芳賀ひらく著『武蔵野地図学序説』
A5判 オールカラー 図版150点 213ページ
ISBN978-4-422-22017-8 創元社 本体価格3000円
2025年2月10日刊
目 次
第1章 武蔵野の東雲
はじめに/ターミノロジー/気候変動と「武蔵野の誕生」/古代・中世の武蔵野空間認知
第2章 古地図と崖線
地図の時制/植生地図・開析谷・ハケ/「国分寺崖線」の誕生と誤解
第3章 最古の武蔵野図
低地の武蔵野/空白の武蔵野/最古の武蔵野図
第4章 ヤマの武蔵野
武蔵野の「山」/ムサシノAとムサシノB/武蔵野のイドとミチ/武蔵野のツカ
第5章 ミチの武蔵野
線分のミチ/オブシディアン・ロードとジェイド・ロード
第6章 ムラヲサの武蔵野
防人歌/長者原遺跡/線刻画縄文土器
第7章 地名の武蔵野
長者地名・殿地名/地点地名・領域地名/地点地図・領域地図/南下する「都ヶ谷戸」
第8章 地名の武蔵野・続
「殿ヶ谷戸立体」の出現/地名の発生と展開/駅前集落注記/四つの谷戸、そして補足
第9章 彼方の地図と地図の彼方
リアル・マップ/イマジナリー・マップ/地図の定義をめぐって/地図からスマホ・ナビへ/武蔵野の地図と文学
第10章 淵源の地図
地図は国家なり/淵源の地図/江戸後期×明治初期/「フランス式」の残照
第11章 武蔵野のキー・マップ
国絵図と村絵図/輯製二十万分一図と迅速測図/読図の作業とベース
第12章 伝承と伝説の武蔵野
自然災害伝承碑/辺境の橋と国分寺崖線/一万分一地形図/二枚橋伝説/坂と馬頭観音/ふたたび二枚橋伝説
終章 「武蔵野」の終焉と転生
「歴史地図」から「古地図」へ/武蔵野の終焉/武蔵野の転生と身体の地図
あとがき 初出一覧 索引
しかしながら「天日燦として焼くがごとし、いでて働かざるべ可らず」を含む詩篇自体は、依然として不明である。
草野心平が暮鳥詩の題詞を碑文を選んだだけで、典拠究明の労をとらなかったのは、それが既に不可能となっていたためかも知れない。
一方、その言葉をエピグラフにした長詩「荘厳な苦悩者の頌栄」は「神様/神様」ではじまり、「その人間です/おゝ新しい神様」で終る。
wikipediaは「結核のため伝道師を休職」と書くが、楽園を追放されたアダムとイブの裔として、山村暮鳥は神を棄てたのである。
混沌の言葉は、楽園追放者の逆転の自負であった。
しかし失職と病(結核)とで窮迫した暮鳥一家のために混沌が苦心用意した新居は、麓の村人たちの怒声によってわずか10日で空家となった。
その4年後の1924年、暮鳥は茨城県大洗町の借家で病没する。享年41。
一方混沌はともかくも戦後まで生きながらえ、晩年の2年余りは寝たり起きたり、認知症の末に没したのは1970年の4月10日、76歳であった。
草野心平が主宰する『歴程』の混沌追悼号は、その年の8月である。
せいは同年の11月から翌々年にかけて『いわき民報』に「菊竹山記」を連載、かつ1971年に歴程社から『暮鳥と混沌』が発刊されるも300部限定であった。
友人らの奔走努力によって、吉野家の畑の一隅に詩碑が立てられたのは、逝去2年後の1972年4月。
心平が酔いと衒いにまかせ、せいの両手を握って「あんたは(自分の作品を)書かねばならない」と命じたのはその除幕式の後であった。
串田孫一が彌生書房の津曲篤子社長の編集顧問だった縁で、同書房から『洟をたらした神』が刊行されたのは1974年11月。
翌年それが田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞し、せいはたちまち時の人となり、『暮鳥と混沌』も同社から再刊された。
せいの死去は1977年11月、享年78であった。
ひとは混沌を生活力なく、家業一切をせいに押し付けてその創作の機会を奪ったように評し、せいもまた憎むことが人間の本性のように書いているが、そのまま受け取るのは過誤というものである。
「夫婦というものはわけがわからない」(佐野洋子)のである。
戦後の農地改革の小作側委員として、混沌は文字通り身を投げ出して福島県全域を歩いた。
せいの浴びた光の影で、混沌の足跡を解明しようとする者は、いまだ不在である。
下掲は『歴程』三野混沌追悼号掲載写真と、「菊竹山」エリアが描かれた最古と最新の2万5千分1地形図「常磐湯本」の一部。
地図上は1976年測量・現地調査(ただし使用空中写真は1973年)・発行、下は2018調製・発行図。
菊竹山頂は両図の上辺中央、三角点105.3メートル。
吉野宅は、同「沢小谷」の「小」の文字の北、送電線との間の一軒家。
「沢小谷」の文字の東方(右)の卍マークは、菊竹山の元地主にして吉野家の墓のある龍雲寺である。
「その角を左にまがって、つきあたりを右」を念頭に歩くと、奥の人家の庭先にそれらしきものが目についた。
新藤謙の『土と修羅 三野混沌と吉野せい』(1978年)239ページ掲載写真を見ていなかったら気づかなかったかも知れない、結構大きな碑である。
碑文はご覧の通り「天日燦として焼くが如し 出でゝ働かざる可からず 吉野義也」、草野心平の筆である。
書き文字の評価はさて措き、文が混沌詩の一部分であることは明らかだが、全体はとなるとこれがわからないのである。
吉野せい『洟をたらした神』の1篇「信といえるなら」は碑の建立にまつわる話だが、碑文そのものには言及しない。
