Archive for 5月, 2021

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麻布「がま池」の正体 補遺

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上掲は参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」全9面のうち、「東京南西部」(1887年出版)の一部。前回掲げたのは原図でこちらはその印刷図にあたる。
モノクロ図だがスキャニングの精度を最大限としたので、細部の読取りが可能である。
「蝦池」の隅から細流が北東に下り(築堤は半ば暗渠)、水田の端から後は道路脇のドブ板下の溝あるいは暗渠とされたであろう、弓なりに古川の一之橋方面に向かうのがよくわかる。
原図に記入されていた測線と水準点および水準点の標高(数値)は払拭され、この図がいわば清描であることがわかる。それだけに原図の測線と水準点情報は重要で、原図複製の安易さが悔やまれるのである。

さて、「宮村町」と「宮下町」の文字の間の弓なりの道は谷道で両端は坂下、「宮村町」の下の交差部から東南東に上る直線道は「狸坂」という。
その反対側、「宮下町」の「下」の文字が掛かる道の傾斜部は今日「暗闇坂」として知られているが、この図では「於化坂」(おばけざか)の注記が見える。於化坂途中の邸宅のあるあたりは、現在ではオーストリア大使館の敷地である。
この二つの坂下は標高10メートル以下、坂上は20メートル以上であることが、等高線から明瞭に読み取れる。

図の右端「徳正寺」の文字の掛かるあたりは「大黒坂」の一部。その左下暗闇坂と狸坂の交差部は麻布の一本松として知られる名所で、そこから南西に下るのが「一本松坂」である。

さて、両端に坂下をもった弓なりの谷道であるが、以下2つの文章に目を通されたい。

 十月十二日の時雨ふる朝に、わたしたちは目白の額田方を立退いて、麻布宮村町へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、(略)、裏は高い崖になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押寄せていた。/崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢をいっている場合ではない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多に空家のあろうはずはなく、さんざん探し抜いた挙句の果に、河野義博君の紹介でようようここに落付くことになったのは、まだしもの幸いであるといわなければなるまい。(『岡本綺堂随筆集』Ⅳ十番雑記、一 仮住居) 

 「狸坂くらやみ坂や秋の暮」 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通じる横丁の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなり高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推量(おしはか)られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名が一層幽暗の感を深うしたのであった。(『岡本綺堂随筆集』Ⅳ十番雑記、二 箙の梅)

前の文の「日蓮宗の寺」とは、上掲地図上辺に見える三宇の寺(卍マーク付)のうちもっとも上端寄りの日蓮宗安全寺で、今日でも露地奥に寺堂をみることができる。
岡本綺堂は父親の仕事の関係上イギリス大使館裏、すなわち麹町台地の元園町に自宅があった。だから関東地震当日家が潰れることはなかった。三度、四度の余震の後「しかしここらは無難で仕合せでした。殆ど被害がないといってもいいくらいです」と町内で言い合っていたものの、夜になって降りかかってきた火の粉を防ぐことはかなわなかったのである。
麻布の崖下に家を見つけ仮住まいとすることができたのは、この一帯が奇跡的に被災しなかった、つまり焼けなかったからである。

そのあたりの様子を『新修港区史』(1979) では次のように記載している。 

 この大震災のため、日本橋区や本所区、浅草区、神田区は九〇%以上の焼失、京橋・深川の両区が八五%以上の焼失という火災による被害が震災を上回る被害であったにたいし、芝区は二四%の焼失、赤坂区は七%の焼失、麻布区に至ってはほとんど焼失被害は零に近かったといってよい。下町に比べて、山の手の火災被害は軽かったが、飛びぬけて、牛込・四谷とともに麻布区の被害は軽かったといえる。(第1編第6章、近代、p.580)

しかし不燃建築物が都心の大部分を占める現代では事情が異なる。
最近刊行の『港区史 自然編』(2020)が警告するように、麻布谷底低地には「湿地にみられる「泥炭層」という、未分解の植物遺体がスポンジのように水を含んだ層が堆積しており、局地的に軟弱地盤をつくっている」ため、大地震時の振動は台地上の比ではないのである。
がま池の「土手」底部は水田だったとは言え谷頭部だから滞水域とはならず、泥炭層も形成されなかったろう。しかし尾根道をはさんで反対側、笄川の開析谷壁にあたる有栖川宮記念公園の谷がそうであるように、目に見える湧水が涸れたとは言え、じわじわと浸み出す地下水は健在である。その上に形成された近世初期の盛土部つまり人工地形が、大地震にいかなる動きを見せるか、注目しどころのひとつなのである。

