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「ガード下」の話  その7

話の寄り道ついでに、渋谷駅東口地下広場の「構造物」の写真を示しておこう。撮影日は2024年3月10日、場所は地下1階 UPLIGHT Café前である。

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柱に支えられて天上側に少し曲線化した長めの構造物が取り付けられているが、これが「渋谷川のなれの果て」であって、前述のように大雨の時、下水幹線からの溢水すなわち雨水と汚水の混じった流れだけがこの中を通る施設である。渋谷再開発の余波を受けてこの東口地下広場も日々変貌を遂げ、2枚の広告板はまもなく取り払われた。Café前にはテーブルや椅子が並べられ一息入れるのに好都合だったが、それもなくなった。ただこの天井構造物自体が取り払われることは、しばらくはあるまいと思われる。

話を鉄道の高架部すなわちガードに戻そう。渋谷駅北に接する国道246号(旧大山街道)との交差部の大ガードの現在の姿は、下の通りである。

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西側からの撮影で、ガードの向うに見える超高層ビルは中央が渋谷スクランブルスクエア、左が渋谷ヒカリエ。宇田川はかつてはこの撮影位置から左へ流れ、合流する渋谷川はガードの向う側を、右へすなわち南に流れ下っていた。

渋谷駅周辺はどこも工事中で、このガードもその例に洩れず、工事用の白い板で覆われている。通常ガード下には中野駅の高架部写真にあるように(本項その2・その3)、「自動車等が衝突したのを見た方は、至急ご連絡下さい」というJR施設指令のお願いプレートが、ガード名と電話番号付きで張りつけてあるはずだが、工事中でそれも確認できないため、やむを得ず電話して問い合わせたが、音では正確を期し難かった。今尾恵介さんからの教示で「宮益河道橋」と判じた。

さて、この大ガードの北約90mには次のような小さなガードが口をあけている。

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このいかにも古い高架部の向かって左手、落書がなされているところには例のJR東京施設指令の「お願い」プレートが貼り付けてあって、「山手線(15)中渋谷ガード」が明記されている。この「中渋谷ガード」こそ、新たに敷設された宇田川の暗渠水路の跡で、竣工は「昭和初期」という(『「春の小川」はなぜ消えたか』p.186)。
ガードの形の古さからそれは頷けるが、本項その6の1955年図には高架部の記載はない。記号があって然るべき位置は縦の「神宮一丁目」の文字の「丁」と「目」の間の道が鉄道線路とぶつかる位置で、その先線路記号の右側に短い「ヒゲ」(築堆部:盛土部)の表記が消えているのは人道ガードの存在に配慮した結果だろう。ガード名の「中渋谷」とは、明治初期まで存在した上、中、下の渋谷村の名に因むと思われるが、確認できていない。

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上掲は1983年(昭和58)に編集作成された1万分1地形図「渋谷」の一部である。左上に細長い緑の四角で示されているのは「宮下公園」。今日では野宿者を排除して再開発された挙句、グッチやルイ・ヴィトンなどキラキラ品店舗の塊となってしまったが、ともかくも緑四角の左下角、「渋谷西部」百貨店のA館とB館の間を通ってきた道が鉄道下を抜けるところに、ごく短い縦線が描かれているのが、このガードである。
そうして国道246号(旧大山街道)のガードも同様に描かれてはいるのだが、細線のため等高線などとまぎれてそれと気づくのは難しい。戦後の「ガード下」の遺香は、至近の「のんべい横丁」(渋谷1丁目25番地。地図では「渋谷東急イン」左下、薄青数字「25」)に辛うじて漂うのみである。

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渋谷大ガード、正式名「宮益河道橋」は、この写真の奥に鎮座する。

ところで、2007年8月に施行された「地理空間情報活用推進基本法」は、紙地図駆逐の推進役となった。国土地理院の地図は基本的にデジタル情報に転化し、基本図の2万5千分1地図を除いて、紙の地図はつくられず更新もされないことになった。だから1909年以降都市部を中心として作成、更新されてきた1万分1地形図も作製最後期は2008年で、2021年の即位記念「東京中心部」は例外であった。
それでは2万5千分1地形図の最新版では、渋谷駅付近はどのように表現されているであろうか。

