溢れ出てきた水は、甘かったか、辛(鹹)かったか。
というのも、その西隣に位置する「神田一橋中学校」の江戸遺跡発掘現場から出土した上水樋には、びっしりと牡蠣殻が付着していたという話があり、また一方では、日比谷のDNタワー(占領中の日本の政治中枢が位置していた旧第一生命ビル)新築工事には、塩水が湧いてきたそうで、それならば旧神保屋敷辺の地下はどんな「塩梅」だったかとこれまた興味そそられるところであるからです。
昭和34年に「東京地盤調査研究会」の名で出された『東京地盤図』という大冊があります。
等高線とボーリングした地点を明示した地図、およびそのボーリング結果の土質柱状図から構成されている本です。これも今となっては「古地図」の類かもしれませんが、神保町のあたりを参照すると・・・。
図の下半部、右下「神保町二丁目」の「目」という文字にかかる一本の等高線がみえますね。
この等高線の表している標高は、周りの数値記載から判断して「18」とかんがえられます。
標高18メートル?、いえいえそうではありません。この朱色の線であらわされている等高線は、実は「尺」を単位としたものなのです。
陸軍-陸地測量部系統の地形図は「5万分の1」でよくしられていますが、それにかぎらず、陸測系地形図の等高線の単位はすべて「メートル」で記載されます。
それに対して、これは「尺」。系統が違うのです。こちらは旧内務省系。内務省には旧幕技術官僚の系譜が生きている。それが戦前の都市計画図まで影響を及ぼしている。この図は「尺」等高線なのです。
そうして、この「尺」等高線は、陸測が放棄した旧市街の地形についてもよくその凹凸を記入してくれている。東京の旧市街を見るには、これまで等閑視されていた旧内務省系の地形図にあらためて注目する必要があるでしょう。
で、このあたりの標高は18尺。すなわち約5.4メートルということになります。
その左側、「九段一丁目」の同じく「目」という文字にかかる等高線がありますね。
この線に記入されている数字は「10」にみえますが、他の標高数値から判断して、等高線間隔は「6」(6尺=1間=約1.82m)ですから、これは正しくは「18」。
この2本の線が意味しているのは、この線の間が標高数メートル以下の「谷」であるということです。
名付けて「神保町谷」。
「東京地盤図」の一部
ここに至って、漸く「神保町草創の地」にたどり着いたようです。
岩波書店のサイトによれば、創業は1913(大正2)年8月5日。岩波茂雄が神田高等女学校(現在の神田女学園)を前月に退職して「南神保町16番地」に開いた古書店がそもそものはじまりと。
「南神保町16番地」ならば、靖国通りに面した現在の「岩波ブックセンター」のあたり。
その後夏目漱石の自費出版と言われる『心』を契機に岩波は出版業に転じて順調に業績を拡大し、手狭になった編集部を現在本社ビルのある地に移転して「一ツ橋事務所」と称したのが1929(昭和4)年10月9日。
この一ツ橋事務所の建物は、旧東京高等商業学校(現一橋大学)の校舎の一部で、それは三井が寄付したものだったため、俗に「三井ホール」と呼ばれたとは有名な話。
「東京市神田区」(東京逓信局、大正9年)の一部
そもそも「一ツ橋」地区にあった東京高等商業学校が多摩地区の国立(当時谷保村)に移転するのは1927(昭和2)年から1930年にかけて。この移転を仕掛け、「仕事」としたのは堤康次郎率いる箱根土地株式会社です。
旧高商移転にあたって、移築不可能のこの建物は一旦寄付した三井に返還手続きがとられ、箱根土地がこの一帯を更地にして分譲することになりました。
当然この建物も解体の危機に瀕したわけですが、どういうわけかこの建物を生かした分譲に変更されて、岩波がそれを入手していますが、それがどのような経緯かはわかっていません。
