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あらすじ演習  summary training

「歩く・読む・書く」と「知の基層」
〝石の上にも3年〟は人口に膾炙した諺だが、当方の場合3年目にしてようやく自分なりの方法がつかめたかな、というのが正直なところである。大学での授業の話である。在籍したことはあるものの、授業にはほとんど出席することなくそのまま出てしまったものだから、そもそも大学の授業とはどんなものだったかあまり記憶にない。

その後の行きがかり上、出版のなかでおもに古い地図に関わる仕事をしてきた。この間の経緯は、本にも書き(註1)、別の本の出版を契機としたラジオ番組で30分ほど話をしたことがある(註2)から省略するが、いずれにしても地図や古地図、地形や古環境を相手としてきたため、社会教育の場ではよく話をする機会を与えられ、またある大学の公開講座で10年近く毎月屋外講座の講師もつとめてきた。しかし正式に大学の教員になるとは思ってもいなかった。

当時東京経済大学コミュニケーション学部の学部長をされていた川浦康至先生から、客員教授へのお声掛をいただいた。少し考えて、学生というよりは自分の学びの機会とかんがえて請けることにした。担当する授業タイトルには〈歩く・読む・書く〉を冠した。これは特別講座一コマのためのものだったが、その後思い直して私の3講座(表現と批評、地域文化論、地図のメディア学)すべての主旨とした。着任したのは3年前の春である。研究室の机の引き出しを開けると、残っていた書類がいくつかみつかった。それで前任者は春風亭柳橋(八代目)さんだとわかった。「日本語ワークショップ」ほかを担当されていた。

招聘にあたっては、授業の3分の1以上は学生を屋外に連れ出してほしいと依頼され、そのために二コマ3時間続きの講座を、年間を通じて担当することになった。その結果学生から「お散歩の授業」「散歩の先生」と言われるようになった。そのこと自体は悪いことではないのだが、当初それがどれだけ学生の根源的な「学び」に結びついているかどうか、疑問でもあった。

だから2年目からは3講座すべての授業の最初に自学用「課題図書リスト」を示し、授業の履修内容とその週読んだ本の計二種類のレポートを手書きで毎回提出することを課し、当方はそれに赤字と評価ポイントを記入して返却しつつ次の授業に生かし、またポイントを積算して期末の成績評価とすることにしたのである。「歩く」はいいとして、「読む・書く」を恒常的な課題とすることで、前任者の仕事の一端を引き継ぎ、また「表現と批評」の前提となる「知の基層」を養成したいと考えたからである。
ネット時代の読書と「あらすじ演習」
「課題図書リスト」は、《大学生でも、大人でも「基礎読書200」》として示した(註3)。そこに示されたA・B・Cそれぞれの枠から一学期内に最低四冊、計12冊を選んで毎回レポートを書き、また授業でも「発表」してもらうのだが、そのうちいろいろな問題点が見えてきた。ひとつの例を挙げれば、レポートに書かれた「あらすじ」が似ているか共通するという点である。これはネット社会の功罪の罪の側面であって、疑いだせば本当に本を読んできたのかどうかも怪しくなる。ネット時代は、「読書感想」すら容易に他人の言葉を借用し得るし、そもそもネットに充満する情報そのものが真偽玉石混淆である。

あらすじ書きは、結構な頭脳労働である。だから本を読んだとしても既成のものに寄りかかりたくなるのだがそれでは「学習」にならないし、虚偽を再生産することもある。逆に言えば、あらすじを書く行為は、それが自力で行われる場合は、結構な頭脳のウェイトトレーニングになり得るということである。
こうして「あらすじ演習」summary trainingは開始された。すなわち毎回、数十分で読み切れると思われる短篇の全部ないし長編の一部を選び、その場で読んでもらって、400字詰め原稿用紙にあらすじを書いてもらうのである。その前に、あらすじとは何か、どんな種類があるか、どのように書くべきか、といった概論とガイドラインを示しておく。あらすじは出来た順から見せてもらい、それを返しつつ全員書き終えた頃にセクションごとに検討する、という手順である。時間がなくて、あらすじ書きを回収するだけ、または次回提出、という場合もあるが、この時ばかりは書かれたものは千差万別である。