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上掲は1:25000地形図「東京西南部」2015年(平成27)調製図の一部だが、ご覧のように情報量は極端に少なくなるものの、駅前交番と記念碑(ハチ公像)とともに、国道246号とクロスする「高架部」だけはしっかりと記載されている。図の上辺、標高「27」の地点から左の郵便局記号(渋谷神南郵便局)に向かう道と鉄道の交差部にも高架部が記入されているが、こちらは「山手線(16) 上渋谷ガード」。

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小規模な人道に架した「中渋谷ガード」は、2万5千分1地形図では省略されたのである。

これらの地形図の表記に対して、現在もっとも利用されていると思われるGoogle Mapでは、広告収入を背景として店舗情報が氾濫する反面、ガードのような「地物」(ちぶつ)は微地形とともに、表現されることはおよそ稀なのである。

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「ガード下」の話  その6

主要街道と鉄道の交差部が踏切であったとは今日では考え難いが、明治期も中頃までは汽車の運行は1日に何本もなかったであろうし、立体交差(ガード)を設けるまでもなかったのかもしれない。
次に見るのは、1:10000地形図「三田」の1921年(大正10)第2回修正図の一部で、すなわち時代は大震災直前の渋谷駅周辺である。

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この図に至って、はじめて山手線の大山街道とのクロス部に「高架部」(ガード)の記号が付加された。宮益坂を下ってきた路面電車が、ガードをくぐって渋谷停車場に至る様も読み取れる。その一方で、本項その5の1909年図に描かれていた宇田川の流れとその上に架されていた「高架部」記号は、両方とも姿を消しているのである。その間の事情を『「春の小川」はなぜ消えたか』(田原光泰著、2011年)は以下のように詳らかにしている。

「(略)大正時代以降、流域が急速に宅地化しつつあった宇田川でも、渋谷駅前の渋谷川との合流点付近(写真12)でとくに大きな被害が生じていた。(略)こうした、川の断面積が狭いことや、渋谷川からの逆流に対処するため、宇田川を途中から分流させ、新たな水路を建設する計画がたてられることになった。/しかし、そのころすでに地価の高騰している渋谷駅周辺で、新たな水路の敷地を確保することは難しかった。そのため、川の北側のいくつかの道路敷を利用し、そこに延長480mの暗渠水路を新たに敷設することにした。そして、従来の宮益橋脇の合流点よりも90m上流の地点で渋谷川に合流させることにしたのである」(p.60)

言及されている宇田川の新水路の建設は1933年(昭和8)に始まったとも書かれているから、宇田川は旧水路を依然として流れていたのである。それが図から消えているのは川に「フタ」されたからで、同書の写真12(p.60)はそれを物語っている。しからば1909年図で描かれた宇田川下流のガードはどこに消えたのであろう。

上の図の路面電車の渋谷停留所付近に目を凝らせば、停留所から先(西側)の道幅が狭いのに気が付く。1909年図では、さらに宮益橋までの道幅が狭いのである。

都市の近世から近代への変容は、1(閉じた部分は)開く、2(狭い部分は)拡げる、3(曲がった部分は)真直ぐに、4(凹凸および急傾斜部は)平らに、の4つの側面で進行した。
宮益坂や道玄坂を部分としてもつ大山街道においても、上記2と4の施工が何度かのプロセスにおいて加えられた。つまり宇田川の下流は「フタ」をされ、とりあえずその分だけ道が拡幅され、同時に宇田川下流の高架部(ガード)が取り払われて、その部分を含めた新しい「大ガード」が架設されたのである。

上の図から34年後の1955年(昭和30)第5回修正測図の1万分1「三田」図では、

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「大ガード」はそのまま、ただし路面電車の停留所は90度曲がって現在のハチ公前広場に入り込み、その西には「5」の数値(上通三丁目5番地)とともに「立像」記号が記入され、「ハチ公」銅像の場所を示している。ちなみにハチ公像は1934年(昭和9)年につくられたものの戦時中の金属回収令で消えたから、ここに記載されているのは今も目にする2代目である。

