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江戸の厓 東京の厓 その10

さて、ひるがえって江戸東京どころではない武蔵国の歴史元、多摩の国府周縁に住む筆者の場合、寓居も仕事状態も「近い崖」、というより文字通り崖縁(がけっぷち)。ただしこちらの崖は多摩川が造り出した段丘崖のひとつで、かの「国分寺崖線」の際(きわ)なのです。つまり辛うじて崖の上で、頭上に吊るしたダモクレスの剣とは逆に足下崩壊の緊張をはらみつつ、しかし南に開けた眺望には、往時資産家クラスの面々が好んで自邸立地を図ったそれと同一のものがあるのでした。この「近い崖」には、JR中央線国分寺駅南口から数分で到達する。

崖が近すぎると、「崖棲み」という言葉をちらりと思い浮かべる。けれども、この言葉にはむしろ『門』(夏目漱石)の主人公野中宗助夫妻のように、崖縁ではなくて崖下にひっそりと生を営む姿が相応しい。一方、もうひとりのソースケ(宗介)の家は、逆転して崖の上。もちろんこちらは『崖の上のポニョ』の主人公の話。

ところで、漱石自身が崖下に住んだという話は聞かないけれど、樋口一葉の終焉の地はまさしく崖の下。その家には後年漱石の弟子の森田草平がそれと知らずに引っ越して来ます。崖下の現在は文京区西片一丁目の白山通りに面した一隅。ただし現在、通り(白山通り)から崖を認めることは難しいでしょう。いずれ、苦心して撮った写真を貼っておきます。

森田の師の漱石はその崖の上に住んだ(西片の家)。ただしその期間は明治39年11月から翌年9月までで、「猫の家」と「漱石山房」の間にはさまれた1年未満。しかしながら一葉が住まいと知って己の文運予兆を喜んだ森田の借家は、明治43年9月の豪雨によって、崩落土砂の下となり、全壊してしまうのです。同じきわどく危ういようでも、崖縁より崖下のほうが、つらい結末があるかもしれない。

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