ともあれ、岩波の本拠地となった旧東京高等商業学校の校舎は遠藤於兎設計1916(大正5)年竣工の2階建ながら鉄筋コンクリートビル(3階部分を戦後増築)。ちなみに遠藤の代表作として著名な建物に「東京日日新聞社ビル」および「三井物産横浜ビル」がある。
昭和4年の秋からは、そのエントランス上部に漱石揮毫の「岩波書店」の額(現在岩波書店の新聞広告で目にするもの)が掲げられていたのでした。
旧「三井ホール」跡地には、現在の岩波本社ビル裏手(表?)の14階建岩波書店一ツ橋ビル(1993:平成5年竣工)が建設されています。
現在私たちが親しい「岩波」は、この神保邸跡の岩波本社・一ツ橋ビルではなく、靖国通りに面した「岩波ホール」や「岩波アネックス」ビル1階の「岩波ブックセンター」でしょう。
「岩波アネックス」のあたりが岩波書店草創の地ですが、1981年に竣工したこの8階建賃貸オフィスビル「アネックス」の建設基礎工事にあたっては、水が湧いてきて困った、とは岩波OBが同僚から聞きおよんだ話。
では、「一丁目」を付したのは誤りだったとして、「南神保町十番地」だったらどうなるのか。その位置を拡大図で確かめてみましょう。
この「10」番地を今日の地図で見ると、靖国通り南側の「北沢ビル」の辺りに相当するようです。
先の近江屋板江戸切絵図に照してみると、どうでしょう。
現代図と比べるために、天地を逆にして、切絵図の一部を拡大します。
左側、田安門先の九段坂を下って、牛ヶ淵の北に沿い、靖国通りは俎板橋を渡ってまっすぐに東に向かうのですが、ご覧の通り切絵図にはそもそも貫通する通りがない。
けれども九段坂から「マナ板橋」のラインを延長すると、「裏シン保小シ」に連結してさらに東に向かう。
つまり、「裏神保小路」が後の「靖国通り」の一部となると言ってよさそうです。
そうして、「神保伯耆守」屋敷はこの「裏神保小路」ではなく、その南側の「表神保小路」に面していて、「一ツハシ通小川丁」と「雉子橋通小川丁」で東西に画されたブロックの一部、松平紀伊守屋敷の裏側にあたるのでした。
この位置関係を明治の番地図に落してみると、神保屋敷は「南神保町」ではなくて「一橋通町」の八番地辺になるでしょう。
さらにこれを現代の地図に引きうつせば、そうですね、「さくら通り」の南側、岩波書店本社ビルの西側あたりに該当する。
その6の地図のサムネイルをクリックして拡大すると、左右2枚の図を接合していることがわかりますね。
左(西)は「東京実測全図」の「二幀」(東は小石川-北の丸、西は戸塚-内藤新宿の一部まで。明治18年5月版権届、同20年4月出版。天地約63センチ×左右約90センチメートル)、右(東)は同「六幀」(川向うの両国から、本郷-大手町の範囲。明治18年5月版権届、同19年3月出版。大きさは前出にほぼ同じ)より、それぞれ部分を取出してくっつけたものです。
拡大図の左下に横たわる江戸城内濠のなかに、近衛歩兵営、その東に近衛砲兵営とありますね。前者は現在の北の丸公園、後者は警視庁第一機動隊がある場所です。
これが明治初年の近衛兵反乱「竹橋事件」(明治11年)をはさむ時期に測量、作成された地図と考えると、また別の視点から詮索もしたくなりますが、それは我慢して、この接合図の真中に「一橋通町」とあるのがおわかりでしょうか。その上(北)にみえるのが「南神保町」なのです。
「一橋通町」「南神保町」だけでなく、周りの「表神保町」「裏神保町」「猿楽町」「今川小路一丁目」等々の「町」はすべて明治5年に起立。
というのも、この辺は「武家地」ですから「町」ではなく、したがって「町名」(地域名)も、明治5年までは俗称でしかなかったのです。
さて、ようやく全ての土地に地名が付いたのですが、『神田文化史』に言う「南神保町一丁目」というのは見当たりませんね。