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写真はがま池を造成した際の土手部で、路が盛り上がっているのがわかる。写真手前ががま池の北端べりで、奥が旧水田地帯。道を下れば宮村児童公園脇を通り、その先は狸坂下につづく。

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麻布「がま池」の正体

「芝道」については書かなければいけないことをまだ残しているが、忘れないうちに東京都港区元麻布二丁目の「がま池」について記しておく。

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上掲は参謀本部陸軍部測量局「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」および「東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊島郡下渋谷村近傍」(いずれも1883年:明治16測図)の一部。図の下辺中央の道交差部は「仙台坂上」で坂は右(東北東)に下る。左下の三角形は現港区立有栖川宮記念公園の角地。等高線を見れば道はここではすべて尾根道で、「蝦池」は一の橋に下る古川の一支流の、W字型をした谷頭部の一つを堰き止めてつくられた人工池であったことがわかる。「蝦池」を堰き止めた土手の北には「水」とありそこは水田である。水田の東側に「蘆」(アシ)の字が記入された草色の細長い区画があるが、その一部は現「宮村児童公園」として残されている。

水田の中に破線が走り、小さな丸印が描かれているが、それは測線と水準測量点を記したものである。しかし拡大しても水準点に添えられた数字を読み取ることは不可能である。これら数字のみならず描図要素すべてが拡大に耐え得ない。デジタル化(東京時層地図)にあたって原図とした複製印刷図が高精細でなかったことに主因があるのだが、この図群は「地図の宝石」(前田愛)とまで言われた近代初期測量地図の傑作でもあり、まことに残念と言わざるを得ない。地図の複製印刷およびデジタル化の「悪例」として指摘しておく。

さて、都内の「池」について概観すると、「不忍池」は都内に存在する自然の池の代表で、縄文海進による侵食(海成段丘の形成)と堆積(侵食された土砂の砂州化)による河口(古石神井川)閉塞によって形成された(松田磐余『対話で学ぶ 江戸東京・横浜の地形』2013)。

自然の池に対して人工の池が存在するが、実は都内の公園の池の多くはそれであって、例えば東大本郷キャンパスの三四郎池や新宿御苑の玉藻池は旧大名庭園に由来し、堤を築いて谷地を閉塞するか(玉藻池)、段丘面を掘り窪めて湧水を溜めるか(三四郎池)、海面の埋立を一部残すもしくは埋立後の掘り込みで汐入の池とする(芝離宮・浜離宮)か、いずれかの方法で造成されたものである。

そうして形成時期は自然の池ほどは遡らないものの、大名庭園よりもさらに古い人工の池というものがあって、それは溜池である。
近代初期に埋め立てられ地名にのみ残る現千代田区の「溜池」は、近世初期の上水水源として鮫ヶ橋谷などの開析谷から下る水流を堰き止めてつくられたダムであった。

麻布の「がま池」も実はダムなのだが、その本来の姿は水田灌漑用の溜池である。池の造成には江戸以前および江戸初期の耕作者(百姓)の切実な願望が存在したのであって、それは例えば麻布七不思議がま池伝説の「どのような日照りでも涸れることがない」という一節に反映されている。がま池は、麻布台地を開析した谷のさらにその支谷の谷頭部に堤を築いて近世初期に造作されたのである。

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そのことを物語る近世初期図を、ひとつだけ掲げておこう。上は「寛永江戸全図」(寛永19:1642年頃)の一部である。右下に見える水流は古川の二之橋付近で、両岸部はすべて水田、支谷の谷頭まで水田である。後の仙台坂の道が破損欠落しているが、中央右下寄りに「全(善)福寺」、左手「浅野内匠頭」とあるのは後の南部藩下屋敷で現在の有栖川宮記念公園だが、それと「柳生但馬守下屋敷」との間の二又の谷(水田)のうち小さな「百姓地」の文字の足元の谷頭部が「がま池以前」の姿である。

