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7月 10th, 2017
7月 10th, 2017
声大き人は恐ろし ―「大声」と「論破」について
声大き人は恐ろし夏の月
掲句は2017年7月9日(日曜日)の「東京新聞」1面左上の「平和の俳句」欄に掲載されたもの。
津市の田中亜希紀子さんの作。
季語「夏の月」は、日中の暑さをようやく逃れたシンボル的な扱いであるから、東京で言えば先週のうるさい選挙期間が終わってほっとした様子を想起しても見当はずれではない。
しかし、ラウドスピーカーでの絶叫連呼が象徴するのが「選挙戦」で、それがこの列島の「民主主義」の根幹に設定されているとすれば、あまりに素寒貧、というよりこれ以上の反語はない。
なぜならば、大きい声は、反デモクラシー(反民主主義)のエートス(習俗)にほかならないからである。
そうして、「論破」という行為も同じく、デモクラシーの破壊習俗である。
19世紀頃まで日本列島に遍在していたデモクラシーの根幹は村の自治であり、「寄合」であった。
それは人々が膝を交え、声高を抑え、事実と論拠を持ち寄り、何日もかけて合意を形成する、おそらくは縄文のムラからつづく「習俗」であった。
ネットによく見かける《論破する技術》などという手合いは、最初から聞く耳をもたないのであって、結局は相手を「言い倒す」暴力の謂いなのである。
このようなギャングは初手から相手にしないのが、「オトナの社会」である。
だから、いまだ見たこともなく、これから見る気もないが、「朝まで生テレビ」のような声高論破の見世物が受けるとすれば、それは檻の内と外が逆転している芝居のような書割社会にならず、見物人が座っているのは檻の中に設えられた衆愚桟敷なのである。
ついでに言えば、JR山手線ラッシュ時ホームの耳を覆うような拡声は、「東京コドモ国家」の象徴である。