NPO「共同保存図書館・多摩」から、「タマ・デポ・ブックレット」の3冊目として、私の講演をもとにした『地図・場所・記憶 ―地域資料としての地図をめぐって』が出版されました(A5判、54ページ)。
地図(地形図)作成の現状と、古地図(複製)のありかた、多摩地域の地図資料について、具体的な例をあげながら述べたものです。
今日の古地図出版あるいは地図資料をめぐる主要な問題点がお判りいただけるかと思います。
また、具体的な画像として、国分寺駅南側を中心とした地形図にみる町の変遷や、立川駅北口の昭和24年の商店地図などの地域資料を収録しています。
巻末には、昭和30年代の1:10000と1:3000の地形図の一覧を掲載(いずれも多摩地域)。
ご希望の方にはお頒わけしますので、メールでご連絡ください(本体600円)。
さて、ひるがえって江戸東京どころではない武蔵国の歴史元、多摩の国府周縁に住む筆者の場合、寓居も仕事状態も「近い崖」、というより文字通り崖縁(がけっぷち)。ただしこちらの崖は多摩川が造り出した段丘崖のひとつで、かの「国分寺崖線」の際(きわ)なのです。つまり辛うじて崖の上で、頭上に吊るしたダモクレスの剣とは逆に足下崩壊の緊張をはらみつつ、しかし南に開けた眺望には、往時資産家クラスの面々が好んで自邸立地を図ったそれと同一のものがあるのでした。この「近い崖」には、JR中央線国分寺駅南口から数分で到達する。
崖が近すぎると、「崖棲み」という言葉をちらりと思い浮かべる。けれども、この言葉にはむしろ『門』(夏目漱石)の主人公野中宗助夫妻のように、崖縁ではなくて崖下にひっそりと生を営む姿が相応しい。一方、もうひとりのソースケ(宗介)の家は、逆転して崖の上。もちろんこちらは『崖の上のポニョ』の主人公の話。
ところで、漱石自身が崖下に住んだという話は聞かないけれど、樋口一葉の終焉の地はまさしく崖の下。その家には後年漱石の弟子の森田草平がそれと知らずに引っ越して来ます。崖下の現在は文京区西片一丁目の白山通りに面した一隅。ただし現在、通り(白山通り)から崖を認めることは難しいでしょう。いずれ、苦心して撮った写真を貼っておきます。
森田の師の漱石はその崖の上に住んだ(西片の家)。ただしその期間は明治39年11月から翌年9月までで、「猫の家」と「漱石山房」の間にはさまれた1年未満。しかしながら一葉が住まいと知って己の文運予兆を喜んだ森田の借家は、明治43年9月の豪雨によって、崩落土砂の下となり、全壊してしまうのです。同じきわどく危ういようでも、崖縁より崖下のほうが、つらい結末があるかもしれない。
萩原延壽(のぶとし)という在野の歴史家が遺した仕事に、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』(文庫本で全14冊、2008年完結)がありますが、このタイトルには、ヨーロッパから海路はるばるたどり着いた極東の島国の、連続する霞んだような青い海岸線を望見する実感がこもっています。それもただの海浜ではない。容易に異人の上陸を許さない構えの、急斜面の連なり。
文久2年(1862)9月8日、初めて横浜に来航し、後に英国駐日特命全権公使となったE・サトウについては、『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳、岩波文庫、上下巻)がよく知られていますが、しかしながらこの「遠い崖」が具体的に何処を指して言ったものか、両書いずれも確たるところを示しているわけではないのです。
一方、東京帝国大学の初代地質学教授でナウマン象にその名を残すH・E・ナウマンの後任教授となったD・A・ブラウンスが、その論文「東京近傍地質篇」(1881年)で「そもそも外客の始めて横浜あるいは東京に着するにあたり、まず眼に上るものは、いわゆる沿岸の峭壁にして、その海浜よりの距離はつねに一定せずといえども、たいてい彎曲線をなして互いに連続するを見る」と述べていることを紹介し、この場合の峭壁(しょうへき)つまり崖とは「東京あるいは横浜の山の手台地が、下町低地に接する崖であ」るとしているのは、『東京の自然史』(貝塚爽平)でした。
たしかに、浦賀水道を通って横浜に接近する船のデッキから西北に視線を投ずれば、東京湾の水際に目立つのは今日では、珍しくもない高層ビルの林立姿でしょうが、当時は地形が一目で判然としたでしょう。手かざしで眺めれば東京湾奥と横浜の間、山手の台地と下町低地を画する台地東縁の崖は一本の線となって走っていた――。サトウはこれと別の場所を指してガガーリン(「地球は青かった」)並の感慨を漏らしたのかも知れませんが、以下、東京の山手と下町を画すほぼ南北の長大な崖線を、仮に「遠い崖」と呼んでみたいと思います。