Archive for 2月, 2010

ううむ、うまくいかない。
『川の地図辞典 多摩東部編』の出来日には、もう少し時間がかかるようです。

で、「出版記念ウォーク」の日程は、いっそのこと国分寺の「日立中央研究所」庭園開放日に設定しようと思います。
なんと言っても、野川の源流が見られる数少ない機会(春秋各1日、年間2日)ですからね。

今年の春のオープン日は、4月4日(日曜日)午前10時~午後2時半。

午後は庭園内の桜の木より人が多いような状態となりますから、オープンと同時に入場したいので
集合は午前9時45分、JR中央線「国分寺駅」びゅうプラザ付近ということで。

雨天決行ですが、その場合庭園には入れません。

参加費は、資料代として300円いただきますが、『川の地図辞典 多摩東部編』ご持参の方は無料とします。もちろん、当日購入していただいても結構です。
水筒とお弁当をお忘れなく。

現在、考えているコース(予定)は以下の通りです。

国分寺駅→日立中央研究所(野川源流)→伝村上春樹夫妻旧居跡→恋ヶ窪・姿見の池→西国分寺駅→古代官道跡(東山道武蔵路跡)→都立武蔵国分寺公園→国分寺崖線→真姿の池→武蔵国分寺跡→お鷹の道→タンポポハウス(藤森照信氏邸)→池の坂(押切間)→国分寺駅

参加申し込みはメールで、どうぞよろしく。

collegio

川の地図辞典

2月初めから、2月中になって、とうとう3月に。
いつもの、ズルズル刊行予定で、大変申し訳ございませんが、

品切れ中の『川の地図辞典』江戸・東京23区編の3刷目(補訂版)
は、出来日が確定しました。
3月15日。

新刊の『川の地図辞典』多摩東部編については
あと3.4日で刊行日が判明すると思います。
でも、多分同じころでしょう。

刊行記念ウォークについてはそれからお知らせします。
少々お待ちを。

collegio

縄文地図

中沢某が「アースダイバー」(略称「アダイ」)で吹聴している「縄文地図」が、縄文地図でもなんでもなくて、ただの「沖積層/洪積層」分類図で、それは縄文時代の海岸線を表わすものではまったくない、ということを中心に、先日駒澤大学の深沢校舎であった「地理学サロン」でもお話してきましたが、会場のお一人から「そのように言ってもせんないことで、粛々と正しい仕事を世に問うしかない」というお言葉をいただきました。
そうなのですね、昔から「江戸東京歴史地図帳」をつくるのが、私の出版業の目標のひとつだ、と公言してきたのですから、まずは「正しい」「縄文地図」をつくるところからはじめなければならない、と志を新たにしたのです。

酒詰仲男さんのように、小さなスケールの地図なら貝塚の分布から海岸線を推定することも可能ですが、ヒューマンスケールを標榜する者から言うと、例えば目黒区の東山貝塚はそこに海があったわけではない。
つまり、魚介類を積んだ小舟を川沿いに曳いてきて、集落の近くで交易品としての乾貝をつくっていた可能性がある。
だから貝塚分布が即汀線復元にはつながらないのです。
しかしながら、まずは遺跡・遺物の分布を詳しい地形図にプロットしていかないことには、話ははじまらない。
そこから「縄文地図」はようやく一歩が始まるのです。

中沢ナントカは、勝手な地図解釈をおこなって、牽強付会に「死」や「霊」の「場所」を取出し、オカルトや「スピリチャリズム」と同レベルの言説を振りまいているわけです。
彼の言説は、「たわむれ」などではなく、まして思考のパラダイム変換などでもなくて、「縄文ナントカ」も明確な意図をもったひとつのイデオロギー操作だと思っています。

ところで、人間の基本は生物にあるのですから、生死そのものももっと即物的で、合理的です。
東京は、大昔は「どこでも海」だったし、まして『江戸の町は骨だらけ』(鈴木理生)でした。
日本列島におけるオカルト(呪術や祭祀)のピークは縄文晩期(約3000年前)。
縄文晩期の直前、縄文後期から、気候の冷涼化が始まっていたのでした。
今日の逆ですね。
気候も食料も不安定な時期、そこに同調波をおこそうというのが中沢某の小手先です。

「アダイ」で中沢に「桑原武夫学芸賞」を授与した某氏らも、「ほぼ日刊イトイ新聞」で「縄文地図」対談を垂れ流している連中も、易々とノセられていて、皆さんいい気なもんだと思うしかありませんね。
こういうのを、行きはよいよい、帰りは怖い、というのです。