このあらすじ演習は、小学校の「朝読」(朝の読書運動)にヒントを得たもので、いまどきの大学生は小学生よりも本を読まない、という定説を逆応用したものだが、20歳になろうかという学生たちがその場で読んで、それなりに「学び」「感じ」てもらうテキストに定番があるわけでもなく、季節や前回次回の授業との関連も考えるとそれを選ぶのはなかなかに難しい。言うまでもないが、長篇のあらすじの書き方と短篇のそれとは異なるのである。しかしまた、短篇から発して、関連する文献や地図、映像作品などを授業に用いる場合もある。それらがうまく結び付いた展開となったときは学生の反応も浅くない。

さて、ネット社会であるからこそ「読書」は〝教育として不可欠〟であり、モノとしての「1冊」の本を手に取って読む、という行為は「教授」されなければならないと考えている。「基礎読書200」のリストはさらに精選加除して《基礎読書100》として更新した。

授業時間内に読んで書く「あらすじ演習」と、このリストから選んで授業時間外に読みレポートしてもらう「1冊読み」とは、いわば車の両輪である。そうしてこの〝大学生の読書教育〟は試行錯誤の途上であり、つまりは始まったばかりなのである。

註1 芳賀啓『地図・場所・記憶』2010年5月初版、けやき出版。
註2 ラジオ番組は、2013年9月22日放送、TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」ゲストdeダバダのコーナー。その契機となった本は『古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』(2013年7月、二見書房刊)。
註3 芳賀ひらく「大学生の読書スタート」『季刊Collegio』No62、2016年夏号。

(『季刊Collegio』No.65、2017年夏号) 

偶然のなりゆきから出版と地図の世界に入りこんで44年、その延長に近年「お散歩の先生」や「崖博士」といった渾名を頂戴するに至ったのですが、元来研究者でもなく、数冊の著作はあるものの学術書とも言えずエンターテイメントでもなし、諸雑誌への連載や寄稿、書評もどちらかといえばエッセイの類でしょう。

しかしながらこれまた思いもかけず本学教員の末席に連なって、はや2年半目。さらなるサプライズは当コラム二番手として堺学長のご指名を頂戴したこと。そろそろ自分の「研究」をきちんとまとめなさいという督励でしょうか。

とまれ、私の「研究」らしき痕跡は、日本国際地図学会(現日本地図学会)機関誌『地図』に「東京の旧版大縮尺地図とその利用について」を報告(Vol.43,2005)、同誌に「地図と古地図の狭間」と題した特別講演記録(Vol.49-2,2011)が掲載、さらには「井上ひさし氏にみる作家の方法 ―地図・年表・名鑑」という短報を投じた(Vol.49-1,2011)程度です。

一方、2016年朝倉書店から刊行予定の『地図の事典』への執筆依頼が、同学会会長森田喬さん以下何人かの編集委員の連名で届いたのはたしか2014年の秋頃だったと思います。その全体構成や項目一覧があまり感心したものではなかったので「本が出来たら書評を書くから」と一旦は断ったものの、結局「想像地図」「場所の記憶としての地図」「地図帳の歴史」「(地図の)個人コレクション」の4項目については引き受けざるを得ず、調査にひと夏かけて脱稿、締切の2015年9月には出版社に原稿を送ったもののいまだ音沙汰ありません。けれどもジテン(「事典」「辞典」「字典」)という「権威」ある(べき)出版形式にふさわしいように、限られた文字数のなかに凝縮した内容と新しい知見を盛り込んだつもりですから、これも私の「研究」の一環と言っていいでしょう。

いずれにしても、この「来し方」は膨大な文献精読と批判の上に構築される建造物のような「研究」にはほど遠いものがあります。本学での講義のすべてに《歩く・読む・書く》を掲げている私の「研究」の流儀は、「業績」であるよりは学術のエッセンスを身体的行為へブリッジするその過程にある、と強弁したいところですが、最近邦訳成ったRebecca SolnitのWanderlust –A History of Walking(2000年。邦題『ウォークス―歩くことの精神史』2017年)を見ると、そんな言い訳は吹っ飛んでしまいます。

2008年施行の「地理空間情報活用推進基本法」以降、すべての地図がデジタルに置き換わりつつある現在、「場所の証言」としての紙地図、とりわけ1910年頃から日本列島そして朝鮮半島の主要都市域について作成されてきた1万分の1地形図の存在は重要です。その記憶(記録)を掬い(救い)、伝えていく「研究」こそ、私に課された宿題かなと思っているところです。

