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うたの位相 その2

日本語で書かれた「戦争文学の最高峰」などというものがあるとすれば、吉田満の『戦艦大和ノ最期』をあげるのが、まずは順当かも知れない。
特攻出撃して被弾沈没する巨艦のむなしさ、戦闘の実際を語って圧巻である。しかしそれも戦争の一側面にすぎず、むしろその最奥部に届いているとは言えないのである。

先の大戦での「日本側」死者約310万人(内閣衆質152第15号、2001年8月28日)のうち、「戦死」の多くは、実は餓死と戦病死であって(金子兜太『あの夏、兵士だった私』ほか)、とりわけ「外地」における極限状況は日本兵の一部をして人肉食の餓鬼に変ぜしめた(大岡昇平『野火』ほか)。しかし、アジア大陸に「進出」した「皇軍」が殺戮し、また占領した地域での死者の数は、「日本側」とは桁違いに多かったのである(たとえば中華民国行政院賠償委員会発表、1947年) 。
一方「内地」にあって「唯一」の地上戦が展開した沖縄では凄惨な戦いとともに、「大和」の自殺(特攻出撃)と似て非なる「集団自決」が叢生した(比嘉富子『白旗の少女』ほか)。
さらに、一瞬で夥しい破壊と死者を生じさせる原爆をはじめとする爆撃も、先の大戦から今日に至る戦争の著しい特徴である(原民喜『夏の花』ほか)。
そうして戦争は、それが終結した後も「内地」などでは食糧をめぐる悲惨な状態を現出せしめたのである(野坂昭如『火垂るの墓』ほか)。

「戦争文学の最高峰」などという表現がそもそも「笑止」なのは、たとえば先にあげた二つの「うた」に「戦争」が描かれているわけではないからである。
ここに並べられているのは「戦争」ではなく、「いくさ」に駆り立てられ、赴かんとする者の、出立の心情とそれを鼓舞する言葉であって、それ以外ではない。であるからこそ、逆に「心ゆさぶられる」(高揚させられる)のである。

「『戦友別盃の歌』がはじめて『うなばら』(当時は赤道報といった)に出た時の感激は大きかった。将校も兵士もその感動を隠さなかった。歌のところだけが切り取られ、手帖に秘めて愛誦された。(略)ある若い将校は私に語って言った。『長いこと詩を忘れてゐたのが、大木さんのあの詩で、詩の存在に気づき、詩が如何に大切なものかをはっきり知ることが出来たのを喜んでゐます。戦場と詩といふものほど離れてゐるようで実はしっかり結びついてゐるものは恐らく無い筈ですからね』と。(後略)浅野晃」

「戦争に於て勝敗を決するものは、兵の数でもなければ装備でもなく、人間の、民族の、精神力の凝集したものであると同時に、人間の、民族の、表現力が凝集したものは詩であることを知ったのは、僕にとっては大きな発見であり、啓蒙であった。かつで僕は『詩人認識不足論』を書いて日本の詩壇を騒がせた男であるが、その際何の反駁もしなかった大木君に対して、今の僕はただ黙って頭を下げるほかないはない。/戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である。大宅壮一」

上掲2文は、宮田毬栄著『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』に『海原にありて歌へる』の「跋」から引用されているものである。そうして著者すなわち大木惇夫の次女は次のように書くのである。

「父の戦場での詩の働きは、ジャワ方面軍の首脳部が予想していたものを遥かに超えていた。宣伝班員のだれもができうるかぎりの仕事に励んでいたが、父の仕事はひときわ直截的な効果をもたらしたのだった。それは詩というものの力にほかならなかった。「詩人大木惇夫の任務は十二分に果たされた」との判断によって、父に帰国をうながす意向が伝えられたのは、胃痙攣の発作で寝込んでから数日後のことであった。」

巻末の年譜によれば、大木惇夫が「現地除隊の形で極秘の帰国」をしたのは1942年(昭和17)9月下旬という。
この時期、戦争は死の翳の下ではあったが、まだその上半身を白々と露出させていたにすぎなかった。
それが赤く黒く黄色の巨大な姿を誰の目にも明らかにしはじめる(「赤く蒼く黄色く黒く戦死せり」 渡辺白泉)には、大木が「任務を果たして」から半年も要しなかった(吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』)。