しらべていくと、この地図に見える町名が昭和一桁の時代までつづき、同9年にこの一帯は「神保町一丁目」から「同三丁目」に再編成され、「南神保町」は「北神保町」や「一橋通町」などとともに「神保町二丁目」に取り込まれて今日に至ります。ただ、途中でどういうわけか「神田」を冠せられ(昭和22年)て「神田神保町二丁目」ということになるのでした。
ですから、つまり、「南神保町」はあっても、「南神保町一丁目」という称は、存在しなかった。
神保町から発して、小川町の出自を詮索しなければならなくなったわけですが、その前に元に戻って、まずは神保町の源・現位置を確認しておいたほうがいいでしょう。
「神保町」という呼称は、神保屋敷表門が面する小路を「神保小路」と俗称したことに起源をもつのは確かだとして、神保邸の位置は『神田文化史』によれば「旧南神保町一丁目十番地」であると。フム、昭和10年頃に言う「旧」とはいったいいつごろの話か、大分漠然としていますが、チェックする手段がなくはない。
下に掲げるのは、「東京実測全図」(1:5000。初版名「東京市三角測量図」)の一部です。
この地図は、内務省地理局が明治5年に測量に着手したのですが、火災でその成果を焼失、また市区改正や市街地の変容などのため、完成まで10年を経、漸く明治19年から21年までの間に全15鋪(枚)が刊行された、近代初頭に作成された首都の大縮尺精密地図群として著名なものです。
言うまでもなく、土地制度は江戸時代と明治以降はまったく異なります。その画期は明治6年の「地租改正」で、近代的土地所有ということになり、所謂「地番」が誕生したのですね。
内務省地理局がこの地図の完成に精力を注いだのは、徴税の必要があったから、という説がありますが、どうでしょう。確かに現在の区分地図帖でもめったにない、大縮尺ではありますが、地租算定のための資料としてはとうてい不足である。地積台帳にはなり得ない。
ただし、「地番」によって「場所」をアイデンティファイするには欠かせないもので、その証拠にこの図は明治末期、大正期、昭和戦前期と出版される「郵便地図」のベース図となるのです。
いずれにしても、首都の細部まで漏れなく把握する必要のある新生政府にとって、欠かせない基本図であったことは確かです。
そうして、「東京実測全図」は、今日からみれば明治も前半期、地表のありようとしてはいまだほとんど幕末と地続きである黎明期東京の街に「地番」の網をかけた、最初の精密地図として大変重要な意味をもっているのです。
首都の「地番」を追うためには、まずはこの地図から出発しなければなりません。
『神田文化史』に紹介されている神保家の由緒書によれば、「小川町」(おがわまち)がというものが古くから存在し、そこから新たに「神保町」(じんぼうちょう)が分岐した、あるいは「神保町」は「小川町」の一部である、つまり「小川町」は「神保町」を含む広域地名である、ということになります。
地名というのはやっかいなもので、そもそも、なぜ「おがわまち」であって「おがわちょう」ではいけないのか。逆に、「じんぼうちょう」は「じんぼうまち」ではいけないのか。いくつかの原則があげられるようですが、索引をつくる身になってみれば、現旧の「町」の「よみ」ほど確認に手間どるものはほかにありません。
けれどもとにかく、現在では「小川町」は駿河台下に一丁目から三丁目、「神保町」はその西隣に一丁目から三丁目が存在し、今日ではそれぞれ頭に「神田」を冠(かぶ)せられている。
つまり、「小川町」と「神保町」は、地名としては同格の別物である。
ちなみに、現在の神保町をとりまく近隣地名をあげてみれば、小川町の北には「駿河台」(するがだい)、反時計廻りに「猿楽町」(さるがくちょう)、「西神田」(にしかんだ)、「三崎町」(みさきちょう)、「九段北」(くだんきた)、「九段南」(くだんみなみ)、「一ツ橋」(ひとつばし)、「錦町」(にしきちょう)ときて一巡する。
