「タモリ倶楽部」再び(2月27日金曜日深夜0:15~)
「季刊Collegio」がまだ「月刊Collegio」だった2007年6月、「生きている『池霊』」という寄稿がありました(第23号、田中正大執筆)。《場所と記憶》を標榜する小誌にまことにふさわしい内容で、鮮やかなイメージを刻む記事でした。
先般またまた「タモリ倶楽部」からお声が掛り、今度は「国分寺崖線」特集だと。
当方はJR中央線国分寺駅前、「国分寺崖線」を利用してつくられた旧岩崎の別荘「都立殿ヶ谷戸庭園」の目の前を事務所兼自宅(標高約70m)としているものだから、そのことを知ってのお誘いかと思ったらそうではなかった。単にアイツなら何かオモシロイことになるかも、という程度らしい。ロケ地も世田谷区域の成城から等々力渓谷に至る国分寺崖線(標高約40m)という。
場所は大方スタッフが調べていて、「ほかに適当なロケ地がありますか」というので、思い出したのは、上述の世田谷も野毛にある国分寺崖線直下の河跡湖(三日月湖)「明神池」跡。
埋立てられた湖跡は昭和35年ころには住宅地となった。頻々と火事も起こる。夢枕に龍神が立つ。土地の人々は浄財を持ち寄って祠をつくる。そうしてその祠と由来を記した看板が現在も住宅地を貫く緑道のすみにひっそりと佇むことになった(世田谷区野毛三丁目17番9号)。
ロケ中に、祠のお向かいの家の方が庭先から声を掛けてきて、「そりゃあきれいな水だった。潜ると、底からブクブクと水が噴き出しているんだな。水泳も覚えたし、魚もいろいろ獲った・・・」と。「崖線」に湧水は付きもので、それが湖を維持してもいたのでした。
傍らを流れる多摩川に堤防がつくられる以前、この湖から見る光景はいかさま神秘的であったかと思われます。多聞、夕陽の方角にはシルエットの富士も見えたのでしょう。
龍神とはまさしくゲニウス・ラクスGenius Lacus(このラテン語表記は文法的に保証のかぎりにあらず。ゲニウス・ロキGenius Lociのもじり)、それは人々の生まれ育った場所に関する記憶の象徴であり、一方、日本の多くの神がそうであるように、祠は人間の腕力行為に伴う罪障感が形を変えたものだったのです。
ところで「崖線」という言葉は、どんな国語辞典を探しても見出しに出てこない。地学辞典、地理学辞典、地形学辞典の用語としても存在しない。これは普通名詞ではなく、「国分寺崖線」と「府中崖線」にかぎって、接尾辞的に出現する特殊な語。「崖」も、厳密には傾斜角70度以上を言い、それ以外はせいぜいが急斜面。独立した言葉として(「街宣」「外線」「凱旋」はあっても)「崖線」は存在しない。さらに、厳密な定義を適用すると、「崖」としてもほとんど存在しないということに気がついたのでした。
ついでに言うと、「桃栗3年、崖10万年」というのは当日のオープニングに出る看板の文字ですが、「崖8万年」が正しい。スタッフに言ったのですがそのまま。これは言い訳です。
図は、小社刊『帝都地形図』第6集から、「玉川」図幅(昭和14年3月測図)の一部。国分寺崖線がこれほど明瞭にわかる地図(等高線間隔2尺:約60cm)も珍しいでしょう(画像をクリックすると拡大します)。
明神池が崖裾からわき出る湧水で涵養されています。崖下には花卉栽培の温室農園も。現在等々力渓谷に架かる橋に「ゴルフ橋」というのがありますが、大塚山古墳の周辺がゴルフ場だったのですね。現在、東急大井町線の地下化計画で帯水層の切断が心配されている等々力渓谷はこのすぐ右(東)側。
シホレル
4か月以上更新していないサイトはブログとは言えず、ほとんど死に体。
一方、「季刊Collegio」は定期刊行中(上の「季刊COLLEGIO」という白文字をクリックすると総目次が見られます)。
ただし、それをここで公開(デジタル出版)する予定はいまのところありません。
「PR誌」の体裁をしていますが、〈場所と記憶〉の「メッセージ誌」として、岩波ブックセンターと日本地図センター(地図の店)にほんの少し、そして時々ジュンク堂池袋本店に置いておくだけで、一般にどこかの書店で手に入る可能性はほとんどゼロ。バックナンバーも欠号が多く、このサイトに寄っていただくほどの方には、定期購読をお勧めします。
ところで、昨今の漢字ブームに棹差すわけではないのですが、「尽れる」と書いて「スガレル」と読める人はそう多くはないように思えます。