言葉は人類の虚構の根源である。民族語は「民族」の虚構であり、うたはその直接力である。戦争の「現実」が、「うた」の虚構と乖離を甚だしくすれば、うたは色あせる。「飢え」はその最たる「現実」である。
二つのうたは、つまるところ「行き」はよいよいうたであって、マルスの凛々しくも蒼白い若者顔とは裏腹の、年老いた化物の本質に迫るもの(「戦争が廊下の奥に立ってゐた」白泉)ではなかった。だからこそ、うたは「役目を果たし」えたのである。
戦争は、「いくさ」と言われた古代のそれとはまったくの異次元に移行していた。「銃後」もすでに消えていた。その結末は、廃墟と飢えであった。「帰り」を体験した生き残りたちは、当然ながらこれらのうたとメロディーを記憶に封印し、それを見聴きするのを好まなかった。すくなくとも私の父はそうであった。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(T・アドルノ)。東アジアにおいても加害と被害を問わず、同然の「記憶」が刻印されたからである。
「うたびと」は、地獄へつづく言葉の「片道切符」しか手渡さなかった、あるいは手渡し得なかったのである。

これらのうたが今日再び「戦争を知らない世代」の間に浮上し、あるいはわれわれにある種の「感情」をもよおさせるとすれば、さらに切開しなければならない問題が残ると言わなければならないのである。

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うたの位相 その1 

彼その終局をおもはざりき 此故に驚ろくまでに零落たり (『エレミアの哀歌』第1章9節)

以下に掲げる五七調の16行は、1942年(昭和17)11月に現インドネシアのジャカルタ(当時オランダ領バタビア。日本軍が占領)で出版された大木惇夫著『海原にありて歌へる』のなかの「戦友別盃の歌―南支那海の船上にて。」と題されたうたである。

言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビアの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字星を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。

このうたについて、wikipedia「大木惇夫」の項では根拠を示さず「日本の戦争文学の最高峰ともいわれる」と書いている。「も」付の伝聞体が、書いた本人がそう思っているにすぎない事情を語って笑止であるが、このうたに心揺るがせられた者はすくなくないだろう。しかしwikipediaの記述としては、もちろん失格である。
さて、次のうた(「海ゆかば」)はどうであろうか。

海行かば 水漬く屍 
山行かば 草生す屍 
大君の 辺にこそ死なめ 
かへり見はせじ

こちらは『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」の一部で、大伴家持が大伴氏と佐伯氏の家祖家系を言上げした部分である。
これに曲をつけたのが東京音楽学校教授であった信時潔で、1937年(昭和12)にNHKの嘱託を受けたものという。
しかし阪田寛夫の「海道東征」(『文学界』1986年7月)によると、「海ゆかば」には明治初期に東儀季芳が作曲した雅楽ふうのものがあり、それは「軍艦行進曲」の一部をなすという。つまり一般に知られる「海ゆかば」は戦時期の「国民精神総動員体制」用改曲であった。
この新しい「海ゆかば」は、負け戦感が濃厚となる1943年(昭和18)5月以降、大本営の玉砕(全滅)ラジオ発表の冒頭曲とされて人口に膾炙し、戦時中は「第二国歌」ないし「準国歌」とも称されたという。
「戦友別盃」同様(戦時期の日本列島と旧植民地の、そしてそこからアジア大陸と太平洋島嶼に散開させられた)人心の多くにくい込んだうたで、「日本人によって作られた名曲中の名曲」という評もある(新保裕司『信時潔』2005)。

しかしながらいずれの「うた」も、まだ大戦緒戦の景気のよい時期につくられたにもかかわらず印象は暗く、悲壮というよりも悲愴な「無理やり」感がある。新曲「海ゆかば」の最終部「かへり見はせじ」の唐突急激な高揚部はとくにそうである。

それは Wir müssen sterben (われわれは死なねばならぬ)、つまり自分あるいは他者の死を絶対的に強制する戦争という極限状況にあって、それを諦念とある種の高揚感で無理やり受け入れ、生への執着を断ち切らんとする不自然で奇怪な心性を前提としているからである。
「戦友別盃」の最終行は「雲」という自然現象を引き合いに、「黙々と」運命に従うことが指し示される。
これはほとんど「阿Q」(魯迅)の論理であり、奴隷の心性であって、心理的にはマゾヒズムと等価である。

ある者は「海ゆかば」をして「決して「勝利」への行進曲ではない、「偉大なる敗北」の歌である」と言う(同前)。しかし「敗北」に「偉大」を付けて美化するとすれば、結局のところ「精神勝利法」と変わるところがない。