〔『東京経済大学報』2017年10月掲載、教員リレーコラム第2回。コミュニケーション学部客員教授 芳賀啓〕

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地図と権力 その3

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J・B・ハーリーの「地図と知識、そして権力」全15節(序節、第1節・理論的パースペクティブ、第2節・地図の政治的コンテクスト、第3節・地図と帝国、第4節・地図と国民国家、第5節・地図と私有財産権、第6節・権力の行使における地図内容、第7節・意識下の幾何学、第8節・地図における沈黙、第9節・表象のヒエラルキー、第10節・権力の地図学的シンボリズム、第11節・絵画における地図、第12節・地図装飾のイデオロギー、第13節・象徴としての地図的「事実」、結論・地図学の陳述内容とイデオロギー)のうち、いくつかにはエピグラフが添えられている。

序節冒頭は、クリストファー・マーローの『タンバレイン』第2部から

地図をかせ、あとどのぐらいのこっておるのか見たいのでな、
全世界を平定すrのにはじゃよ、・・・・・
ここからじゃよ、わしがペルシアに向けて進撃を開始したのは。
アルメニア、そしてカスピ海へと、
そしてそこからビチュニアへ、そこでわしはぶんどったのじゃよ
トルコとそこの畏き女帝どのの囚われ人たちをじゃ。
そののちわしはエジプトへ、そしてアラビアへと進撃した、
そして、ここはじゃ、アレクサンドリアから遠からぬところでな、
本土と紅海との出合いが、
百リーグにもならぬ距離じゃから、
わしは両地を結ぶ水路を切り開くつもりじゃった
家来どもがインドへ向けて速やかに航海できるようにと思ってじゃよ。
そこから、ボルノ湖の近くのヌビアへ、
引き続きエチオピア海に沿って進み、
南回帰線も越えた、
わしはザンジバルに達するまでのすべてを平定したのじゃよ。

第2節の頭には、プーシキンの『ボリス・ゴドノフ』から

皇帝
 息子よ、何をそんなに熱中しているのだ。これは何だ。
フョードル
 モスクワ大公国の地図ですよ。僕らの王国が
 まるごとわかりますよ。見てください、父上、
 ここがモスクワ、
 ここがノヴゴロド、そこがアストラハン。
 そこは海ですよ、
 ここがペルミの原始林、
 そして、そこがシベリアです。
皇帝
 では、これは何だ。
 曲がりくねったものが跡をたどっているのは。
フョードル
 それはボルガ川ですよ。
皇帝
 いや、これは素晴らしい。素晴らしい成果というものだわい。
 学問のなあ。
 これでは、まるで雲の上さながらに、一眼で見下ろせるというものだ。
 我らが国土全体を、境界も、町も、
 川も。

第6節にはF・G・ハットン『グッドモーニング、ダウ先生』が

「それは同じ地図なんですか?」と、ジンシーは尋ねた。彼女は、ダウ先生の後ろにある黒板の上の、この夏のために取りつけて吊るされている大きな世界地図を指さした。「中国はやっぱりオレンジ色なんですか?」「これは新しい地図よ」とダウ先生は答えた。「中国は紫よ」「私は古い地図のほうが好きです」とジンシーは言った。「私は古い世界地図のほうが好き」「地図作りは液体のように変わりやすい芸術なのよ」とダウ先生は言った。

第10節はG・K・チェスタートン「教育の歌 11地理学」から

地球とは、英国のみつかるところ、
いかに地球儀を回そうともそれは見つかる。
そこを示す場所はすべて赤くて、ほかはすべて灰色だから、
それこそが全英祝日の意味なのだ。

以上4エピグラフである。

しかしながら、「地図と権力」の記述にもっとも相応しいエピグラフは、実は日本語の文学作品に求めることができる。

あらたに三重の×印の家を三つ、二重の×を四つぼくはつくった。刑の執行をおえた家には斜線をひいて区別した。物理の法則にのっとってぼくの地図は書きくわえられ、書きなおされ消された。ぼくは広大なとてつもなく獰猛でしかもやさしい精神そのものとして物理のノートにむかいあった。ぼくは完全な精神、ぼくはつくりあげて破壊する者、ぼくは神だった。世界はぼくの手の中にあった。ぼく自身ですらぼくの手の中にあった。