このうち、旧神田区を示す「神田」を頭に付けるのは、先にあげた小川町と神保町のほかに、錦町がある。
『東京区分地図帖』(昭和41年新版、同52年38版、日地出版)から「千代田区」の一部
現在、地表平面に同格で並んでいるこれら「地名」も、その来し方を時間の地層に探ってみれば、また別の相貌を露出するかもしれません。
そうして、人間も建物も、現在ほどひしめいていたわけではない近代以前にあって、地名が指し示す地域の範囲は、あるいは漠然とし、もしくはおおらかで、そもそも「住所・地番」という微細な土地所有あるいは行政区画表示は存在しなかったという事実も、「地名の時間」を探る場合には念頭におくべきでしょう。
ともかくも小川町が神保町を含む広域地名だとして、しかしながら今度はその小川町自体が、『御府内備考』では、元来が三崎村付属の「田畑」で、江戸開府後幕府の鷹匠(たかじょう)が多く住んだために「元鷹匠町」と呼ばれ、元禄6年(1693)9月11日に「小川町」と改称されたとされているのです。
先に挙げた『神田文化史』の記述とは大いに矛盾する。なにせそこでは「小川町」が長禄すなわち太田道灌時代からの地名だと主張している。けれどもその根拠が示されているわけではない。
「神保町」の町名について、『神田文化史』(中田薫著、1935年)は次のように記述しています。
「神保町町名の起源は幕臣神保長治が元禄二年三月、神田小川町の邸地九百九十五坪(旧南神保町一丁目十番地)を賜わったことにより神保家は明治御維新前後までこの地に住んで居た。江戸時代の絵図に神保小路と記されてあるものは小川町の内にある一俚称であって、漸次附近の地域を拡大称呼して、神保町と公称することとなったもので、震災後、区画整理によりて現今の神保町は、神田区随一の大地域を占むるに至ったものである。/神保町は今から二百五十年前に起源するが、その町名の母体である小川町は、遠く長禄時代、今から四百七、八十年代、太田道灌の江戸築城時代を物語る町名であって頗る感慨深きものがある。」(新字・新かなに訂正)
平凡社の地名辞典『東京都の地名』(日本歴史地名体系13、2002年)は「表神保町」の項で、「神保家文書」(『神田文化史』)を根拠に「小路〔神保小路〕の名称は、元禄二年」から、と記述しています(角川の地名辞典には「江戸期に神保某の居宅があったことによる」とのみ)。いずれにしても「神保町、起源は元禄」というわけです。
『神田文化史』の著者は、当時井草町(現在の杉並区井草)に隠居されていた神保さんのご子孫(九代神保安太郎氏)から示された古文書を用い、初代神保源五左衛門長賢から、幕末の外国奉行として神奈川開港取扱にあたった七代長興、最後の幕臣八代長順までの事跡を伝え、菩提寺が小石川水道町の浄土宗還国寺(江戸川橋に現存)であることも記しています。そうして、この菩提所の地が神保氏の旧地で、二代新五左衛門長治が小川町に邸地を賜った後に、この寺を建立したというのです。
この「表・裏神保小路」をどう見るかですが、性急を回避してまずは図の周辺に目をこらしてみましょう。部分拡大図1の左下に一箇所、部分拡大図2には4箇所に見える細長い□(四角)形は何でしょう。
そう、これは武断の風が卓越していた江戸時代初期まで、武家地周辺で頻発した「辻斬り」防止のための、「辻番所」を表すものでした。
日本が世界に誇る‘koban’を凌ぐ密度で、交差点ごとに設置されていますね。近代の警察制度も、その伝統を江戸時代の草創期まで遡り得ることがわかります。
さて、この図に記号凡例の記載はないのですが、実は近江屋板切絵図の手本となった吉文字屋板の江戸切絵図には「駿河台小川町図 全」(明和元年・1764)があって、収録図の範囲もほぼ同じ(近江屋板は多少東に出張っている)、しかしこちらには凡例が付いている。