「猿蟹合戦」の主人公はズワイガニでもタラバガニでもありません。海に近い森や里山に棲み、木にも多少なら上れる、アカテガニです。
アカテガニの呼吸法は少々変わっています。カニは一般に鰓呼吸をするけれど、アカテガニの場合は「鰓呼吸した水を口から吐き出し、腹部の脇を伝わせて空気に触れさせ、脚のつけ根から再び体内に取り入れ」ることで、陸上生活にもっとも適した種のひとつとなりました。
雑食性だから、おにぎりでも熟した柿の実でも食べる。古い家なら土間にも入って来たと言います。

昔話では、サルの投げた青柿で潰された母ガニの死体から仔ガニたちが這い出し、ハチや臼、牛糞などの味方を得てかたき討ちを遂げました。
現実のアカテガニのお母さんは、7月か8月の大潮の晩、つまり満月か新月の夜お腹にたくさんの卵を抱いて森から浜や磯に下り、潮に浸かって体を震わせ、孵化した幼生(ゾエア)を海に放ちます。

つまりアカテガニは、森と海がつながったエリアにしか生きることができないのです。しかし日本列島の海岸線はほぼすべてコンクリート護岸や自動車道路に変わってしまい、辛うじて残された森も海浜に直接続くところはめったにありません。実際、関東地方でアカテガニの棲息エリアとして知られるのは、神奈川県三浦市の小網代湾にのぞむ一帯と千葉県勝浦市の鵜原理想郷の2ヵ所くらいです。

三浦半島の南西端、小網代湾に注ぐ小河川浦の川の谷戸は、近年とくに生物多様性の観点から「小網代の森」として保存され、人の手で維持管理がはかられています。
いまの季節、少しひらけた湿地ではハンゲショウ群落の半分白い化粧姿が目を惹き、磯浜では小さなチゴガニのオスたちの盛んなウェービング(「ダンス」と言う人もいますが)が見ものでしょう。山裾の岩間に比較的大きなアカテガニが隠れているのを、見つけることができるかも知れません。この夏休みを利用して、出かけてみてはどうでしょう。

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小網代湾のアカテガニ

小網代湾につづく森つまり谷戸とその自然については、『「流域地図」の作り方』(ちくまプリマ―新書、岸由二著、2013)、『「奇跡の自然」の守りかた』(同、岸由二・柳瀬博一著、2016)が紹介しているので一読してみてください。最近ではNHKのEテレでも取り上げられたので、その映像も参考になるでしょう。
〈本で学ぶ〉から〈場所で学ぶ〉、そして〈場所に学ぶ〉それぞれのテーマと方法があります。生物多様性だけでなく、そのエリアの地形や地質、地名や歴史といった面についても、いろいろなメディアを通じて探ってみることも「図書館」の意義と存在性を深めることになるでしょう。

さて、この稀有な自然を体感しに出かけるには、京浜急行の久里浜線終点三崎口からバス(引橋下車)を利用するのが一番ですが、それには「みさきまぐろきっぷ」がおあつらえ向きです。京浜急行が発行している「おトクなきっぷ」のひとつで、品川からの往復の電車賃とバス代、食事代や観覧料などが含まれ大人1人3500円、ただし発売当日かぎり、自由席のみです。

注意すべきは、週末や連休の晴天の日は混雑するかも知れないこと、また万が一の地震や津波も想定に入れ、電車が不通となる事態も考えて、ある程度の準備をするほうが賢明だということです。もっとも後者については日本列島に住むかぎり、どこに出かけるにも必要な心掛けです。
ともあれ、猿蟹合戦の物語を育んだ自然環境、その風や音、そして匂いに触れておくことは、将来どのような職業に就くかにかかわらず必要なことだと思われます。どうぞ、この機会にお出かけください。

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第3の敗戦について

『週刊東洋経済』の最新号(2019年7月6日号)をめくっていて、驚いた。

特集の1は「ソニーの復活」であるが、それとは別に数ページにわたって知人が取り上げられていたからである。
数十年前、時間と空間をほんの少しの間だが共にした高橋公(たかはしひろし)。
早稲田大学本部を占拠した、ノンセクト黒ヘル集団「反戦連合」の親玉だった。
いまではすっかり好々爺、いや、水木しげるの子泣き爺(じじい)の風情。
《「地方移住」のパイオニア ふるさと回帰支援センター理事長》として「ひと烈風録」に紹介されていたのである。彼が学生運動を離れ、生活に追われながらも友人たちと「神道夢想流」(杖道)の道場を建てたこと、先の津波でいわき市小名浜の実家が流されたことなどもはじめて知った。
しかしこの高橋氏と表題の「第3の敗戦」はまったく関係がない。