渋谷駅東側の「東横」は今はなき東急東横店東館で、渋谷川が北から流れて来て「東横」の下をくぐって南下しているのが地図上でよくわかる。宮益橋は早くも姿を消している。現在では橋はもちろんのこと、水路も地上で目にすることはできない。1964年(昭和39)の東京オリンピックを目指し、汚水路と化していた渋谷川は1961年から下水道変身が急がれたからである。図に見える渋谷川は、現在では通常は水流なく大雨時のみ合流下水の溢水が流れる暗渠空間で、流路自体が変更され渋谷駅東口地下広場から超高層ビル(渋谷スクランブルスクエア)にかかる地下構造物として遺されているのである。
ちなみにこの地図に見える地下鉄線(銀座線)の地上部はいまでは地下化されている。路面電車はとうになく、東急東横線のターミナルは地下にもぐった。「渋谷スクランブルスクエア」は、旧路面電車停留所と東横線ターミナルの跡地に建設されたのである。

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「ガード下」の話  その5

ほぼ同じ範囲を、別の旧版地形図ではどのように描いているだろう。下掲は1万分1地形図「三田」の1909年(明治42)の一部である。

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本項その4で掲げた地図は1887年(明治20)、上の図はその22年後である。
渋谷川と大山街道の交差部には橋の記号が付され、その傍らに「16.8」の標高数値がみえる。この場合の単位はもちろんメートルである。左上「宇田川」の文字の右下は、注意しないと見えないがここにも橋の記号があり、それは道の北側に並行して流れ渋谷川に合流していた宇田川の細流に架けたものである。その宇田川とクロスする鉄道の両側には太い単線が2本描かれていて、『地図記号のうつりかわり』(日本地図センター、1994年)によればそれは鉄道の「高架部」(鉄)である。しかし、大山街道を越える部分には何の記号も付されてはいない。図描のみから判断すれば、前回内務省図で見たと同様、汽車は土手上を走ってきて宇田川を鉄橋で渡った後、大山街道を踏切でクロスしている。
ところが、この鉄道と大山街道のクロス部から南南西約1.5㎞、現在恵比寿駅の手前、駒沢通りと鉄道が交差する部分では、下掲のように立派な「高架部」(鉄)をあらわす線分2本が土手つづきに描かれている。ちなみに下の図と上の図は同一図のそれぞれ部分である。

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さらに下に掲げたのは2万分1迅速測図「内藤新宿」の一部で、1880年(明治13)測量、1891年(同24)修正再版。上掲2図から18 年遡るが、ここでも2つのクロス部が異なった図描であることを確認できる。一方は平面交差、他方は「橋」記号で立体交差。なお、「下渋谷村」の文字の北側、八幡通りと交差する部分も踏切である。

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およそ旧版地形図からだけ判断するに、大山街道と山手線の交差部は、鉄道開設からしばらくの間、踏切であったと考えざるを得ないのである。
また同迅速測図では「新宿停車場」の南北、甲州街道と青梅街道とのクロス部も平面交差すなわち踏切である。

文字記録や写真の裏付が欲しいところだが、ここでは地図史料での指摘にとどめておく。

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「ガード下」の話  その4

以前予告した通り、中野駅の次は渋谷駅の古いガードについて触れたい。

渋谷のガードを俎上に載せるきっかけは、去る3月21日に実施された日本地理学会春季大会における「巡検」(渋谷川・古川とその支流)の、学会誌報告のためであった。
どうしてもガードの固有名詞を調べる必要が生じたためである。

前にも指摘したが「ガード」とは畢竟鉄道のための「橋」で、ただし跨いでいるのは川でなく道路である。
そうして一般の河川橋と同様、ガードにも管理のために個々の施設(橋)には固有名詞が付され、台帳に登録される。
中野でもそうであったが、名称はガード建設当時の状況を反映して、古い字名を用いたバス停などとともに地誌や地形の証言者ともなり得る。
ましてガードは移動や廃止が稀である。証言するところの確実性は大きいのである。
まずは現在の渋谷駅の北側、宮益坂と道玄坂の間、旧大山街道、現国道246号をまたいでいるガードの名についてである。

渋谷停車場は1885年(明治18)、日本鉄道の赤羽‐品川間開通(所謂「山手」線)と同時に開業した。
もっとも停車場は現在より300mほど南の恵比寿駅寄りに開設されたのだがそれは措いて、旧大山街道を渡る部位は古い地図では以下の通りである。

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1887年(明治20)刊の内務省地理局5千分1「東京実測図」のうち「三幀ノ二」の一部、宮益坂とその坂下である。該当部分をさらに拡大してみよう。