近世初期の人工地形でかなり埋立てがすすんだとは言え、「池」は都心高級住宅密集地に遺された貴重な自然である。私有のマンション敷地として囲い込まれてしまったのは、行政の怠慢とも、なさけなさとも言える。かつては隣接した敷地の駐車場からその水面を垣間見ることができたが、いまはそれもかなわない。駐車場が敷地目一杯のコンクリート邸宅に変わったからである。

この近世のダムの土手(築堤)上には、人材派遣会社パソナの’迎賓館’と言われ、時に黒塗りの大型車が並ぶ「仁風林」が鎮座している。政財界の隠微な疑惑の場としてしばしば噂に挙がるところだが、何の因縁かその入口脇にがま池怪奇話説明板がぴったりと寄り添っている。
その説明板冒頭の「江戸時代には」というくだりだが、「江戸時代末期には」とでもしないと正しいとは言えない。江戸時代とは、蒸気鉄道の敷設(1872)から核反応施設爆発(2011)までの近・現代約140年間よりよほど長い、約260年スパンをもっていたのであって、そのなかでとりわけ江戸の市街変容は大きかったのである。

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芝 道 その2

『港区史 上巻』では「吉良氏は蒔田領主で柴村は蒔田領分であった」とする。

奥州管領として陸奥多賀城に拠り足利政権奥州統治の要を担った吉良の家系は、室町から南北朝を経て戦国時代に滅亡しかかるも、足利将軍の「御一家」として武蔵国に拠点を確保する。
そのひとつが武蔵国久良岐郡の蒔田(まいた)城(現神奈川県横浜市南区蒔田町)で、築城年代は不明も 15世紀末頃裔吉良成高あるいは吉良頼康の代には蒔田の地を領有し、「蒔田御所」と呼ばれたとする(横浜市歴史博物館 『蒔田の吉良氏-戦国まぼろしの蒔田城と姫君』2014)。

「太田道灌状」には「吉良殿様御事、最初より江戸城に御籠城、彼下知を以て城中の者ども働数ヵ度合戦せしめ、勝利を得候」とあり、原註に「吉良三郎成高、公方一族、世田谷殿トモ蒔田殿トモ云」を加えるという(『新修世田谷区史』上巻)。吉良を「殿様」と尊称した太田道灌資長が主君扇谷上杉定正に謀殺されたのは、文明18年(1486)7月であった。
このころまで、吉良氏は確かな戦国領主の一人なのであった。

現在横浜市南区に横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線)の蒔田(まいた)駅が存在する。
そこは大岡川の右岸で地表は標高3メートル前後だが南は標高30~35メートルの高台で、川とその沖積地を眼下にする北端、現横浜英和学院の所在地が吉良氏の蒔田城跡とされる。

そうして先の印判状にもあるように、吉良氏はいつの代からかわからないものの、芝(現港区の海岸側、JR浜松町駅から田町駅付近)にも所領を具していたのである。

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芝 道 その1

以下は『港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世』(2021年3月)のカラー口絵のひとつだが、本文には読みも内容もとくに触れてはいない。

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『新修港区史』(1979年)の本文にはこの文書の粗末なモノクロ写真が挿入されており、その翻字と読みは以下の通りである。

 制 札
右柴村新宿為不入立之候
間若横合非分有之ニ付而者
可遂披露由被仰出者也 仍而
如件

戊子         奉之
 七月廿四日 江戸近江守

  柴 村
    百姓中

 制 札
右、柴村新宿は不入(ふにゅう)のため之(これ)を立て候
間(あいだ)、若(もし)、横合非分(よこあいひぶん)、之(これ)あるに付而者(ついては)
披露(ひろう)を遂(と)ぐべきの由(よし)、仰せ出される者也(ものなり)、仍而(よって)
件(くだん)の如(ごと)し

狭義の古文書(一次史料)は文書に差出人と受取人が明記されているものだが、この場合の受取人は芝村の百姓、差出人は江戸近江守だがその名の脇に「奉之」(これをうけたまわる)とあり、近江守はいわば家来。
誰の家来であったかというと、それは大きな朱印が示していて、これは世田谷に城をおいていた吉良氏の印という。
その家来の江戸は、太田道灌が江戸城をつくるよりも大分以前にそこに城館をおいていた江戸氏の末で、江戸近江守こと江戸頼年。