関係があるのは、コラム「グローバル・アイ」のほうで、こちらは小原凡司という笹川平和財団上席研究員、元は駐中国防衛駐在官を経て海上自衛隊第21航空隊司令だった人の書いた「中国動態」である。
可変翼を備え衛星の測位データと極超音速滑空技術を駆使する中国の中距離弾道ミサイルと、従来の抑止力という概念から離陸したロシアや中国の低出力戦術核兵器に触れて戦慄的である。
またこの記事ではないが、いまやその生産および技術大国となった中国のドローンの、軍事への応用は目を見張るものがあるという。

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列島の現政権の浅慮は「防衛力」拡充に腐心邁進、標的となるばかりの空母に執着、またステルスではあっても有人事故付の馬鹿高い飛行機、それにミサイル迎撃システム(THAAD:低空飛来のドローンには無効)を、国内防衛産業への支払いを繰り延べてまで買い続ける。「赤ネクタイの大ボス」へのご機嫌取りでもあるが、リアルな認識と政治が意図的および無意識に回避され、かつて巨大戦艦に執着した愚が繰り返されている。
しかしながら今日の「戦争」は、その戦闘レベルにおいては宇宙空間のハイテク戦に軸足を移し、その防衛力レベルにおいては地表の食料自給率が命運を握っているのである。

極東の列島は、ここ1世紀以内に2つの大敗戦を経験した。もちろん第2の敗戦とは、核発電所の爆発事故とその対応処理のための悪夢のような泥沼作業、そして稼働停止にかかわらず垂れ流される途方もないそれらの保持費や解体費の現状を言うのである。

戦争も敗戦もほとんど知ることなく、いま存在するそれに気付かない人も少なくないが、それ以上に近未来の敗戦を想定しえない者は多いだろう。
標的となるのは空母めかした「自衛艦」や有人飛行機だけではない。54基の在列島核発電装置も、それら飛翔体の格好のターゲット以外ではないのである。

そうして東アジア政治のレベルにおいては、極東の島国は近代の「植民地支配」と「侵掠」の負債からいまだ抜け出すことができず、国際的な地位低下にもかかわらずいやそれ故に、過去を美化して内向きに居直ろうとする。

「アメリカの傘」も「自主防衛力」も、もはや頼みにできるものではない。現在ただひとつ確実に言えるのは、われわれがもっぱらひとりよがりあるいは美意識を頼みとするならば、その先にあるのは第3の敗戦でしかないという、冷厳な「格率」である。飢餓と核汚染のなかで「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍」ぶこと自体が不可能となるのは、そのときである。

もっとも「格率」ならざる「確率」に言い及べば、第3の敗戦のさらに高いそれとして想定される事態は、列島のメガシティとメガロポリスを直撃する巨大地震とその結果である。
この近未来に「国土強靭化」と「軍備増強」で対するならば、それは愚かとしか言いようがないのである。

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洗足池 その3

前回みた縦断勾配8.3%の坂は、1923年(大正12)に建立された「中原街道改修記念碑」の「沼部石川千束等ノ急坂」のうち沼部の坂である。
古い坂はどのように改修されたかを、下掲の地形図で確かめてみよう。

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左右のうち左は前回同様、右図は1万分の1地形図「自由が丘」と「武蔵小杉」(いずれも1984年編集)の一部であるが、説明の必要上、左右の同位置に赤いピンを刺し加えてある。
ピンの位置には、現在「桜橋」として知られている跨道橋が存在する。鋼製高欄は赤く塗装され、その上に花が被さる時節には、普段とはうって変わって遠来の老若男女が渡る橋である。2000年にリリースされ大ヒットした福山雅治の「桜坂」の影響だが、20年後の来春はさてどんな人出となるか知らぬ。

右図すなわち1万分の1地形図で道を横切る10メートルと20メートルの等高線間隔は約30ミリメートルである。水平距離約300メートルに対する10メートルの高低差であるから、桜坂の平均傾斜角は約1.9度、道路縦断勾配は3.3%、つまり左図の傾斜は右図の半減以下と言うことができる。ただし標高20メートルの等高線は、桜橋の南西側30メートルのあたりを通っている。

