Archive for 8月, 2017

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謬説wikipediaと出版文化の凋落

学生ならずとも、ほとんどの「説明」はwikipediaでこと足りるとする時代となった。
ネット時代の圧倒的な利便性の賜物である。
紙文化世代末尾としてのわれわれの役割は、せいぜいがその落とし穴への注意喚起であろう。

授業ではとりあえず日本語wikipediaの明白な誤りや矛盾、ないし根拠薄弱やその欠落を指摘したら、成績評価のポイントに加えることにしている。
履修期間、レポートのときどきで、結構反応があるから面白い。

以下は「wikipediaの誤りないし矛盾」の一例である。
昨今巷に流行の都市地形や都市地誌に関連して、ここでは「神田上水」をとりあげる。
神田上水は近世江戸草創期に創設された江戸市中の給水施設であるが、wikipediaでは以下のような定義ないし概括としている(2017年8月31日閲覧)。

「神田上水(かんだじょうすい)とは、江戸時代、江戸に設けられた上水道で、日本の都市水道における嚆矢である。江戸の六上水のひとつであり、古くは玉川上水とともに、二大上水とされた。」

この後に「天正日記」からの引用とそれをもとにした記述が並ぶのであるが、「天正日記」自体が偽書とされていることについて、つまりその引用の当否はここでは云々しない。いま問題とするのは「日本の都市水道のおける嚆矢である」と断言している点である。

「嚆矢」は「ものごとのはじめ」であるが、「日本の都市水道」をどのように定義するかで話はまったく別になる。
すなわち古代の飛鳥、奈良の都からあたりから話をはじめなければならないかも知れないのだが、関西の話はさておいて、関東にかぎってみても都市水道のはじまりが江戸でなければならない必然性はないのである。

wikipediaの「小田原早川上水」の項を見てみよう。

「小田原早川上水(おだわらはやかわじょうすい)は、早川を水源とし、神奈川県小田原市内を流れる上水である」と概括し、その後に「正確な成立時期は不明だが、北条氏康(1515年 - 1571年)が小田原を支配した頃に小田原城下に水を引き入れるために成立したものと考えられている。1545年2月に小田原に立ち寄った連歌師の紀行文『東国紀行』中にこの上水に関する記述が見られることから、それ以前には成立していたものと推測される。それ以前にこの上水以外の上水の成立が日本国内で見られないことから、日本最古の水道とされる[1]」(同前)としている。「1 石井啓文『小田原の郷土史再発見』夢工房、2001年」の文献根拠付である。

神田上水の草創につては前述のように根拠(文献)は薄弱で一次史料としては無に近く、しかも徳川家康の江戸入府(1590年)以後であることは確実であるから、すくなくとも小田原早川上水が神田上水より半世紀近く前に設けられた小田原城下上水施設で、中世末期から近世にかけての日本都市水道の「さきがけ」であることは明らかである。

江戸言説もいい加減に道灌伝説や家康伝説から抜け出して、正当に江戸氏時代や北条氏時代をさぐるべきであろう。神田上水以前の「小石川上水」が、北条氏の江戸城下の水源であったかも知れないのである。「水道橋」がなぜあの位置、つまり神田三崎町下に存在するかについて触れたものも寡聞にしていまだ知り得ない。
いずれにしても現今のwikipediaの神田上水の記述は「正しさ」にはほど遠く、「東京一極ジャーナリズム」に影響されたひとりよがり話と笑われても致し方ないであろう。

「誤り」という範疇からは外れるが、「百科事典」記述上問題となる不適切文例もひとつ挙げておこう。これも地名がらみであるが

「お花茶屋/地名の由来[編集]/江戸時代、江戸幕府八代将軍の徳川吉宗が鷹狩りに興じていた際に、腹痛を起こした。その時、名をお花という茶屋の娘の看病により快気したとの言い伝えがある。この出来事により、現在の地名を賜ったとされている。」(同前)

この文章では、「お花」というのが「茶屋」の名なのか「娘」の名なのかが判別できない。
常識的には、「お花」という名の娘がいた茶屋であろうが、それを確たるものとするためには「その時、茶屋の娘お花の看病により快気した・・・」と書かなければならない。

wikipediaが具体的にどのようなしくみで運営されているのか承知しないが、私もその利便に与っていることは確かである。だからそのシステム維持のための寄金には僅少ながら協力している。しかしウラの取れていない謬説が大きな顔をしていたり、権力意志やおおきな金が裏で動いていると推測される姿にしばしば遭遇する。顔の見えないネット情報は、基本的に無責任であり、闇世界であり得る。