中上健次の「十九歳の地図」(初出『文藝』1973年6月号)の一部である。
主人公は一人暮らしの新聞配達予備校生だが、物語の筋はここでは紹介しない。
短篇でもあり、文庫にもなっている(映画にもなった由)から興味のある向きは読まれるとよい。
しかしながら、人間の地図的認知の「構造」に関して、これほどみごとな、本質に迫った「陳述」(ステイトメント)は、寡聞にして他に知らない。
地図的認知そしてその想像力は、権力というよりもソフィスティケートされた征服的暴力と言っていい。
地図の絶対的な垂下視線は、そのまま爆撃視座にすり替え可能である。

地図は鳥瞰図ではない。
地図に「彼方」は存在しない。
地図は見下ろすところすべて「足下」である。
それは無数の垂直視線によって維持された、架空の視座なのである。

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地図と権力 その2

「地図は、非人間的な知識として、地図が表す領域を「脱社会化」する傾向がある。そのような地図は、社会的に空虚な空間の概念を育む。地図のもつ抽象的な性質は、現代のコンピューター地図学の画像にも、15世紀のプトレマイオスの平面図の経緯線にも形体化されているが、景観の中にいる人間についての良心の負荷を軽減してしまう。権力の行使に関わる諸々の判断は、直接に頭をつき合わせる接触の世界から切り離されることになる。/これらの考え方は、歴史的なコンテクストの中で、さらに探求される余地があろう。歴史家と同じように、地図製作者は、眼に見える景観の中で権力の編成が顕現化するのを記録する際にも、また社会において権力の編成が定義される際にも、常に修辞的な役割を果たしてきた。表象の政治的意義を無視するような地図の歴史学は、「非歴史的な」地図学へと自らを追いやってしまうことになる。」(出典前掲)

前回につづいて、J・B・ハーリーの「地図と知識、そして権力」の末尾を上掲する。

この文章が収録された書籍The Iconography of Landscape の刊行は1988年だが、その予言的正鵠性には、あらためて驚くべきものがある。

イラク戦争(2003)から今日につづく無人偵察攻撃機(UCAV〈Unmanned Combat Aerial Vehicle〉)の 「グローバル」な跳梁は、人間の認知装置としての地図の「非接触性」ないしは「ゲーム性」の直接的帰結である。

「地図的認知」は、その生成と原理において「権力性」と不可分である。
このことに無自覚のまま、能天気な表現とテクノロジーの系をモノマニアックに回遊するばかりであれば、「地図言説」や「地図学」はついに遊びであり、自覚はされずともその姿形は幼児的「奇形」なのである。

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地図と権力

1987年にJ・B・ハーリーとD・ウッドワード篇のvol.1が刊行された大冊The History of Cartographyの構成は変形ながら以下の6巻である。

Volume 1:Cartography in Prehistoric, Ancient, and Medieval Europe and the Mediterranean.
Volume 2, Book 1:Cartography in the Traditional Islamic and South Asian Societies.
Volume 2, Book 2:Cartography in the Traditional East and Southeast Asian Societies.
Volume 2, Book 3:Cartography in the Traditional African, American, Arctic, Australian, and Pacific Societies.
Volume 3:Cartography in the European Renaissance.
Volume 6:Cartography in the Twentieth Century.

それこそ自分の専門の領域だが強制でもされないとなかなか読む機会がない、というより恥ずかしながら英語に不自由な身、Volume 1を拾い読みというのが正直なところ。

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その篇者の一人、ジョン・ブライアン・ハーリーは1932年イングランドのアシュリー生まれで、バーミンガム大学にまなびウィスコンシン州大学の地理学教員だったが 1991年12月20日59歳の若さで亡くなった。
まことに惜しまれるのは、以下のような文章にも明らかである。