現「桜坂」について、大田区のサイトの説明をみてみよう。

「東急多摩川線沼部駅から東光院前を通り北東へ向かうと、田園調布本町19番あたりから石垣にはさまれた切通しの坂道になります。これが桜坂で、坂名は坂道の両側に大正時代に植えられた桜にちなむものです。
この坂は旧中原街道の切通しで、昔は「沼部の大坂」といい、勾配がきつく荷車などの通行は大変であったようです。また、かつてこのあたりの村落(沼部の村落)は荷車、旅商人の往来でにぎわい、腰掛け茶屋などが坂道の両側にあったともいわれています。
坂下には、かつて六郷用水が流れていたましたが、下水道の普及につれ、この用水も埋められました。しかし、少しでも昔の姿を残そうと、その一部を自然の湧水を使って「六郷用水の跡」とし、現在は保存しています。」

以上は「田園調布・嶺町地域の坂道」にあるもので、更新日は2016年4月1日である。
1行目の「田園調布本町19番」とは、上掲右図の右端中ほど「田園調布本町」の「調」の文字がその斜め底辺の一角にかかる1ブロックで、「調」の文字がまたがる道と旧中原街道の交差地点には「さくら坂」信号がある。
「桜坂」は、この信号から約190メートル北西の「さくら坂上」信号までと言い(坂学会「東京23区の坂」)、wikipedia「桜坂」でもほぼ同様としている。
これらをGoogle Mapで確認すると、2つの交差点信号のほぼ中央、それはおそらく坂名の標柱の位置だろうが「桜坂」と記し、坂下、さくら坂信号と東急多摩川線の間の旧中原街道に「桜坂通り」と記入している。
桜坂は「両側に植えられた桜」にちなみその範囲を言うのだから、桜坂は桜坂通りの一部ということになる。

左図の等高線で読み取れる旧「沼部の大坂」は、現「桜坂通り」から現「さくら坂」信号に一部かかるあたりで、「桜坂」の大部分は切通し工事以前は段丘の平坦面であることがわかる。つまり現在の「桜坂」と「沼部の大坂」は、実はそれぞれ位置が異なると言ってもよいのであって、現在の「桜坂通り」には「沼部坂」(旧「沼部の大坂」にちなんでこう呼んでおく)と「桜坂」の2つの坂が存在していると考えたほうがよい。

右の地形図は等高線が切り通しの崖記号に吸収され、そこから現在の2つの坂を比較計測することは不可能なので、スマホアプリ「スーパー地形 カシミール3D」を利用し、「桜坂通り」のほぼ中央を通る線から、それぞれの坂の平均数値を導き出し以下に掲げておく。おもに段丘面を通る等高線に対して、「溝状に掘り下げられた道筋=坂」の傾斜を地図上から知るには、これがもっとも手近な方法だからである。
Aは上掲左図で坂下の六郷用水に架かっていた橋からさくら坂交差点信号まで(沼部坂)、Bはさくら坂交差点信号からさくら坂上交差点信号まで(桜坂)とする。

A「沼部坂」 水平距離221m 高低差7.59m 傾斜角1.967度 道路縦断勾配3.43%
B「桜 坂」 水平距離187m 高低差6.75m 傾斜角2.067度 道路縦断勾配3.61%

このABふたつの坂は「沼部の大坂」を削平して造り出されたものだが、とりわけ「桜坂」の大部分は高位の平坦面を掘り下げたため、溝あるいは樋状の形が顕著で、その両側の堤の部分に桜並木は植えられたのである。

時代が最近に下れば下るほど、坂は、面(斜面)ではなく線(傾斜経路)と捉えねばならない場合が多くなる。それは「道」の役割が、(foot) pathから車輛を主体としたroadへそしてwayへと変容し、それに対応して施工も法令もリフォーメイションを免れ得ないからである。
今や「道」が直面する変容課題は、 self driving car への対応である。
道のありよう、とりわけ坂はますますその傾斜を減じ、姿形を転じていかざるをえないのある。

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小網代谷戸 その1

京浜急行久里浜線の終点三崎口からバスで2停留所目。
下車して目指すは、三浦半島南西端に深く陥入した小網代湾。

台地の引橋面から西に下ればすぐに谷頭域に至る旧小網代村の谷戸は、今日では類稀な〈森と干潟がつながっ〉た「小網代の森」として知られる。
たしかに小河川(浦の川)ではあっても、巨大都市近郊の一流域がそっくり都市化を免れた場所はきわめて珍しい。だから「森」なのだろうが、地形学的には標高差数十メートルにおよぶ「台地の開析谷」であって、しかも隆起地帯のそれであることは意識されたほうがよい。そうしてこのような地形は、関東地方では一般に「谷戸」と言うのである。

