅棹忠夫著作集

わたしたちはいま、わたしたち自身が現に生き、活動している生活の舞台を、地域や国家などの概念をとびこして、直接にひとつの惑星の部分として具体的にイメージし、たしかめることができるようになっている。これはもちろん人工衛星などの科学技術の発達によるところがおおきいのだが、また、あたらしく普及した地球生態系的世界像の産物ともいえる。
これは、人間が自分の姿を可能なかぎり遠距離から、また可能なかぎり直接にかえりみる手段をもつことができるようになったということである。そして、そこにみとめたのは「自然」としての文明の姿であった。その意味では、地図というものを、現代ではまったくあたらしい視点から見なおさざるをえないようになってきているのではないか。
フィールド・ワークをもとに思考をくみたててきたわたしは、地図を不可欠の道具として利用してきた。それは、単に道案内のためではなく、ひとつの自然像、ひとつの文明像を把握するための材料としてきたのである。地図はわたしにとっては、ひとつの「博物館」であった。
今回、柏書房から発行される『日本近代都市変遷地図集成』は、道具としての役わりを終えたふるい地図を、あらたに編成し直すことによって、わたしたちの生活の舞台である都市を、今日までの約100年の時間距離のなかでとらえなおすこころみといえるだろう。
古地図は資料であると同時に美術品である。個人や機関に分散して秘蔵されているため、博物館や図書館でも一定地域のものを系統的に紹介するのは容易ではない。今回の出版のように、都市の変遷を示す材料として集成された例はすくない。日本の都市文明の足どりを、あらたな視角から見なおす作業をいざなうものとして、このアトラスはひとつの知的生産の出発点となろう。

以上の文章は、『梅棹忠夫著作集 第21巻』(1993年)のpp.304-305に収録されている「『日本近代都市変遷地図集成』―すいせん文」の全文である。
梅棹忠夫氏(1920‐2010)は生態学や人類学で独自の学問を切り開いた著名な学者で、最初期の著作『モゴール族探検記』(1956年)もベストセラーとなって、そのころ小学校高学年か中学生であった私も読んだ記憶がある。
この「すいせん文」は、1987年に柏書房から刊行した『日本近代都市変遷地図集成』の「内容見本」に収載したもので、当時柏書房から刊行されていた大型地図資料は私がほどんど一人で編集し、推薦文も私が電話で直接依頼したのである。
しかし梅棹氏は原因不明の病により1986年3月にはほぼ失明状態となっていて、推薦文は文案を書いて送れとの指示であった。
おそらく秘書役の人がそれを読んで聞かせたのであろう。
文章は加除訂正なしでOKとなり、内容見本は無事刷り上がった。
その3ページに掲げられた梅棹推薦文のタイトルは「系統的に編集された知的生産の出発点」で、これも私が付けたものであった。

その何年か後、これも秘書役の男性だったと思うが、電話で、かの推薦文は著作集に入れたいと言うので、嫌も応もなく了承した。
いずれにしても上掲の文章は、私の筆になるものである。

いま読みかえしてみると梅棹氏の著作よりも、『試行』に連載されていた吉本隆明氏の「ハイイメージ論」(後単行本、文庫本)の影響が大きいようだが、しかしイメージそれ自体は、以前から私が「ヒト群落」について思い描いていたことに端を発している。
文中の「「自然」としての文明の姿」とは、実は1972年頃離陸する飛行機の窓から見た、光るスモッグドームに覆われた大阪圏の姿であって、露骨に言えば微細な虫の巨大コロニーないし地表の腫瘍というイメージにほかならないのである。
ヒトが地上に生きるエリアとその態様は、とりわけこの100年の間に劇的に変化した。
「アントロポセン」が提唱される所以である。

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