「地図がより幅広い政治的象徴システムの一部になるに至った道筋は、主にエリートや権力者集団、権力者個人と地図の関わりによって、方向づけられてきた。そしてこのために、地図による対話は不平等性を拡大してきた。イデオロギーの矢は、たいていの場合、社会の権力者から弱者へと一方的に飛ぶ傾向があった。文学や芸術、音楽の場合とは異なり、地図の社会史には、本当の意味での大衆的、代替的、あるいは破壊的な表現様式はほとんどないように見える。地図はあくまでも権力者の言語であり、権力に異議申し立てする側の言語ではない。我々は地図によるマスコミュニケーションの時代に入ったが、地図生産の手段は、商業的なものであれ、公的なものであれ、いまなお支配者集団によって統制されている。実際、コンピュータ技術によって、メディアの権力は、このような集約の度合いを高めている。そして地図学は、権力を具現化し、「現状」を補強し、図示された線引きの中に社会的相互関係を凍結させながら、目的論的な陳述内容を保ちつづけている。」(山田志乃布訳「地図と知識、そして権力」の末尾近く。『風景の図像学』収録。原著はThe Iconography of Landscape, 1988)

当方は、人間の認知様式としての地図的俯瞰の生成に関心があるのだが・・・。

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白泉抄14 紅蓮の國

秋の日やまなこ閉づれば紅蓮の國

『疾走する俳句 白泉句集を読む』(中村裕)によれば、「昭和四〇年代」の作と言ふ。
ただちに想ひ起こさるは三橋敏雄の いつせいに柱の燃ゆる都かな なり。

中村氏白泉は敏雄の句を「当然、読んでいただろう」と記す。後者は『まぼろしの鱶』(敏雄、一九六六・昭和四一年)収録と言ふ。一九四〇・昭和一五年の逮捕、執筆活動停止命令以降、俳壇に疎隔、戦後も孤立の途を歩みし白泉なるも、同書出版記念会(同年一〇月)は参席せる故然るべきことなれども、これ等いずれがいずれを参照したるか或は触発されしか、句作時期のまへあと明らかなりと言ふべからず。

白泉死後未発表の戦後句を含むその自筆稿印影本、敏雄の尽力にて発刊されしは一九七五・昭和五〇年にて、白泉敏雄親交薄からざるものありき。敏雄句の白泉句に触発されし可能性なしと断言し得ぬなり。

とまれ冒頭句「秋の日」は八・一五にして瞼裏の回想なり。所謂終戦記念日における、列島の主要部に投下されし核爆弾を含む大規模にして広範な都市空爆の想起なり。然して大戦末期の米軍空襲により、一時なりとも「紅蓮」と化したるは「國」そのものなりき。

対して敏雄句の描くは「一都」すなはち東京なり。朱塗柱の列せし平城、平安に繋がる「帝都」の木造家屋、開発されしナパーム弾効果の極めて高かりしこと掲句の描くごとく、電柱も併せ「いつせいに」燃焼、劫火となりて旋風を生じたり。白泉「國」を詠み、敏雄「都」を描く。視座の落差明らかなり。

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傾城之墓 西国分寺

JR中央線西国分寺駅改札北北東約260メートル、開析谷壁斜面すなはち恋ヶ窪の窪地西端に、真言宗豊山派、武野山広源院、東福寺あり。

寺伝に鎌倉時代初期および享禄元年(1528)開創とあり、元和7年(1621)享保10年(1725)中興と伝ふ。
多摩八十八ヶ所霊場二十八番なりといふ。
旧鎌倉街道に面し、さらに300メートル北に熊野神社ありて東福寺その別当寺なりき。
其の鎌倉街道東200メートルほどには、並行せる古代官道東山道武蔵路の遺構あり。

東福寺境内斜面下に傾城之墓および傾城墓由来二碑あり。
以下由来碑読み下し、またその写真を添ふ。
●一字不詳なり。
教示を乞ふ。

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白泉抄13 桐一葉

桐一葉あるいは一葉、桐の秋、初秋の季語とさる。
「見一葉落、而知歳之将暮(一葉落ツルヲ見テ歳ノ将ニ暮レントスルヲ知ル)」(淮南子)に拠るといふ。

落葉広葉樹「桐」に、シソ目のキリ科のキリ(Paulownia tomentosa)とアオイ科アオギリ属のアオギリ(Firmiana simplex)の二種あり。いずれも東アジアの産なるもアオギリは南方の木なり。

北魏の『斉民要術』前者を白桐、後者を青桐また梧桐に書く。両者広卵型落葉なるも梧桐は掌状三~五に浅裂す。連歌時代は桐ならざる落葉含む例ありとしも「一葉」は次第に桐に定まると。ちなみに『日本大歳時記』(講談社、一九九六)には「柳散る」を仲秋、「銀杏散る」を晩秋に分く。

