Archive for 10月, 2017

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白泉抄14 紅蓮の國

秋の日やまなこ閉づれば紅蓮の國

『疾走する俳句 白泉句集を読む』(中村裕)によれば、「昭和四〇年代」の作と言ふ。
ただちに想ひ起こさるは三橋敏雄の いつせいに柱の燃ゆる都かな なり。

中村氏白泉は敏雄の句を「当然、読んでいただろう」と記す。後者は『まぼろしの鱶』(敏雄、一九六六・昭和四一年)収録と言ふ。一九四〇・昭和一五年の逮捕、執筆活動停止命令以降、俳壇に疎隔、戦後も孤立の途を歩みし白泉なるも、同書出版記念会(同年一〇月)は参席せる故然るべきことなれども、これ等いずれがいずれを参照したるか或は触発されしか、句作時期のまへあと明らかなりと言ふべからず。

白泉死後未発表の戦後句を含むその自筆稿印影本、敏雄の尽力にて発刊されしは一九七五・昭和五〇年にて、白泉敏雄親交薄からざるものありき。敏雄句の白泉句に触発されし可能性なしと断言し得ぬなり。

とまれ冒頭句「秋の日」は八・一五にして瞼裏の回想なり。所謂終戦記念日における、列島の主要部に投下されし核爆弾を含む大規模にして広範な都市空爆の想起なり。然して大戦末期の米軍空襲により、一時なりとも「紅蓮」と化したるは「國」そのものなりき。

対して敏雄句の描くは「一都」すなはち東京なり。朱塗柱の列せし平城、平安に繋がる「帝都」の木造家屋、開発されしナパーム弾効果の極めて高かりしこと掲句の描くごとく、電柱も併せ「いつせいに」燃焼、劫火となりて旋風を生じたり。白泉「國」を詠み、敏雄「都」を描く。視座の落差明らかなり。

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傾城之墓 西国分寺

JR中央線西国分寺駅改札北北東約260メートル、開析谷壁斜面すなはち恋ヶ窪の窪地西端に、真言宗豊山派、武野山広源院、東福寺あり。

寺伝に鎌倉時代初期および享禄元年(1528)開創とあり、元和7年(1621)享保10年(1725)中興と伝ふ。
多摩八十八ヶ所霊場二十八番なりといふ。
旧鎌倉街道に面し、さらに300メートル北に熊野神社ありて東福寺その別当寺なりき。
其の鎌倉街道東200メートルほどには、並行せる古代官道東山道武蔵路の遺構あり。

東福寺境内斜面下に傾城之墓および傾城墓由来二碑あり。
以下由来碑読み下し、またその写真を添ふ。
●一字不詳なり。
教示を乞ふ。

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白泉抄13 桐一葉

桐一葉あるいは一葉、桐の秋、初秋の季語とさる。
「見一葉落、而知歳之将暮(一葉落ツルヲ見テ歳ノ将ニ暮レントスルヲ知ル)」(淮南子)に拠るといふ。

落葉広葉樹「桐」に、シソ目のキリ科のキリ(Paulownia tomentosa)とアオイ科アオギリ属のアオギリ(Firmiana simplex)の二種あり。いずれも東アジアの産なるもアオギリは南方の木なり。

北魏の『斉民要術』前者を白桐、後者を青桐また梧桐に書く。両者広卵型落葉なるも梧桐は掌状三~五に浅裂す。連歌時代は桐ならざる落葉含む例ありとしも「一葉」は次第に桐に定まると。ちなみに『日本大歳時記』(講談社、一九九六)には「柳散る」を仲秋、「銀杏散る」を晩秋に分く。

桐箪笥の桐、鳳凰の桐、紋章五三の桐、これらの桐はキリ科のキリすなはち白桐なるも、古来中国にて季節感を表現せしはアオイ科アオギリ属の梧桐にて、「秋雨梧桐葉落時」(白居易「長恨歌」)その端例なり。

如何あれども一葉は広葉なり。掌ほどに広くかつ重く、葉柄を付したるまま、ガサリ音たてて落下す。
桐一葉落ちて心に横たはる(渡邊白泉)。

昭和四〇年代の句作てふ。心底に横たはるもの、柳や柞(ははそ。コナラ・ミズナラなど)の小落葉にあらず。

「桐一葉日当りながら落ちにけり」(虚子)、「桐一葉月光噎(むせ)ぶごとくなり」(蛇笏)。この二句いづれもつくりごとの感否めず。枯広葉のガサツと落下速度を知らず、「つりがねの肩におもたき一葉かな」(蕪村)も同然也。

「螺線まいて崖落つ時の一葉疾し」(久女)よし。