近年この谷戸はおもに自然保護もしくは生物多様性の観点から、四半世紀以上にわたって、水源エリアなどの保全とともに、藪の伐開および湿地回復などの手段が講じられてきた。
さらには木道や説明板の設置、そして水洗トイレまで整備された結果、土日の昼前後ともなればカジュアルでカラフルな装いをした老若男女でにぎわい、都心の自然公園に見紛う光景も現出することがある。
この人気ぶりには書籍や雑誌、観光案内リーフレット、テレビ、インターネット等での喧伝に加え、京急の「みさきまぐろきっぷ」を使える一画であることも寄与しているのであろう。
幸いなことにいまは雨季であるため、土日でも晴れてさえいなければ人影はまばらで、比較的静かな谷戸の谷底歩きを楽しむことができる。
しかしながらこの谷戸巡検でもっとも留意すべきは、多雨による土砂災害や地震・津波の予期せぬ襲来であって、出かけるにあたっては、鉄道などの交通機関が不通となる事態に対しても、幾何かの想定と準備が必要となる。

さて小網代谷戸を知るには、まずは70年以上前の旧版地形図を参照することをお奨めしたい。
三浦半島は旧海軍の一大拠点横須賀を擁し、要塞地帯として地形図が一般に公刊されることはなかった。そのため、戦後間もなく刊行された2万5000分の1地形図が出発点となる。けだし「情報公開」は、列島国家にあっては「体制」の崩壊後にはじめてその一部が実現するもののようだ。
ともかくもこのエリアについては、1947年(昭和22)資料修正「浦賀」「秋谷」「金田」「三浦三崎」の4図幅を接合して参照するのが適切なのだが、ここではとりあえず中心となる「金田」図の一部を複写拡大し、色鉛筆で水田と川筋・溜池および県道に着色、また一部ライン等を描き入れたものを以下に掲げることとする。

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ところで、地形図の拡大利用は、従来原則タブーであった。
なぜならば地図の編集プロセスにおいては、許される範囲の「転位」や「総描」といった表現上の処理が行われるのが常で、拡大すれば許容範囲にあったズレも拡大され位置の誤差が増幅する結果、「地図の間違い」といった誤認が生じるおそれがあるからである。しかし拡大してはじめて利用可能となる、あるいは気づくことのできる記載情報量ははるかに大きいのである。旧地形の探求には、旧版地形図の積極的拡大利用を推奨したい。
そうして拡大にあたっては、たとえば2万5000分の1の場合は大胆に250%にして1万分の1とするなどの工夫が望ましい。またスケールバーを同時に拡大しておき、図に添える配慮もあれば上出来であろう。

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洗足池 その2

旧中原街道「桜坂」の復習は、以下の地図から始まる。

1881年(明治14)5月測図の2万分の1地形図「東京府武蔵国荏原郡下池上村」(所謂迅速測図原図)の一部である。

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図の右上、北東から南西につづくのは中原街道で、段丘崖を下ってからすぐ西に折れ丸子の渡しで多摩川を渡河する。段丘下、中原街道沿と坂下道の交わる付近にある「東光寺」は、「東光院」として立派に現存する。また坂下道に沿って、現在では東急多摩川線が通り、東光院の南には沼部駅が存在(1923年目蒲線丸子停留所として開業)する。

中原街道は段丘崖を上下する際、傾斜を低減するため崖端の侵食谷を利用したように見える。その谷状地形が人工によるものであるか、自然な開析谷を利用したものかは措くとして、この時期の坂道(現「桜坂」)の傾斜をしらべるために、地形図にスケールをあて、ご覧のように鉛筆で書き込みをしている。

縮尺2万分の1地図上で、中原街道を横切る10メートルと20メートルの等高線の間隔は約6ミリメートルである。すなわち水平距離約120メートルが10メートルの標高差をもっていることになる。
これらの数値から求められる平均傾斜角は約4.7度で、道路縦断勾配としては8.3%に相当する。8%は現道路構造令によれば、設計速度時速30キロメートルの急勾配である。

しかし当時は車と言えばもっぱら荷車や人力車、舗装されているわけでもなく、復路は重量ある下肥を積んだものが多かったのだから、とりわけ雨季の泥濘坂を上下する難渋は筆舌につくし難いものがあったろう。