桐箪笥の桐、鳳凰の桐、紋章五三の桐、これらの桐はキリ科のキリすなはち白桐なるも、古来中国にて季節感を表現せしはアオイ科アオギリ属の梧桐にて、「秋雨梧桐葉落時」(白居易「長恨歌」)その端例なり。

如何あれども一葉は広葉なり。掌ほどに広くかつ重く、葉柄を付したるまま、ガサリ音たてて落下す。
桐一葉落ちて心に横たはる(渡邊白泉)。

昭和四〇年代の句作てふ。心底に横たはるもの、柳や柞(ははそ。コナラ・ミズナラなど)の小落葉にあらず。

「桐一葉日当りながら落ちにけり」(虚子)、「桐一葉月光噎(むせ)ぶごとくなり」(蛇笏)。この二句いづれもつくりごとの感否めず。枯広葉のガサツと落下速度を知らず、「つりがねの肩におもたき一葉かな」(蕪村)も同然也。

「螺線まいて崖落つ時の一葉疾し」(久女)よし。

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謬説wikipediaと出版文化の凋落

学生ならずとも、ほとんどの「説明」はwikipediaでこと足りるとする時代となった。
ネット時代の圧倒的な利便性の賜物である。
紙文化世代末尾としてのわれわれの役割は、せいぜいがその落とし穴への注意喚起であろう。

授業ではとりあえず日本語wikipediaの明白な誤りや矛盾、ないし根拠薄弱やその欠落を指摘したら、成績評価のポイントに加えることにしている。
履修期間、レポートのときどきで、結構反応があるから面白い。

以下は「wikipediaの誤りないし矛盾」の一例である。
昨今巷に流行の都市地形や都市地誌に関連して、ここでは「神田上水」をとりあげる。
神田上水は近世江戸草創期に創設された江戸市中の給水施設であるが、wikipediaでは以下のような定義ないし概括としている(2017年8月31日閲覧)。

「神田上水(かんだじょうすい)とは、江戸時代、江戸に設けられた上水道で、日本の都市水道における嚆矢である。江戸の六上水のひとつであり、古くは玉川上水とともに、二大上水とされた。」

この後に「天正日記」からの引用とそれをもとにした記述が並ぶのであるが、「天正日記」自体が偽書とされていることについて、つまりその引用の当否はここでは云々しない。いま問題とするのは「日本の都市水道のおける嚆矢である」と断言している点である。

「嚆矢」は「ものごとのはじめ」であるが、「日本の都市水道」をどのように定義するかで話はまったく別になる。
すなわち古代の飛鳥、奈良の都からあたりから話をはじめなければならないかも知れないのだが、関西の話はさておいて、関東にかぎってみても都市水道のはじまりが江戸でなければならない必然性はないのである。

wikipediaの「小田原早川上水」の項を見てみよう。

「小田原早川上水(おだわらはやかわじょうすい)は、早川を水源とし、神奈川県小田原市内を流れる上水である」と概括し、その後に「正確な成立時期は不明だが、北条氏康(1515年 - 1571年)が小田原を支配した頃に小田原城下に水を引き入れるために成立したものと考えられている。1545年2月に小田原に立ち寄った連歌師の紀行文『東国紀行』中にこの上水に関する記述が見られることから、それ以前には成立していたものと推測される。それ以前にこの上水以外の上水の成立が日本国内で見られないことから、日本最古の水道とされる[1]」(同前)としている。「1 石井啓文『小田原の郷土史再発見』夢工房、2001年」の文献根拠付である。

神田上水の草創につては前述のように根拠(文献)は薄弱で一次史料としては無に近く、しかも徳川家康の江戸入府(1590年)以後であることは確実であるから、すくなくとも小田原早川上水が神田上水より半世紀近く前に設けられた小田原城下上水施設で、中世末期から近世にかけての日本都市水道の「さきがけ」であることは明らかである。

江戸言説もいい加減に道灌伝説や家康伝説から抜け出して、正当に江戸氏時代や北条氏時代をさぐるべきであろう。神田上水以前の「小石川上水」が、北条氏の江戸城下の水源であったかも知れないのである。「水道橋」がなぜあの位置、つまり神田三崎町下に存在するかについて触れたものも寡聞にしていまだ知り得ない。
いずれにしても現今のwikipediaの神田上水の記述は「正しさ」にはほど遠く、「東京一極ジャーナリズム」に影響されたひとりよがり話と笑われても致し方ないであろう。

