Archive for 7月, 2017

【関東造盆地運動 Kanto basin-forming movement】
 関東平野の中心部が第三紀末以後、とくに第四紀に盆状に沈降し、平野周辺が隆起してきた地殻運動。1925年に矢部長克は関東平野の段丘面の高度分布や平野周辺の鮮新世―更新世の地層の傾きから関東平野は一つの構造盆地と考え、関東構造盆地(Kanto tectonic basin)の名を与えた。これは日本の陸上では最大の曲降盆地であり、それを埋めた堆積物により関東平野が形成されている。
 地質学的研究によると中新世の沈降帯は関東平野の西縁を南下して三浦半島・房総半島南部に続いていたが、鮮新世には黒滝時階の変動以後沈降の中心が房総半島中東部に移り(上総層群の堆積で示される)、その後さらに北西に移動して更新世中期には東京湾の東北部に位置し、関東造盆地運動とよぶのにふさわしい形となった(下総層群の堆積で示される)。下末吉面の高度分布によると、更新世後期には沈降の中心が東京湾北部と古河付近に生じたことがわかる。どうしてここに造盆地運動が生じたのか、またどうして沈降中心が移動したのかは明らかではないが、ここが東北日本弧と伊豆―小笠原の夾角にあたることや、この地域の南のプレート境界とみられる相模トラフがあることと関係があると思われる。なお関東造盆地運動による中心部の沈降速度は、更新世を通じてほぼ1m/1000年であった。(貝塚爽平執筆項目。町田貞ほか編『地形学辞典』1981)

「盆地」ねえ。
「地形」は地表を見ていただけではわからない。
 建築系の景観論者のダメさ加減は、「見えている」「現在」への依存度に拠る。
 地形は地下にもとづき、さらに海につづく。否、海からつづく。
「関東造鉢(ぞうはつ)運動」のほうが、言葉のイメージとしては適切だ。
「基盤岩」をたどれば、関東平野全体が浅鉢のかたちを成していることがわかる。
逆に言えば、最深部で地下3キロほどにある基盤岩の層をイメージできないと、この概念は理解できないことになる。
 今日放映のテレビ番組(テレビ東京「車あるんですけど」2017年7月30日)の「絵」を見ていてそう思った。
「盆地」では、イメージは地表の「凹凸」で止まってしまって、肝心のところまで思考が及ばないのである。
 ただし「東京の地下3000メートル」は沈降の中心部の基盤岩までの深さなのであって、その上に乗る「上総層群」や「下総層群」はずっと浅いところにある。番組では説明不足でした。
 江戸・東京は沈降の中心だから岩がない。崖があるとしても窪みにたまった土の崖だから、岩に彫り付ける「磨崖仏」も存在し得ない、というメッセージは伝わったかな。

 もっとも、番組中最大の失態は「アカテガ二」のことを「ベンケイガニ」と言ってしまっていたことだが。
 彼女、あがっていたのかな。
 車のなかでは耳にタコができるほど「アカテガ二、アカテガニ」と言っていたのに、どうして間違えるかな。
 収録後の「編集」でトチッたかな。
 他のカニとくらべて標高が高いところに棲息するアカテガニこそ、「猿蟹合戦」の主役なのです(これは私の説)。

 番組の最初のほうで私が言った「崖は動く」というテーマは、日暮里と銚子屛風ヶ浦で説明する仕掛けを考えていたのだけれど、屛風ヶ浦に車が着いたときはすでに日が暮れていた。
 投光器を使って撮影はされたが、結局カットされてしまった。
 まあいいか、そこまで言うと私だけが「立ちすぎる」からな。

 今度は単独でアカテガニに会いに鵜原まで、またちょっと足をのばして、崖地形の名勝「おせんころがし」まで行ってみよう。安房勝浦はおもしろいな。隆起と侵食でできた「風隙」(wind gap)もたくさん見られるようだし。

JR東日本は国分寺市の要請を受けて、2017年3月4日から国分寺駅と西国分寺駅の発車メロディーを変更した。
国分寺市のサイトでは以下のように説明する。

JR国分寺駅・西国分寺駅を発車する「中央線」・「武蔵野線」の発車メロディを、JR東日本八王子支社のご協力を得て、国分寺市ゆかりの曲にしました。
国分寺市は日本を代表する作曲家である信時潔(のぶとききよし)氏が半生を過ごした地です。その間、現在も歌われている数多くの曲を創作する傍ら、地域に根差した活動も行っていました。その一つに、国分寺市立小中学校の校歌作曲があります。15校中6校(第一~第四小学校、第一・第二中学校)の校歌が、信時氏により作曲されました。約6万人の子どもたちがこの校歌を胸に刻んで卒業しています。
この度、信時潔氏の功績を称えるとともに、地域活性化も図るため、地元商店会等の要望を受け、代表曲である「電車ごっこ」と「一番星みつけた」を中央線の発車メロディとして選定しました。

「電車ごっこ」は1932年(昭和7)に「文部省唱歌」として登場し、戦後しばらくも口ずさまれた、「運転手は君だ、車掌は僕だ、あとの四人は電車のお客・・・」というあの歌である。
作詞は文部官僚の井上赴(いのうえたけし)。
なぜ運転手が僕でなく君なのか、疑問を起こさせるところが面白いといえば面白い。

しかしながら信時の代表曲といえば、文句なく「海ゆかば」である。
この曲はいわゆる戦後世代はほとんど知ることがないが、戦時中このメロディーはラジオで頻繁に流され、それは「玉砕」報道にはつきものの軍歌、否、戦時歌謡だったのである。