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森と海と   2聯ソネット

森へ

梅雨の隙(ひま)

空には光

天の際

刷毛の薄藍

雲少し

浮び躊躇(ためら)ふ

尾根外れ

羊歯(しだ)葉の間(あはひ)

谷地下り

なほも下れば

かの光

かなたし梢枝(こずゑ)

知らぬ鳥

此彼啼き交はす

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海へ

葦原に

蛇柳(じゃやなぎ)点じ

半夏生

花穂並(な)む湫地(くてち)

榎枝

木陰休らひ

いにしへの

干潟過ぐれば

入江はや

上げの漣(さざなみ)

岩棚に

散り群れる蜷(にな)

踏み避(よ)けて

波食窪(はしょくくぼ)触(ふ)る

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〔前面は波食台。波食窪は右端中央上側。小網代湾にて〕

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洗足池 その1

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大田区立洗足池公園の一画に、小さな「中原街道改修記念碑」が建てられている。

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碑文は以下の通りである(掲示に際し改行し、句読点およびルビ(読み仮名)を補った。〔   〕は解読者の補注)。

 我中原街道ハ郡〔荏原郡〕ノ中部ヲ縦貫シテ神奈川県下二通ズル大動脈ニシテ、交通上無二ノ要路タリ。然ルニ従来沼部石川千束等ノ急坂、相前後シテ中間二起伏シ峻屹嶮難、往来ノ苦困名状スベカラズ。沿道諸般ノ事業ハ為ニ時代ノ進運二伴フコト能ハズシテ、文明ノ恵沢二浴セザルモノ甚寡カラス。
 府会議員森田節氏深ク之ヲ憂ヒ、奮起卒先シテ是ガ改修ノ事に膺(あた)リ、或ハ府庁当局卜折衝シ或ハ関係町村有志ヲ策励シ、拮据(きっきょ)経営着着エヲ進メ遂二忽ニシテ這(こ)ノ壮業ヲ完成シ、坦坦砥(といし)ノ如キ現在ノ道路ヲ見ルニ至ラシメタリ。
 回顧スレバ府制実施以来悠悠四十年、其間府政二参画シタルモノ頗ル多シ。而モ未ダ曽(かつ)テ一トシテ本街道ノ嶮難ヲ顧ミタルモノ無ク、長ク沿道庶民ヲシテ徒二怨嗟ノ声ヲ伝ヘシメシガ、今ヤ幸ニシテ同氏ノ恩眷二接シ宿昔ノ憂患ヲ除ク事ヲ得夕ルハ真二長夜ノ夢ヲ破リテ初メテ曙光ヲ仰グノ感二堪ヘズ。
 沿道ノ地方一帯二於ケル諸般ノ事業是ヨリ応(まさ)二必ズ発達進展ノ実ヲ挙グペシ。豈(あに)欣快ノ至ナラズヤ。乃チ茲(ここ)二此事蹟ヲ録シテ厥(そ)ノ慶福ヲ記念シ以テ之ヲ不朽二伝フト云爾(のみ)。
                          大正十二〔1923〕年四月

『大田区史』(下巻、1996)によれば、中原街道はこの碑文の道路改修完成後も地域ごとに拡幅改修され、1935年5月には「現在の桜坂を抜ける中原街道にかわって、田園調布郵便局先から丸子橋に至る新中原街道が開通」したという。

桜坂については以前も触れ、あちこちで話もした。
上掲2行目の「沼部石川千束等ノ急坂、相前後シテ中間二起伏シ峻屹嶮難、往来ノ苦困名状スベカラズ」に関し桜坂の復習も含めて、いささか展開してみようと思う。

それはまた「洗足池」の創生ともかかわる話である。

collegio

鎌倉河岸

「腑に落ちない」ことはひとりひとり異なるだろうし、その持ち数もそれぞれだろう。
世の中腑に落ちないことばかり、と言ってしまえば「左様」で会話は途切れる。

面映ゆい、といった皮膚感覚からはじまって、歯が浮く、及び腰、腹芸・・・と数ある現代日本身体語のなかでも「腑」は身体奥部に属し、「納得できない」といったシリアスな表現の近縁にある。