「誤り」という範疇からは外れるが、「百科事典」記述上問題となる不適切文例もひとつ挙げておこう。これも地名がらみであるが

「お花茶屋/地名の由来[編集]/江戸時代、江戸幕府八代将軍の徳川吉宗が鷹狩りに興じていた際に、腹痛を起こした。その時、名をお花という茶屋の娘の看病により快気したとの言い伝えがある。この出来事により、現在の地名を賜ったとされている。」(同前)

この文章では、「お花」というのが「茶屋」の名なのか「娘」の名なのかが判別できない。
常識的には、「お花」という名の娘がいた茶屋であろうが、それを確たるものとするためには「その時、茶屋の娘お花の看病により快気した・・・」と書かなければならない。

wikipediaが具体的にどのようなしくみで運営されているのか承知しないが、私もその利便に与っていることは確かである。だからそのシステム維持のための寄金には僅少ながら協力している。しかしウラの取れていない謬説が大きな顔をしていたり、権力意志やおおきな金が裏で動いていると推測される姿にしばしば遭遇する。顔の見えないネット情報は、基本的に無責任であり、闇世界であり得る。

これに反して、紙の出版文化は一般的に著作者名やその略歴を記載し、場合によってはその顔写真さえ掲載される。だから「顔が見える」。一見して、責任の所在が明らかである。
ところが昨今ではテレビ・雑誌はおろか書籍においても、ウラのとれていないネット情報をもとにしながら、適当な参考文献名を並べて体裁をつくろった「本」、あるいは先行研究を切り貼りしながら、典拠を示さずカラー図版付でオリジナルを装った「駄本」のたぐいが次から次にプロダクツされている。
書店店頭は、業界諺「柳の下にドジョウ6匹」どころか1ダース以上のドジョウが常に棲息している様相である。だから書籍も「文献」ないし「根拠」たりえるものとそうではないものとに二分され、前者は圧倒的に少数で書店で見かけることもあまりない。現代日本の出版文化の「主流」は、緩慢な自殺に向かっていると言っていい。
「空気読み」「調子乗り」はこの「くにたみ」の宿阿であり、それが世に憚る時世は衰亡になだれ打つ前兆なのである。

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農耕牧畜と国家の終焉

農耕牧畜と国家の起源は近接しているか一致している。
国家の定義によって大分異なる面が出てくるだろうが、いずれにしても農耕牧畜社会以前の狩猟採集社会に国家が存在し得なかったことは確かであろう。

農耕牧畜(業)社会から工業社会へ、そして情報業社会へと、社会変容は単純化してとらえられる。
このプロセスモデルのいずれにおいても、国家は存在している。
しかしながら、ホモサピエンスの出アフリカは約20万年前。
農耕牧畜が開始されたのは約1万2千年前とされるから、「人類史」のなかでそれは圧倒的に短い時間である。
国家も同様に、まったく最近の発生体に過ぎないのである。

そうして、農耕牧畜に基盤を置いた(今なお基本的にはそうであるが)人類史の「歴史時代」は、例外的に温暖で安定した気候の賜物だった。

この安定期が破られるとすれば、それは近年の人為がなせる「地球温暖化」の結果ではない。
自然は、いかなる人為をも凌駕する。

かつて人類史の圧倒的な時間を覆っていた氷河期。
それは激烈な寒冷と温暖が交代する「異常気象」の常態期を意味していた。
平野はたちまちのうちに海面下となり、それは幾度も繰り返される。
豪雨も旱魃も、豪雪も間断なくやってくる。
「異常気象」の常態期に、農業も牧畜も存立することはそもそもあり得ない。
生存できる人間も、多様な生物に紛れ、そのなかで許容された数でしかあり得ない。
そこでは国家はもはや意味をなし得ない。

農耕牧畜文明社会は、人類史の「発達」によって誕生したのではない。
それは、「たまたま」の条件のもとで発生した、つかの間の「繁栄」にすぎないのである。

中川毅『人類と気候の10万年史』(2017)を読んで、そう思った。

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