5月 13th, 2021
芝 道 その1
以下は『港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世』(2021年3月)のカラー口絵のひとつだが、本文には読みも内容もとくに触れてはいない。
『新修港区史』(1979年)の本文にはこの文書の粗末なモノクロ写真が挿入されており、その翻字と読みは以下の通りである。
制 札
右柴村新宿為不入立之候
間若横合非分有之ニ付而者
可遂披露由被仰出者也 仍而
如件
戊子 奉之
七月廿四日 江戸近江守
柴 村
百姓中
制 札
右、柴村新宿は不入(ふにゅう)のため之(これ)を立て候
間(あいだ)、若(もし)、横合非分(よこあいひぶん)、之(これ)あるに付而者(ついては)
披露(ひろう)を遂(と)ぐべきの由(よし)、仰せ出される者也(ものなり)、仍而(よって)
件(くだん)の如(ごと)し
狭義の古文書(一次史料)は文書に差出人と受取人が明記されているものだが、この場合の受取人は芝村の百姓、差出人は江戸近江守だがその名の脇に「奉之」(これをうけたまわる)とあり、近江守はいわば家来。
誰の家来であったかというと、それは大きな朱印が示していて、これは世田谷に城をおいていた吉良氏の印という。
その家来の江戸は、太田道灌が江戸城をつくるよりも大分以前にそこに城館をおいていた江戸氏の末で、江戸近江守こと江戸頼年。
吉良家というと上野介吉良義央(きらよしなか)のイメージが前面にでてくるので面倒だが、吉良の姓はいまの愛知県に存在した荘園吉良荘(きらのしょう)にちなむもので、足利尊氏の遠祖、鎌倉幕府の有力御家人であった足利義氏が、三河国幡豆(はず)郡吉良荘の地頭職を得たことにはじまる。
義氏の二子は吉良荘を本貫地とし、兄は三河吉良氏、弟は奥州吉良氏の祖となり、忠臣蔵で悪役をつとめるのは前者の裔、世田谷の吉良氏は後者の子孫。吉良は足利一門のなかで重きをなし、近世は高家と見做された。
『新修港区史』は、「戊子」(つちのえね、ぼし)が相当する年号は戦国時代では享禄元年(1528)か天正16年(1588)で、江戸近江守という名から後者の文書であるとする。
天正16年は、後北条氏が滅亡し家康が江戸に入る2年前である。
この文書は創建が寛弘2年(1005)と伝える芝大神宮(古くは飯倉神明宮、芝神明宮と称した伊勢神宮の地方出張所)の所蔵で、『港区史 上巻』(1960年)や『芝区史』(1938年)にも写真版付で触れられている。
文書の内容は、「柴村に新宿を設けるにあたり、もし横合非分(ほかから妨害などをしてくること)をなすものがあったら、その旨を自分のところ(吉良氏のもと)へ知らせるように命じたもの」(『新修港区史』)としているが、これでは「不入」の意味が理解できない。
ここは「みかじめ料」というやくざ用語を用いるとイメージしやすいだろう。
「新宿」とはいうものの、これはむしろ町場の謂いと思われる。
町場の本質は交易つまり商いの空間であり、それは市場と言い換えてもよい。
その場で新参者に「誰に断って商売をやってるんだ」と因縁をつけ巻き上げるカネがみかじめ料で、一種のショバ(場所)代である。それが現在のやくざであろうと、中世の何らかの権力であろうと同じである。
そこでは自由な商売は成り立たず、特権的同業者団体(座)の支配は商品経済が拡大するにつれて、その足かせと見做されるようになる。
「不入」とは国衙郡衙の介入し得ない古代の私権エリアつまり荘園に発する用語だが、中世には荘園以外さまざまな場に不入すなわちアジールが存在するようになる。
つまり一定の場所において(何らかの)権力(的観念)を無効とし、その立入りを排除すること、とくに商売自由を保障することを意味するようになる。
つまりそれは楽市の保障で、今日の世田谷ボロ市にまで至る歴史をもつものなのである。
世田谷デジタルミュージアムには下の古文書の写真を掲げ、「天正6年(1578)、小田原北条氏四代の当主・氏政が、世田谷に宿場(世田谷新宿)を新設し、楽市を開いた時に発した掟書。このとき開かれた楽市は、そのかたちを変えながらも、今も「世田谷のボロ市」(東京都無形民俗文化財)として存続している」と添え書きしている。
今のボロ市とは異なりご覧のように月6日の典型的な六斎市で、経済活発を目指したものであることがわかる。
上掲制札の10年前である。
しかし、世田谷は本来吉良氏の「城下」だったはずである。
そうしてこの「新宿」は、吉良城下の宿すなわち「元宿」に対する称である。
小田原北条は吉良氏の存在を無視したように、マチもミチ(矢倉沢往還)もあらたに設置したのである。
上掲の吉良氏印判状について『新修 世田谷区史』(上巻、1962年)に従えば、吉良氏はこの時すでに小田原北条の高位家臣の地位に甘んじており、小田原からはその家臣(陪臣=江戸頼年)に直截下命していたとみられる。つまり「新宿」を「立て」たのは小田原北条氏と考えるべきで、「その旨を自分のところ(吉良氏のもと)へ知らせるように命じたもの」という『新修港区史』の記述は当を得ないということになる。
今日のボロ市につながる楽市が世田谷「新宿」にひらかれたとき、「元宿」を足下としていた吉良氏はその「城」を去っていた可能性も否定できない。
中世の土地支配は重層性を特徴とし(職〈しき〉の体系)、その実態は流動的である。
これらの文書からは、戦国大名北条氏支配下の吉良氏所領のありようが垣間見える。
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