同『『暮鳥と混沌』(1975年)の本文にも、巻末の「跋」「三野混沌の葬儀に列す」「混沌忌」(以上3篇、心平執筆)にも、これに触れるところない。
三野混沌が詩を書いていたことは確かで、しかもその量たるや膨大なものだったと思われるが、正面からそれをとりあげ論評しようとする者はいないらしい。
手をつくして調べると、山村暮鳥の詩集『梢の巣にて』(1921年)にそれは見出された。
そのなかの1篇、「荘厳なる苦悩者の頌栄」という160ページから253ページにわたる長詩のタイトルの傍らに、小さな活字で「天日燦として焼くがごとし、いでて働かざる可からず ーヨシノ・ヨシヤー」が添えられていたのである。
せいの『暮鳥と混沌』巻末の「山村暮鳥・三野混沌 略年譜」には「混沌のノートから暮鳥はときどき詩やことばを抜き出して『いばらき新聞』へ掲載した。「止してください」「おそれるな」という会話がくりかえされた」(144ページ)と記す。
また詩誌『歴程』の143号(1970年8月、三野混沌追悼号)の、せいの手になる「三野混沌略歴」の「大正八年」(1919年)の項には、「詩稿を浄書してまとめる。「太陽はひとりで輝く」」とあるから、あるいは暮鳥はそこからとりだして自分の詩のタイトル部に添えたのかも知れない。
混沌の詩集として刊行されたものは『ここの主人は誰なのかわからない』(1932年)と『阿武隈の雲』(1954年)のほかには、薄い『開墾者』(1926年)があるだけで、それらも今日では閲覧も簡単ではなく、またこの碑文と直接かかわりないことは明らかである。
この文を碑に刻もうと決めたのは、草野心平だったろう。
しかし「最初に」、それも建碑(1975年)から半世紀以上も前にepigraph(題詞)としてそれを「選び出した」のは、山村暮鳥だったのである。
また、あるいは百年も前の『いばらき新聞』をめくれば、この言葉がどこかの隅に見出されるのかも知れない。
水石山は常磐線いわき駅の北西約10キロメートル、山頂は標高735メートルで一帯は公園とされ市街全域を眼下にする。
原稿を読んだ串田孫一をして呆然、震撼せしめた、吉野せいの作品集『洟をたらした神』(1975年、彌生書房刊)中の一篇のタイトルでもある。
写真は、いわき市内を流れる好間川(よしまがわ)中流の沢小谷(さわごや)橋から、正面奥右が水石山。
橋柱に1972年11月30日竣工とあるから、1977年11月に78歳で亡くなったせいは、この新しい橋の上で山を望見したこともあったはずである。
先の日曜日、拙著上梓と冬季講座前の隙間、日帰りでいわき(もと平)に出掛けた。
三野混沌(本名吉野義也)の碑を目にしておくためである。
いわき市の観光サイトはそれについて「三野混沌の詩碑 作家・吉野せいの夫であり、農民詩人。せいと共に開墾した菊竹山に詩碑があり、草野心平による揮毫」とし、所在地を「いわき市好間町北好間上野地内」と記すのみ。
google mapにも掲載されない碑で、「北好間上野」はいわき駅から徒歩1時間はかかるらしい。
車ももたず、ライセンスも返上した後期高齢者に頼れるものはバスしかない。
駅前で1時間ほど時間をつぶして乗車、見当をつけた停留所で下り、標高十数メートルの好間川左岸に沿って歩く。
目指すはこの写真の右手、標高104メートルの菊竹山の裾で、同53メートル前後に広がる開拓地の一画である。
「ヒートテック」の汗に濡れながら600メートルほどの坂道を上りきったのはいいが、さてその碑はどのあたりか。
上野地区の公民館を頼りとするも、それ以外は一向に分からない。
傍らの空き地で飼い猫を遊ばせていたらしい女性に「石碑」について尋ねると、「吉野せいさんの」と言って教えてくれた。
ああやはり三野混沌の、ではないのだな。
知人が奥多摩でワサビ栽培に従事して、15年ほどか。
昨年はよい出来で都知事賞ももらい、その祝いと再婚新居披露も兼ねた新年餅つきに招かれた。
ご丁寧なお土産は伸し餅とワサビ。
もらったワサビを堪能した後、首のところを水栽培したら白い小さな花が咲いた。
ワサビ栽培は山仕事だから、助けになるか邪魔になるかわからないが、そのうちまた訪ねてみたい。
足腰がまだ立つうちに。
ちなみに女房は葉付大根を買ってきて葉でフリカケをつくり、首のところはワサビのように水栽培し、新葉が出揃ったところでベランダのプランターに植えている。
65万3千㎡の広さで東村山市、小平市、東久留米市の3市にまたがる都立小平霊園は、西武新宿線小平駅から徒歩6分のアクセスで1948年に開園。小川未明、壷井栄、加藤周一、伊藤整、宮本百合子らが眠る。競争率約80倍のところ初回の応募で連れ合い共に合葬墓の使用権を得た。写真右上の森は小平霊園内の保存樹林地「さいかち窪」で、東久留米市の称のゆかりとなった黒目川の源流地。(2024年9月15日撮影)
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2024年も束の間の如く、知人の訃報がつづき拙著『追悼自余 増訂版』を7月に上梓しました。早稲田大学エクステンションセンターでの年4回の講座「23区の微地形」はようやく16番目の豊島区まで終了、完結まであと2年ほどのところに漕ぎ付けました。この2月初めには、雑誌連載を改編増補した拙著『武蔵野地図学序説』が創元社から出版される予定です。
皆様のご自愛とご清祥そして変わらぬご厚誼を念じ上げます。
2025/01/01