その6の地図のサムネイルをクリックして拡大すると、左右2枚の図を接合していることがわかりますね。
左(西)は「東京実測全図」の「二幀」(東は小石川-北の丸、西は戸塚-内藤新宿の一部まで。明治18年5月版権届、同20年4月出版。天地約63センチ×左右約90センチメートル)、右(東)は同「六幀」(川向うの両国から、本郷-大手町の範囲。明治18年5月版権届、同19年3月出版。大きさは前出にほぼ同じ)より、それぞれ部分を取出してくっつけたものです。

拡大図の左下に横たわる江戸城内濠のなかに、近衛歩兵営、その東に近衛砲兵営とありますね。前者は現在の北の丸公園、後者は警視庁第一機動隊がある場所です。
これが明治初年の近衛兵反乱「竹橋事件」(明治11年)をはさむ時期に測量、作成された地図と考えると、また別の視点から詮索もしたくなりますが、それは我慢して、この接合図の真中に「一橋通町」とあるのがおわかりでしょうか。その上(北)にみえるのが「南神保町」なのです。

「一橋通町」「南神保町」だけでなく、周りの「表神保町」「裏神保町」「猿楽町」「今川小路一丁目」等々の「町」はすべて明治5年に起立。
というのも、この辺は「武家地」ですから「町」ではなく、したがって「町名」(地域名)も、明治5年までは俗称でしかなかったのです。
さて、ようやく全ての土地に地名が付いたのですが、『神田文化史』に言う「南神保町一丁目」というのは見当たりませんね。

しらべていくと、この地図に見える町名が昭和一桁の時代までつづき、同9年にこの一帯は「神保町一丁目」から「同三丁目」に再編成され、「南神保町」は「北神保町」や「一橋通町」などとともに「神保町二丁目」に取り込まれて今日に至ります。ただ、途中でどういうわけか「神田」を冠せられ(昭和22年)て「神田神保町二丁目」ということになるのでした。

ですから、つまり、「南神保町」はあっても、「南神保町一丁目」という称は、存在しなかった。

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