1月 27th, 2025
三野混沌の足跡
しかしながら「天日燦として焼くがごとし、いでて働かざるべ可らず」を含む詩篇自体は、依然として不明である。
草野心平が暮鳥詩の題詞を碑文を選んだだけで、典拠究明の労をとらなかったのは、それが既に不可能となっていたためかも知れない。
一方、その言葉をエピグラフにした長詩「荘厳な苦悩者の頌栄」は「神様/神様」ではじまり、「その人間です/おゝ新しい神様」で終る。
wikipediaは「結核のため伝道師を休職」と書くが、楽園を追放されたアダムとイブの裔として、山村暮鳥は神を棄てたのである。
混沌の言葉は、楽園追放者の逆転の自負であった。
しかし失職と病(結核)とで窮迫した暮鳥一家のために混沌が苦心用意した新居は、麓の村人たちの怒声によってわずか10日で空家となった。
その4年後の1924年、暮鳥は茨城県大洗町の借家で病没する。享年41。
一方混沌はともかくも戦後まで生きながらえ、晩年の2年余りは寝たり起きたり、認知症の末に没したのは1970年の4月10日、76歳であった。
草野心平が主宰する『歴程』の混沌追悼号は、その年の8月である。
せいは同年の11月から翌々年にかけて『いわき民報』に「菊竹山記」を連載、かつ1971年に歴程社から『暮鳥と混沌』が発刊されるも300部限定であった。
友人らの奔走努力によって、吉野家の畑の一隅に詩碑が立てられたのは、逝去2年後の1972年4月。
心平が酔いと衒いにまかせ、せいの両手を握って「あんたは(自分の作品を)書かねばならない」と命じたのはその除幕式の後であった。
串田孫一が彌生書房の津曲篤子社長の編集顧問だった縁で、同書房から『洟をたらした神』が刊行されたのは1974年11月。
翌年それが田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞し、せいはたちまち時の人となり、『暮鳥と混沌』も同社から再刊された。
せいの死去は1977年11月、享年78であった。
ひとは混沌を生活力なく、家業一切をせいに押し付けてその創作の機会を奪ったように評し、せいもまた憎むことが人間の本性のように書いているが、そのまま受け取るのは過誤というものである。
「夫婦というものはわけがわからない」(佐野洋子)のである。
戦後の農地改革の小作側委員として、混沌は文字通り身を投げ出して福島県全域を歩いた。
せいの浴びた光の影で、混沌の足跡を解明しようとする者は、いまだ不在である。
下掲は『歴程』三野混沌追悼号掲載写真と、「菊竹山」エリアが描かれた最古と最新の2万5千分1地形図「常磐湯本」の一部。
地図上は1976年測量・現地調査(ただし使用空中写真は1973年)・発行、下は2018調製・発行図。
菊竹山頂は両図の上辺中央、三角点105.3メートル。
吉野宅は、同「沢小谷」の「小」の文字の北、送電線との間の一軒家。
「沢小谷」の文字の東方(右)の卍マークは、菊竹山の元地主にして吉野家の墓のある龍雲寺である。