かつて、吉本隆明さんの都市に関する発言やら書いたものを追いかけていて、その、取り残されたような界隈の慰撫感覚を語る一方で、開発の最先端を評価する、意識的な両ベクトルの立論を不可思議に思った時期もあったのですが、その前者の都市域、つまり時間的に窪まったような場所について、元一橋大学教授でランス文学者の出口裕弘氏は「スガレタ町」と言い、吉本氏の都市論を「分裂していますね」と評したのでした。
「日国オンライン」では、スガレ(ル)について、末枯れ、尽れ、として18世紀の川柳と幸田露伴、芥川龍之介の用例を掲載していますが、それだけでは要領を得ない。けれどもちょっと考えればわかるように、この言葉の正体は「ス+枯れた」つまり「素枯れた」であって、ソッカレ、スッカレ、スッカリ、スッカラカンに通じる「枯れ言葉」なのですね。つまり水気が抜けて、シナビてしまった状態を表わす。
だから、「スガレ(タ)」という形容は、下町の取り残されたような界隈の謂いとして相応しくない。なぜならば、そのような場所はむしろしっとりとした情感を残しており、人が慰撫されるとすれば、そこに一定の湿度と温度がわだかまっていることが基本与件となるからです。
あちこちで指摘してきたことですが、近代都市はひたすらに「乾かし」「平らにし」「明るく」する方向に「進化」してきました。
その典型が、窓の開かない、24時間エアーコントロールのガラス張りスカイスクレーパー、つまりナントカヒルズであって、街は「経済」によって、そうあるように「強制」されてきた、とも言えるでしょう。結局、ガラスとコンクリートの巨大な墓標が突っ立ったような「最先端」の「ヒルズ」こそ、「スガ(末枯・尽)レタ」場所に他ならなかったのです。
では、「スガレ」の反語はどのようになるのか。人の情感に潤いを与えるような場所はどう形容したらいいのか。敢えていえば、シオ(ホ)ル「霑る」がそれにあたると思われます。
けれども「シオレタ町」と言うと、当然「萎れた町」と受け取られるでしょうね。萎れるのは、水分がなくなったからですが、ドライフラワー状態ではない。まして造花ではない。瀕死の状態に近いかも知れないが、死んでしまったわけではない。
半死半生、絶滅寸前、瀕死状態、気息奄奄、辛うじて、纔(わず)かに、生息している状態。けれどもそれこそが、大切なのだと言いたい。転換期にあっては、逆に斯様な「小さな存在」こそ、可能性を秘めている。
「霑(れ)る」は、濡れてうるおっている状態。だから、シオレルは、半死半生でも、シットリしていますよ、これから芽が出る(萌える)のですよ、という意味で言葉としてはまことに未来形であるわけです。
前置きが長くなりましたが、久我山です。
昔は「帝都」井の頭線と言っていましたが、駅のホームを上って階段を下りればそこは神田川のV字谷。線路と川に直行する商店街は久我山商店会。北にすすめば都立西高。南へ行けば國學院久我山高校。いずれも坂道を上る。
ここは南口の久我山橋を渡って人見街道を横断して踏み込むのは岩通(いわつう)通り。その名は國學院久我山校の手前にある岩崎通信機の本社に由来する。
で、岩通通りを上りきったところを流れているのは玉川上水なのですね。その水が岩通と國學院久我山の手前を左(東)に向かう。
V字谷を底から上って来て、また水流に出会う。こちらの水は、繁茂した樹叢を伴う。そうしてほの暗い小径が水に沿っている。つまり、先に述べた、「乾かし」「平らにし」「明るくし」てきた近代都市にあって、その逆をいく、まことに稀な場所なのです。
ましてや夜は。夏ともなれば、ホタルもちょろちょろお出ましになるらしい。
写真は、玉川上水に架かる岩崎橋の橋際の焼鳥屋さん「大鵬」。カウンターにスツール10席ばかりの、小さなお店。40年ほど前の創業時から変わっていないと思われるスタイルがうれしい。テレビはないし、ラジオから流れるのも「スタれた」ジャズかロック系統。総じて「シホレて」いる感じが好ましい。
赤くない提灯も、それなりに結構です。まず頼んだのが「煮込み」で、これがおいしかったものだからおかわりして、焼鳥を賞味するまでには至らず。でも、それでいいのです。「味」の半分は「場所」なのである。ガラスとコンクリートの中で、皿の真中にポツンの餌、星いくつ、点数グルメなんぞクソにもならぬ(ご無礼)。
もうひとつの見どころ、岩通通りをはさんで大鵬はす向かいの「毛里多屋(もりたや)食品工業」は、平たく言えば豆腐屋さん。玉川上水の水で仕込んでいるわけでもないでしょうが、「ごま入り豆腐は最高に旨い。もちろん普通のも旨い」由。
こちらは、いずれ、の楽しみにとっておきます。
豆腐は、いつだってシホレている訳で。