吉良家というと上野介吉良義央(きらよしなか)のイメージが前面にでてくるので面倒だが、吉良の姓はいまの愛知県に存在した荘園吉良荘(きらのしょう)にちなむもので、足利尊氏の遠祖、鎌倉幕府の有力御家人であった足利義氏が、三河国幡豆(はず)郡吉良荘の地頭職を得たことにはじまる。
義氏の二子は吉良荘を本貫地とし、兄は三河吉良氏、弟は奥州吉良氏の祖となり、忠臣蔵で悪役をつとめるのは前者の裔、世田谷の吉良氏は後者の子孫。吉良は足利一門のなかで重きをなし、近世は高家と見做された。

『新修港区史』は、「戊子」(つちのえね、ぼし)が相当する年号は戦国時代では享禄元年(1528)か天正16年(1588)で、江戸近江守という名から後者の文書であるとする。
天正16年は、後北条氏が滅亡し家康が江戸に入る2年前である。

この文書は創建が寛弘2年(1005)と伝える芝大神宮(古くは飯倉神明宮、芝神明宮と称した伊勢神宮の地方出張所)の所蔵で、『港区史 上巻』(1960年)や『芝区史』(1938年)にも写真版付で触れられている。

文書の内容は、「柴村に新宿を設けるにあたり、もし横合非分(ほかから妨害などをしてくること)をなすものがあったら、その旨を自分のところ(吉良氏のもと)へ知らせるように命じたもの」(『新修港区史』)としているが、これでは「不入」の意味が理解できない。

ここは「みかじめ料」というやくざ用語を用いるとイメージしやすいだろう。
「新宿」とはいうものの、これはむしろ町場の謂いと思われる。
町場の本質は交易つまり商いの空間であり、それは市場と言い換えてもよい。
その場で新参者に「誰に断って商売をやってるんだ」と因縁をつけ巻き上げるカネがみかじめ料で、一種のショバ(場所)代である。それが現在のやくざであろうと、中世の何らかの権力であろうと同じである。
そこでは自由な商売は成り立たず、特権的同業者団体(座)の支配は商品経済が拡大するにつれて、その足かせと見做されるようになる。

「不入」とは国衙郡衙の介入し得ない古代の私権エリアつまり荘園に発する用語だが、中世には荘園以外さまざまな場に不入すなわちアジールが存在するようになる。
つまり一定の場所において(何らかの)権力(的観念)を無効とし、その立入りを排除すること、とくに商売自由を保障することを意味するようになる。
つまりそれは楽市の保障で、今日の世田谷ボロ市にまで至る歴史をもつものなのである。

世田谷デジタルミュージアムには下の古文書の写真を掲げ、「天正6年(1578)、小田原北条氏四代の当主・氏政が、世田谷に宿場(世田谷新宿)を新設し、楽市を開いた時に発した掟書。このとき開かれた楽市は、そのかたちを変えながらも、今も「世田谷のボロ市」(東京都無形民俗文化財)として存続している」と添え書きしている。
今のボロ市とは異なりご覧のように月6日の典型的な六斎市で、経済活発を目指したものであることがわかる。
上掲制札の10年前である。

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しかし、世田谷は本来吉良氏の「城下」だったはずである。
そうしてこの「新宿」は、吉良城下の宿すなわち「元宿」に対する称である。
小田原北条は吉良氏の存在を無視したように、マチもミチ(矢倉沢往還)もあらたに設置したのである。

上掲の吉良氏印判状について『新修 世田谷区史』(上巻、1962年)に従えば、吉良氏はこの時すでに小田原北条の高位家臣の地位に甘んじており、小田原からはその家臣(陪臣=江戸頼年)に直截下命していたとみられる。つまり「新宿」を「立て」たのは小田原北条氏と考えるべきで、「その旨を自分のところ(吉良氏のもと)へ知らせるように命じたもの」という『新修港区史』の記述は当を得ないということになる。
今日のボロ市につながる楽市が世田谷「新宿」にひらかれたとき、「元宿」を足下としていた吉良氏はその「城」を去っていた可能性も否定できない。

中世の土地支配は重層性を特徴とし(職〈しき〉の体系)、その実態は流動的である。
これらの文書からは、戦国大名北条氏支配下の吉良氏所領のありようが垣間見える。