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中央南北の線は渋谷川。棘のような記号(ケバ(毛羽)ないしハッチ(hachures)という)は斜面を表わし、大山街道以北は左岸に、以南は両岸に付されている。棘の太さは傾斜角を、その先端は傾斜の最大方向すなわち低位を指す。
「旗竿式」で示されている鉄道もその両側に棘の斜面記号をもつが、こちらは細い先端が外側を向いているから、線路は高位部である。河川の合流する低地部の鉄道は、盛土つまり土手の上を通されたのである。したがって図上南北に並行する2つの線条は、一方は凹部、他方は凸部なのである。
それらの線条に交差する道路の中央に記入された数値は、もちろん水準点の標高だが、その単位は「尺」である(尺単位の標高数値は戦前の内務省地図すなわち都市計画系図の特徴である)ことに注意されたい。

さて河川が合流すると書いたが、図の左手「956」の数字(これは標高数値ではなく所謂「地番」である)から合流するのは、渋谷川最大の支流宇田川である。また、南側から鈎型に延びるのは、三田用水から水田灌漑用に引水された細流のひとつで、盛土された旧大山街道の下をくぐって宇田川に合流している。その合流地点付近、不整形の区画の中に水平の線分が描き込まれているのは水田を示している。
小さな丸ないし点が沢山描き込まれているのは畑地である。そうして水準点値「50.9」の左側、渋谷川とクロスする街道部には2本の短い線が加えられ、そこに橋(宮益橋)があることを示している。それに反して、鉄道の盛土部が宇田川とクロスするところには特に何も描かれてはいない。しかし、小さな流れとはいえ鉄道が川を越えるのだから、そこは単なる盛土ではなく、何らかの「鉄橋」が存在したはずである。
さらに言えば、鉄道は宇田川とともに大山街道を越えるのだが、そこには何の記号も付されていない。図描と読図のかぎりでは平面交差ということになるが、土手上を走っていたのが路面に下りてくるとは、余程低い土手だったに違いない。

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ご覧の通り、「茶房」はゴールデンウイーク最終日の昨日その2期目を終えた。
昨年12月23日の当ブログでも紹介したが、第1次「茶房」(早稲田文庫)を懐かしむ筆者にとってはまことに感慨深いものがある。
第2次「茶房」(武蔵野文庫)オーナーの日下氏は小・中・大と同じ学び舎にあって学年は1つ上。昨年後期高齢者の域に入り、引き際を考えていたのだろう。「もう辞めようと思うんだ」と打ち明けられた当初お店のこととはつゆ知らず、てっきり「酒」だと思って「それはよかった」と言ってしまったのは相手の機微に疎い証拠であった。
冒頭の葉書は300枚つくって200枚郵送したらしい。このゴールデンウイークの間は、客が絶えなかったという。

何事もはじめと終りがある。有終の美という言葉もある。こちらは倒れるまで歩みを止めるわけにはいかないが、直接客に向かう仕事はそうもいかないだろう。
39年間だから、吉祥寺のカフェとしてはよほどの老舗である。「有限会社」にしていたとは知らなかった。3期目の店を継ぐ齋藤園佳氏は銀行の紹介という。その人となりについて日下氏は詳しくは知らないらしい。ただし井伏鱒二の額なども、当面は貸与のかたちでそのまま、店もメニューも、しばらくは変わらないようだ。

早稲田時代の「茶房 早稲田文庫」の記念に、昨日日下氏から譲ってもらった第1次「茶房」オーナー富安龍雄氏手づくりのマッチ箱のラベルと「茶房 早稲田文庫」の絵葉書封筒(モノクロ写真葉書5枚入)を以下に掲げる。

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「ガード下」の話  その3

前述のように、中野駅周辺の地形は人為的に大きく変容した。

一般に、近代都市における人為的地形変容の第一は平坦化と緩傾斜化である。その手法は、切土と盛土(埋立)を基本とする。そうして、本ブログ「桜と川底 ―神田川豊橋から」(2024・4・5)でも指摘したように、ダンプカーや重機などの土木モータリゼーションが一般化する以前は、切土と盛土はほぼ一体のプロセスに収められ、出現した土砂は至近の作業に用いられたはずである。

中野駅南側が広く削平されたのは、桃園川の谷地形と整合させるためであった。だから削平土砂は谷の盛土として利用されたはずである。1929年(昭和4)修正測図の左下、「中野駅前」の「前」の字の左で等高線が一部消えているのは、谷が緩傾斜化され新開道路下には盛土が為されたことを示しているだろう。