これに反して、紙の出版文化は一般的に著作者名やその略歴を記載し、場合によってはその顔写真さえ掲載される。だから「顔が見える」。一見して、責任の所在が明らかである。
ところが昨今ではテレビ・雑誌はおろか書籍においても、ウラのとれていないネット情報をもとにしながら、適当な参考文献名を並べて体裁をつくろった「本」、あるいは先行研究を切り貼りしながら、典拠を示さずカラー図版付でオリジナルを装った「駄本」のたぐいが次から次にプロダクツされている。
書店店頭は、業界諺「柳の下にドジョウ6匹」どころか1ダース以上のドジョウが常に棲息している様相である。だから書籍も「文献」ないし「根拠」たりえるものとそうではないものとに二分され、前者は圧倒的に少数で書店で見かけることもあまりない。現代日本の出版文化の「主流」は、緩慢な自殺に向かっていると言っていいのである。

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農耕牧畜と国家の終焉

農耕牧畜と国家の起源は近接しているか一致している。
国家の定義によって大分異なる面が出てくるだろうが、いずれにしても農耕牧畜社会以前の狩猟採集社会に国家が存在し得なかったことは確かであろう。

農耕牧畜(業)社会から工業社会へ、そして情報業社会へと、社会変容は単純化してとらえられる。
このプロセスモデルのいずれにおいても、国家は存在している。
しかしながら、ホモサピエンスの出アフリカは約20万年前。
農耕牧畜が開始されたのは約1万2千年前とされるから、「人類史」のなかでそれは圧倒的に短い時間である。
国家も同様に、まったく最近の発生体に過ぎないのである。

そうして、農耕牧畜に基盤を置いた(今なお基本的にはそうであるが)人類史の「歴史時代」は、例外的に温暖で安定した気候の賜物だった。

この安定期が破られるとすれば、それは近年の人為がなせる「地球温暖化」の結果ではない。
自然は、いかなる人為をも凌駕する。

かつて人類史の圧倒的な時間を覆っていた氷河期。
それは激烈な寒冷と温暖が交代する「異常気象」の常態期を意味していた。
平野はたちまちのうちに海面下となり、それは幾度も繰り返される。
豪雨も旱魃も、豪雪も間断なくやってくる。
「異常気象」の常態期に、農業も牧畜も存立することはそもそもあり得ない。
生存できる人間も、多様な生物に紛れ、そのなかで許容された数でしかあり得ない。
そこでは国家はもはや意味をなし得ない。

農耕牧畜文明社会は、人類史の「発達」によって誕生したのではない。
それは、「たまたま」の条件のもとで発生した、つかの間の「繁栄」にすぎないのである。

中川毅『人類と気候の10万年史』(2017)を読んで、そう思った。

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評林 白泉抄11

「敗戦」を「終戦」、「占領」を「進駐」、果ては「事故」を「事象」と糊塗するごとき「精神勝利法」(『阿Q正伝』)の亜流に異ならず、大陸はいざ知らず斯くの如き欺瞞今日の列島に通用せること怪しき様なり。然れども当1945年(昭和20)、32歳の白泉「終戦」と前置し次の句をものしたり。

新しき猿又ほしや百日紅

此の句につき、銅版画家にして詩人なる橋本真理その著『螺旋と沈黙』(1978、大和書房)に「埒もない木登りをしては失墜する猿に天皇制を託した暗喩」の誤読を認(したた)む。而して中村裕氏「その読みも可能だ」と誤釈を肯んぜり。曰く「「猿又」は、「猿股」と「猿、又」の両様の解釈ができるようにこれをつくったのではないだろうか」と(『疾走する俳句 白泉句集を読む』2012年、70頁)。

然(さ)り乍(なが)ら此れ全くの誤読なり。敗戦当座列島世相は「神州無敗」「大日本帝国教(カルト)」崩壊に茫然自失、解離症に陥りしこと、俳壇の大ボス高浜虚子の「秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ」てふ無惨なる終戦句に明らかなり。そも「新しき猿」とは何ぞ、新種の猿人ならんか。「国体」すなはち「天皇制」護持され、退位もせず、「失墜」もとよりなし。白泉斯の如き政治少年少女の「深読み」と元来無縁なり。

「猿股」は江戸時代より列島に着用ありし男子の短ももひきにて、当句においては「娑婆」の象徴なり。その対極にありしは陸海軍入営時1人3本給さる「制服」越中褌(ふんどし)にて、当褌を含め官品紛失は営倉ものにて候ひき。「猿又」(=猿股)は、1944年6月横須賀海兵団に応召入隊、函館黒潮分遣隊にて敗戦の「玉音」を耳したる白泉の胸中に湧き上がりし「物象」に他ならず。

然してサルマタよりサルスベリに直行する駄洒落諧謔、日本教(カルト)の愁嘆場を無化、脱化、茶化して余りあり。これひとり生理或は生活上の皮膚感覚を梃に「終戦」に対し得たりと言はざるべからず。「大衆の原像」(吉本隆明)なるものありとせば斯かる諧謔にこそ其の裳裾を見ん。「8・15」を率直と卑近に現前せしむ名句と存じ候。