さて、今回「腑に落ちない」のは以下のような記事である。

本橋左岸下流側に、江戸城建設の際に相模国鎌倉から運んだ木材や石材を荷揚げした河岸があり、鎌倉河岸と呼ばれた。付近の町は「神田鎌倉町」と名付けられ[1]、本橋も鎌倉橋と称するようになった。現在の橋は関東大震災の復興事業で架け替えられたコンクリート製アーチ橋で、1929年(昭和4年)4月25日に完成した。欄干には、1944年11月に米軍による爆撃と機銃掃射を受けた際の銃弾の跡が残っている。

以上はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉橋(日本橋川)の「歴史」からの部分引用である(20190605)。
中頃の「震災復興事業で架け替えられ」のところは論外(震災復興事業で創設)として、最後「銃弾の跡」はそれとおぼしきところを下の写真に撮ってきたので、そこは合格。

img_0638.jpg

本来は警視庁鑑識課の領分だろうが、この弾痕を計測して射出角度とその方向、衝撃力を算出する人はいないだろうかとも思うが、いま俎上に載せている問題は、引用文の頭から[1]の前までである。

まず「江戸城建設」だが、よく知られた江戸城建設者には太田道灌と徳川家康の二人いて、その建設時期には150年以上の懸隔がある。
どちらの事績を指しているのかあるいは両方を言うのか、この文では不明で、wikipediaの表現としては失格である。

[1]の出典にあたると「家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ・・・」(千代田区・町名由来板:神田鎌倉町・鎌倉河岸)とあるから、江戸時代初期のことらしい。

いずれにしても、「鎌倉橋」という名称が成立するためには、①鎌倉河岸→②鎌倉町→③鎌倉橋というプロセスが存在したと言う。
しかしそもそもの「鎌倉河岸」の地名由来は、千代田区サイトでは「鎌倉から来た材木商たち」、wikipedia「鎌倉橋」の項執筆者によれば「鎌倉から運んだ木材や石材」にちなむとしており、人間と木石では中身が大分異なるのである。つまりwikipediaの書き手が典拠を[1]以外に挙げ得ないとすれば、この記事は根本的なところで捏造を行ったことになる。

「鎌倉石」は凝灰岩質砂岩、軟質で加工しやすいためかまど石(竈・へっつい)などによく用いられた。
これに対し、安山岩の「伊豆石」は硬質であり、大型建設の石材に適していた。
江戸城建設に「鎌倉石」がどれほど役立ったのか、「腑に落ちない」理由のひとつはそこに発する。

しかしもっとも「腑に落ちない」点は、「鎌倉河岸」の地名発祥を両者とも家康江戸築城期と明記するにもかかわらず、確かな根拠を示し得ていないところにある。

鎌倉河岸の旧地は現在の千代田区内神田一丁目の一部である。
鎌倉橋の上流約230メートル、神田橋あたりをオリジンとした神田は江戸の「本家下町」で、一定規模以上の集落地神田エリアが「家康以前」から存在したことは、発掘報告書『一ツ橋二丁目遺跡』(1998年)にも明らかである。

江戸が鎌倉ともっとも強い絆で結ばれていたのは太田道灌の江戸築城以降、鎌倉扇ガ谷に本拠をおいた関東管領一族の上杉氏が健在だった時代である。
扇谷上杉家臣太田道灌は中世東国の都鎌倉に生まれ、鎌倉五山に学び、江戸に城を築いて後も本拠地は鎌倉にあった。
鎌倉には太田道灌の邸跡と称するところが残され、その墓すら存在する。

近世までは水運が物資輸送の基本だったことを勘案すると、鎌倉河岸地名の発祥は中世の江戸、日比谷入江最奥部に臨むのこの地にこそ相応しい。
ちなみに関東の一郷邑江戸にとってもっとも重要であった「上位の場所」は、上方・西国を除けば、古代においては武蔵国府(府中)、中世前半分は鎌倉、その後半期になれば小田原で、水陸のミチは各々の時期、まずもってその間を繋結するものであった。江戸城桜田門は、家康入府当時まで小田原門と呼ばれていたのである。

江戸鎌倉河岸が中世に遡る蓋然性については以上の通りである。

そうして鎌倉河岸地名起源に関する文献らしきものとして、『風俗画報』臨時増刊203号新撰東京名所図会神田区之部下巻之一(1900年〈明治33〉1月)の「鎌倉町は徳川氏築城の時鎌倉より取り寄せし石材を此の河岸より陸揚げせしをもって名くといふ。当時已に水路ありしことは長禄並に慶長七年古図に就て徴すべし」以外を見出すことができないのである。

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