さて、次の写真は1972年(昭和47)刊『中野区史 昭和編』46ページに掲載された「戦争直後の中野駅北口」である。キャプションにはつづいて「強制疎開の後のあき地にマーケットが建ち並び始めた(昭和20年ごろ)」とあるが、写真を見るかぎり「あき地に」は不適切で、ただしくは「あき地下に」でなければならない。

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ぼやけたモノクロ写真だが、中野駅北口の東側(左)と西側(右)の間に垂直な段差があり、強制疎開された東側の高位部と、屋台のようなマーケットと人並が写る低位部を明確に分けているのがわかる。現在の北口にはこのような段差は見あたらない。そのかわり、下の写真のようなスロープ地形が認められるのである。

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念のため述べておくと、この写真右側の線路とホームのある高位部はかつての地表面で、撮影位置は掘削されてできた人為地形の凹部である。

上の2つの写真から推理できるのは、中野駅に北口広場を設けるため戦後に強制疎開地の一部を収用し、切り通された中野通りとその付属地の凹部に整合させるように削平、かつスロープ化したというプロセスであろう。北口広場の削平は戦前に行われた南口のそれに合わせるように実施された。つまり現在の北口と南口の改札が平面で一直線化している状態は、戦後誕生したと考えられるのである。

「ガード下」の話が駅前広場にまで発展してしまったが、中野駅のガード話の最後に、地図にみられるもうひとつのガードに触れておこう。本項その1とその2で掲げた2つの地図の右端に、鉄道線に南北に交差する道路が見える。
その1つまり1909年図ではそのあたりの線路の南側に斜面記号が付され、鉄道敷設にあたって盛土されたことが分かるが、道路とは平面交差ですなわちそこは踏切である。しかしその20年後の図では、中野通りのガード同様のアンダーパスとなり、道は交差部の南側から削平されたことが斜面記号でわかるのである。
この交差部の北側は1909年図で明確なように、谷底に水田を伴った谷戸川の谷であった。それが20年後にはまったく宅地化されてしまう。区画整理も耕地整理もないにわかづくりの宅地でも、斜面は切り崩され、水田跡は幾許かの盛土も為されただろう。平面でなければ家は建たないからである。等高線が自信無げに消えかかっているのは、そのことを示しているように思われる。

さて、中野駅東のアンダーパス・ガードの現状は下の写真(線路の南すなわち高位側から撮影)で、その名前はさらにその下にあるのように「新井道」という。

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上の写真では、左手すなわち西側が切り通しの石垣となっているのに注意されたい。

下の写真で「中央緩行線(43)」の「緩行線」と「43」の意味が気になるが、掲示板の「JR東日本 東京施設指令」に問い合わせるのも気が引ける(かつてガードの名称を電話で訊いたことがあるが、理由を聞かれたり回答までに何度もやりとりしたりして結構面倒)ため、ここでは中野通りのガードが「中央緩行線(44)」で「新井道」のほうが若いナンバー、かつほぼ同時に造成、設置されたであろうことを指摘するだけにしておく。

それよりも重要と思われるのは中野通りのガードが「新井」、こちらは「新井道」とされていることである。「新井道」とはここから約1㎞北の「新井薬師」への参詣道の意であろう。この道は南西約2.9㎞に所在する堀之内妙法寺をつないでもいて、「中野通り」よりはよほど古い道なのである。

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「ガード下」の話  その2

前回の地図をみると、中野停車場の改札は線路の北側に置かれたようだ。ただし駅舎は南側である。改札を出れば目前は「電信隊」の正門。電信隊に用なく、そこから南東約1.7kmに所在した青梅街道沿いの中野町役場に向かうには、改札を出て左手を踏切で越え、停車場南側の新興商店街を抜けなければならない。
甲州街道と中野町役場はこの地図の範囲外で、南に接する「中野」図幅に描かれている。前図のタイトルが「新井」であるのは、1889年(明治22)江古田村などとともに野方村に統合された新井村には「新井薬師」で著名な梅照院が所在し近隣には花街も形成されていて、村名(野方)よりも「新井」の名のほうが地域名として広く認識されていたからであろう。現在では鉄道駅名が地域名を代表するようにもなっているが、当時「中野」は青梅街道の宿駅名として認識され、街道沿いの町場が繁華だったのである。