しかしながら最近では、インターネットのyoutubeなどを見ると少なくないサイトにこの曲がオンされ、「第二国歌」「準国歌」などという惹句が付されて、一部の(若い?)人々の間でもてはやされている、らしくもある。

「海ゆかば」の歌詞は、奈良にあった山戸(ヤマト)部族政権の軍事担当家系に生まれた大伴家持がつくった「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首」(『万葉集』巻18)の一部で、以下の末尾「と異立て」を省略した部分である。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
  大王(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て

凄惨な敵味方死体散乱の光景を、奴(ヤツコ=ドレイ)のマゾヒズムに転嫁させた詞と言っていい。

信時が作曲したのは、日本政府が1937年(昭和12)に国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲で、NHKの嘱託を受けたためという。
指定された歌詞を相手に、信時はたじろぎ苦心しつつ曲をひねり出したと思われる。
それならば「死屍累々だが、死ぬは本望」などという、顚倒しグロテスクでさえあるこれらのことばを「国民精神総動員」歌詞としてもち出した者は誰か。

勇壮な出だしと高揚のあと、曲はあっけなく尻切れトンボに終わる。感動が尾を曳く前にぽきりと折れ、音はさっと切り上げられるのである。もちろん指定された音数の規定性によるのだが、東アジア太平洋戦争における二ホン軍緒戦の勢いとその後の急速な敗退を象徴した観がある。

坂口安吾が言うごとく、戦後特攻隊の生き残りは「闇屋」になった者もすくなくなかったろう。
死ぬためにではなくて、生きるためにである。
大城立裕の短編「夏草」にみるように、死への誘惑を棄て、実際にカバネ累々の地上戦を生き延びた沖縄の人たちもいるだろう。
それまでの「当為としての死」は否定され、戦後の価値は「生きる」ことそれ自体に存在した。

戦後70年を経たいま、高齢化社会、高福祉社会への疑念と否定的情念が、戦後的価値を揺るがせているようだ。
死そしてそれに伴う暴力ないし殺戮へのひそかな欲望が、若い人々の意識の基底を浸潤している様子もうかがえる。
この短絡を、時の政府がまた利用せんとネット上の情報操作や印象操作に莫大なカネを投下しているフシもある。

しかしながら現政権とそのお友達グループが称揚する「美し(い・かった)日本」の正体は、この戦時歌謡が明示しているように、奇怪な死のドレイ・カルト(教団信仰)であって、ドレイたちが立たされたのは自滅への道に他ならなかった。
カルトとは結局のところ閉鎖、排他集団である。
「鎖国性が日本文化の主要な傾向であるあいだは、それによって日本は今日日本のもっている問題と効果的に取り組むことはできないでしょう」(鶴見俊輔「鎖国」1979『戦時期日本の精神史』所収)。

「日本」文化の鎖国性つまり夜郎自大は、江戸時代ではなく先の大戦時(つまり「昭和」期)に最も典型的に顕現した。
それは「万邦無比」であり、「国体」であり、「皇軍」であり、果ては「神兵」という言葉に象徴された。
これらは、劣等意識が転じた奇形な島国ナルシズムと言うことができる。
言い換えれば一億総カルト化(「転向」)であるが、その「空気」による強制力は、危機や衰亡の兆しに比例するのである。

1995年に「国民の祝日」となった「海の日」は、1876年の明治天皇の海路「東北」巡幸つまりは薩長による奥州制圧の完成を継承する。「海ゆかば」はその「制圧」の延長としての自滅(玉砕)歌謡であった。
ニッポン・カルト(抑圧された劣等意識)の根源にある島国性、つまり「普遍:外来×特殊:内在」の構図は、万年を単位とする地学的時間によってのみ無化されるのかも知れぬ。

声大き人は恐ろし夏の月

掲句は2017年7月9日(日曜日)の「東京新聞」1面左上の「平和の俳句」欄に掲載されたもの。
津市の田中亜希紀子さんの作。

季語「夏の月」は、日中の暑さをようやく逃れたシンボル的な扱いであるから、東京で言えば先週のうるさい選挙期間が終わってほっとした様子を想起しても見当はずれではない。

しかし、ラウドスピーカーでの絶叫連呼が象徴するのが「選挙戦」で、それがこの列島の「民主主義」の根幹に設定されているとすれば、あまりに素寒貧、というよりこれ以上の反語はない。

なぜならば、大きい声は、反デモクラシー(反民主主義)のエートス(習俗)にほかならないからである。
そうして、「論破」という行為も同じく、デモクラシーの破壊習俗である。

19世紀頃まで日本列島に遍在していたデモクラシーの根幹は村の自治であり、「寄合」であった。
それは人々が膝を交え、声高を抑え、事実と論拠を持ち寄り、何日もかけて合意を形成する、おそらくは縄文のムラからつづく「習俗」であった。

ネットによく見かける《論破する技術》などという手合いは、最初から聞く耳をもたないのであって、結局は相手を「言い倒す」暴力の謂いなのである。
このようなギャングは初手から相手にしないのが、「オトナの社会」である。

だから、いまだ見たこともなく、これから見る気もないが、「朝まで生テレビ」のような声高論破の見世物が受けるとすれば、それは檻の内と外が逆転している芝居のような書割社会にならず、見物人が座っているのは檻の中に設えられた衆愚桟敷なのである。

ついでに言えば、JR山手線ラッシュ時ホームの耳を覆うような拡声は、「東京コドモ国家」の象徴である。