部分拡大図a
これによれば辻番所は2種類。それだけでなく、町内火見櫓の記号もみえる(部分拡大図a)。
ところで、吉文字屋板と近江屋板のこれらの図には、江戸時代の半ば過ぎと幕末近くにまたがる85年の懸隔がある。
それでも街区の形はほとんど変わらずで、神保邸も動かない。小路も「ジンボフコフジ」と記載がある(部分拡大図b)。
部分拡大図b
2009年の現在から85年前というと大正13年、関東大震災直後の東京です。江戸時代の、すくなくともこの地域のスタビリティと比較すると、近・現代というのは目のくらむような激変の時代だったのですね。
この吉文字屋板については、現物ではなく斎藤直成編『江戸切絵図集成』(第1巻、1981年、中央公論社)の図を引用しています。
「その1」の掲載地図(全体図)では、いくら拡大しても細部の文字はよみとれませんね。今日の技術段階における画像容量限界のためですが、これも日々「進化」するこの世界のことですから、いずれはそう遠からず解決されることでしょう。
けれども、このぼんやり画像のままでは、どうにもなりません。
それで「部分拡大図」手法が登場することになります。パワー・ポイントを使った講演などの場合は、これをもっと多用しなければなりません。なんといっても、プロジェクター画像は粗すぎますからね。
で、部分拡大画像。
部分拡大図1
図の中央、やや左寄り部分です。
神保さん宅は、逆立ちして中央に「神保伯耆守」(じんぼうほうきのかみ)と記載されています。とくに大きな邸宅でもなく、切絵図でみる限り偉そうな名前とはそぐわないような、旗本としてはその他大勢の部類に属していますね。ところが通り名は「表神保小ジ」となっている。これはなにか謂れがありそうな雰囲気になってきました。
よく知られているように、江戸切絵図などの古地図では、多くの場合、ばらばらに記入されたように見える屋敷名の頭が邸宅の表門にあたります。つまり短冊形に奥深い神保邸の表が「表神保小路」。
では、「裏神保小路」が神保屋敷の裏側にあるかというと、さにあらず。
もう少し広い範囲に目をやると、さらに1本「表」の通りが「裏神保小路」なのです。
部分拡大図2
神保町は出版人にとっては伝説の巷。
伊達得夫の《書肆ユリイカ》(『ユリイカ』)があった。森谷均の《昭森社》(『本の手帖』)があった。
ラドリオがあった(いまもあるが)、ランチョンがある、ミロンガがある、キッチン南海の黒カレーも健在。
ハーバード大学のエリセーエフが言ったからかどうか知らないが、この「世界最大級の古書店街」は空襲を免れた。だからところどころには看板建築も、近隣には神田やぶそばやまつやなどの古い建物も残存している。
そうして物書きのほとんどが、この界隈に足跡を遺し、今なお徘徊する。
けれども往古を訪ねれば、旗本邸が居並んだ人影淋しいお屋敷町。「北神町会」の町名由来板によれば、元禄時代に神保長治さんが広い屋敷地を割り当てられたことが地名(神保町)のはじまりという。
なにはともあれ、場所の記憶を訪ねるには、まず古地図。
江戸の古地図と言えば、すぐ思い浮かぶのは「切絵図」でしょう。
けれども、知られた古地図ほど「シン古地図」が多い。つまり、よく目にするのは、後世というか現代につくりなおされた「アトカラ古地図」の類です。
だからここでは、できるだけ本ものを見ていただく。
汚れや折線、虫食穴があるのはその証だと思ってください。
お目にかけるのは、いく種類かある切絵図のなかから、比較的地誌が正確と言われる近江屋板(近吾堂)の図で、この界隈を含む「駿河台小川町図」。刊行の嘉永2年(1849)はペリー浦賀来航の4年前で、もうほとんど幕末。広げた地図の大きさは65×46センチ(紙の概寸)。結構大きいのですよ。
江戸切絵図(近江屋板「駿河台小川町図」嘉永2年・岩田文庫蔵)