さて、問題は現在の中央線中野駅「ガード」である。
中野駅のホーム下にガードが所在するのは、線路が持ち上げられて高架にされたのではなく、その下を通る道路一帯が掘下げられたからである。
次の図を見ていただこう。1:10000地形図「新井」の1929年(昭和4)修正測図(空中写真測量。1931年部分修正)の一部である。

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駅の西側には中野通りが南北に通り、線路との交差部に頭合わせで1対の半円記号が付され、アンダーパスであることが明示されている。すなわち平坦な段丘面は、新しい南北道路のために掘下げられたのである。それだけでない、駅南側の中野通り両側には内向き2条の「斜面」記号が新たに付け加えられ、下辺の桃園川の谷壁を示す等高線部まで続いている。中野通りは線路下を切り通すと同時にその南側も広く削平し、桃園川の谷にゆるやかにつながるように駅南側の地形が人為的につくり変えられたのである。また駅の改札は南口にも設けられたと思われ、南口から中野通りに出る小道がつくられているのも読み取れる。
しからばこの「立体化」はいつ為されたものであろうか。一般的には、積極的な都市大改造の契機となった関東大震災(1923年:大正12、9月1日)の復興事業においてであろうと考えられる。しかし、次の文章をご覧いただきたい。

中野駅まで行くと、駅のすぐ先の線路がブリッジになって、鉄橋だから這って渡るかどうかしなくては難しいように見えた。相当の高さのガードである。この場所は以前には踏切になっていたが、ちょっと前の道路工事で線路の下に広い道を通したので、踏切がガードに変じたわけだ。高田馬場のところのガード、新大久保のガードなども、最近までは路面に続く踏切であった。

これは井伏鱒二(1898‐1993)の『荻窪風土記』の第2章「関東大震災直後」の一節である。著者は「七日になれば中央線の汽車が立川まで来るようになる」と聞いて、郷里の福山(広島県安那郡加茂村)に帰ろうと大久保駅から線路伝いに立川駅まで歩いたのである。この後を読むかぎり、立川から塩尻経由で名古屋乗り換え、3日ほどかかって無事福山に着いたようだ。
結論を言えば、中野駅の「ガード」ができたのは大震災直前、上掲地図の6年ほど前だったのである。個々のガードには、橋梁同様、保守のために固有名詞が付される。下の写真のように、中野通りのガードは「新井ガード」という。

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中野駅の南北は中野通り開削を通じて新たな地形が創出された。すなわち、自然地形の①段丘面、②開析谷壁、③開析谷底のほかに、人工地形の凹部が加わったわけである。
インターネット閲覧可能な国土地理院の「数値地図25000(土地条件)」の中野駅周辺部では、当該人工地形は薄茶色によって示され、それは凡例の「凹地・浅い谷」に該当する。凡例には「人工地形」の項もあるが、それは「農耕平坦化地、切土地、高い盛土地、盛土地・埋立地、干拓地、改変工事中の区域」の6目のみであって、残念ながら人工的な削平・切土地は示されない。
埋立・盛土にくらべて切土は地盤的には安全性が高いことによるのだろうが、概念としては切土も人工地形である。地形の生成を閲したい向きにはこの凡例記載は残念である。ちなみに、土地条件図の初期整備版(紙の地図「1:25000土地条件図 東京西北部」1981年印刷)では、この中野駅西側南北にひろがる人工凹部微地形はまったく無視されているのである。
(つづく)

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「ガード下」の話  その1

先々月21日に亡くなった宮城まり子(1927 - 2020)が歌った「ガード下の靴磨き」(宮川哲夫作詞・利根一郎作曲)は、曲も詞も冒頭だけは憶えている。4拍子のスローテンポで、「紅い夕陽が ガードを染めて ビルの向うに 沈んだら」である。
1955年の大ヒット曲だが、それから8年後の1963年には「赤い夕日が 校舎を染めて 楡の木陰に 弾む声」(丘灯至夫作詞・遠藤実作曲)が大ヒットした。こちらはアップテンポ、舟木一夫(1944‐)歌う「高校三年生」である。
歌詞はいずれも「七・七・七・五」で、しかも初めの「七・五」の構図ほぼ同じである。ただし舞台景はくろぐろとした焼け跡風景から、「楡」の緑蔭を背景とした学園に転位した。まことに流行歌は、時代のマジョリティを写す鏡である。

今日顧みるに、都心の街角に夕日が射し込んでいたのは1960年代までのように思われる。しかも昨今目にする夕日は、5月はじめだから黄砂が原因と思うが、とろけたチーズのような色合である。「夕焼け」は夏の季語とされるが、幸いなことに「夕日」は季語とは無縁である。だから上記二つの流行歌は季節が特定されているわけでない。しかし黄砂現象は歴史以前から日本列島の春を襲っていたから、赤い夕日のシーンは春ではない証拠である。

しかしここで取り上げたいのは夕日や街の風景ではなく、ガードという存在についてである。それはわれわれにとっては轟音を伴う鉄の建造物で、低く暗く、時に雨水したたる記憶と結びついている。
「ガード」とは不思議な言葉である。ネットをいくら調べても「guard:防護」しか出てこない。それもそのはず、ガードの語源は英語の girder(ガーダー)で、そもそもは建築用語、けた(桁)や 大はり(大梁)を指すものだそうだ(『日本国語大辞典』)。ガードは明治期も終わり頃から、鉄道高架橋を指す言葉として使われだしたらしい。しかし鉄道用語としては、この施設のただしい呼称は「高架橋」である。ということは、つまるところガードは「橋」なのである。それも鉄道用の橋なのだが、河川を渡るものは別して「鉄橋」と言う。したがって日本語の「ガード」は、人間や車が通る道の上に架けられた鉄道用の鉄の橋の謂いである。

今回取り上げるガードは都区内の2か所、中央線中野駅のガードと山手線渋谷駅のそれである。まずは中野駅のガードから。

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上掲は中野駅の西を南北に通る中野通りのガードを、駅北口広場側から撮った写真である。
ご存知のように、現在中野駅とその近辺は再開発の真最中で、駅前北口の中野区役所はこの5月7日に約200m離れた新庁舎に移転するし、その東隣の中野サンプラザはすでに昨年7月閉館、解体と再開発の待機中である。また中野駅そのものにも鉄骨が立ち並び地面が掘下げられ、巨大な変容を遂げようとしている。

先月4回にわたって行った早稲田大学エクステンションセンター中野校の講座「東京の微地形」シリーズの第14回目「中野区の微地形」は、旧野方町エリアと旧中野町エリアの2つに分けた屋内講義と屋外巡見の交互形式で、「ガード」を取り上げたのは第2回目の巡見時であった。中野通りの「ガード」脇の中野駅北口広場を集合場所として、出発冒頭にまず解説したのはその北口広場の微地形についてである。
先に行った屋内講義では、自然地形上中野区内のいかなる場所も①段丘面、②段丘開析谷の谷壁(こくへき)、③段丘開析谷の谷底(こくてい)のいずれかに分類されることを説明したのだが、しからばこの北口広場はいずれに該当するかとまず設問を提示する。

その際想起してもらったのは、中央線の前身である甲武鉄道が敷設された1889年(明治22)当時の光景である。
新宿以西の停車場は、中野、境(現在の武蔵境)、国分寺、立川、そして八王子の5箇所で、改札もそれぞれ一箇所あるかぎりだった。線路は今日のような高架ではなく、基本は地表すなわち平坦な段丘面に敷設され、一部分が土手や切通しとされたのみである。既存の道路とは、平面交差つまり踏切が普通であった。中野停車場も例外ではなく、線路とホームは平坦な地面すなわち段丘面に敷設され、北口におかれた改札も同一面にあった。
当初「ガード」は存在しなかったのである。

下掲は1:10000地形図「新井」の一部で、停車場開設当初から20年後の1909年(同42)の様子である。

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上の地図の左側、「なかの」停車場は現在の中野駅とほぼ同じ位置である。中央線の北では桃園川の支流谷戸川の谷が水田を伴って東に向かい、中野停車場の南、図の下辺、等高線の集中は桃園川の谷壁(こくへき)で、谷底(こくてい)には水田も健在である。左上「電信隊営」の敷地を囲んでいるのは「土囲」(土手)をあらわした記号で、崖ではない。また、停車場の西側で線路と踏切で直交しているのは現在の中野通りではなく、その西側の細い商店街にあたる路地で、「中野通り」はまだ存在していない。
すなわちここに示されている「地形」は、ゆるく東に傾斜した平坦面(段丘面)とそれを開析する谷の斜面(開析谷壁)、そしてその谷底(水田)で、鉄道線路は平坦面を走っている。

そうして、この地形図の図幅名が「中野」ではなく「新井」であることに注意されたい。また駅前集落も、生類憐み犬小屋囲跡軍事施設をあてこんだにわかづくりの家並であることがわかるだろう。
(つづく)

collegio

桜と川底 ―神田川豊橋から

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2024年4月4日、後期高齢者となって第二日目。
早稲田大学エクステンションセンター中野校の春の講義(23区の微地形の第14回目「中野区の微地形」)第1日目の後、事務局から発行してもらった図書館カード交付申請書をもって本校図書館へ。
約半世紀前、4年間学費を納めたものの中退者には図書館の利用権なく、オープンカレッジ講師の資格でようやく1年ごとの利用が可能。
それも公共図書館ばかりでは仕事にならないので、致し方ない仕儀。

発行まで15分かかるというので、約半世紀前の濃厚な記憶が固結しているグランド坂下路地の「志乃ぶ」(おでん屋。午後5時過ぎで開店しており、教員らしい何人かの男の顔がカウンターに見えた)前から都電の終点を抜け、神田川の豊橋に向かったが、神田川の両岸は桜開花真最中。
とくに右岸は新学期らしく外国人も含め多くの人がそぞろ歩き、桜並木にカメラを向けていた。
上下掲はそれから仲之橋まで撮りながら時間をつぶしたうちの2枚。

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豊橋の上から川底を見下ろす。
「早稲田」の地名が示すように、このあたりの神田川両岸は水田地帯であった。
神田川はその灌漑および排水路とされていて、水流は細流分岐していた。
5万分1はもちろんのこと2万5千分1や2万分1でも、旧版地形図の河流は「総描」の結果であり、水路すべてが描かれているわけではない。
また稲作の水面も、地表とはそれほどの高低差をもたなかったはずである。

下の写真にみえる現在の深い川底(橋桁から5~6m下)は、近代以降このエリアの宅地化の進展に伴って加えられた洪水対策の結果である。
流路を直線化し、かつ掘下げるのは河川改修の常道で、震災復興事業の一環として行われたのが主だったはずである。

以上は実証抜きで言うのだが、下の写真(豊橋上から上流を撮影)で河床に露出しているのは約100万年前に形成された上総層群で、砂泥が半固結した柔らかい海成層。
これは早稲田大学の久保純子先生(自然地理学・地形学)にお聞きしたことだから、確かな話である。

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付け加えれば地表面から数メートル下の川底ではあるけれど、だからと言ってその分すべて掘下げられたわけではない。
土木工事で出た土はどこかに処分しなければならない。
搬出と敷置の労度すなわち経費は、掘削同等と言えないまでもけっして侮れるものではない。

国土地理院の「数値地図25000(土地条件)」をインターネット閲覧すれば、ここ神田川両岸一帯は「人工地形」で、それも「盛土地・埋立地」である。
つまり掘出された川底の砂泥や礫は、即刻近隣の盛土に用いられたと考えるのが妥当である。

日本地図センターが1984年に複製発行した「五千分一東京図測量原図」36面のうち、1883年作成の「東京府武蔵国北豊島郡高田村近傍図」に見える現在の豊橋付近の畦道の標高は(複製の精度が悪いため数字を読み取るのが困難だが)、判読すれば7.8mかと思われる(図はスマホアプリの「東京時層地図」にも収録されているが、精度はさらに劣化していて標高数値は判読も困難)。

現在の標高値は8.4m前後だから、畦道から水田の底までの差を考えると土地は1m弱かさ上げされたと考えられる。つまり掘下げ深度は「数メートル、マイナス盛土分約1メートル」となる。盛土は1m弱だが、氾濫時を考えれば、その高さのもつ意味は大きい。
もちろん川幅は両岸水田地帯よりずっと狭いから、掘削の深さと盛土の高さはつり合わない。しかし切土と盛土は、一定範囲の場所での土塊の転位という形で為されるのが合理であることは、間違いないのである。

collegio

前期高齢者最終日の桜

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2024年4月2日 野川鞍尾根橋付近

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