Archive for 6月, 2010

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江戸の崖 東京の崖 その12

大森駅山王口天祖神社脇石段(旧馬込文士村に向う階段)
大森駅山王口天祖神社脇石段(旧馬込文士村に向う階段)

駅前風景  「三丁目の夕日」ではありませんが、「昭和三〇年代」を代表するイメージは「駅前食堂」や「駅前旅館」の類だと思っているのです。これに丸型のボンネットバスと改札口(改札つまりフダをあらためる、というのだから古風な話ですね)をもった屋根を配すれば、それだけで画面の骨格ほぼ仕上がってしまう。斜めに傾(かし)いだ木製電柱や貸本屋などを付け加えると、ちょいと芸が細かい、ということになるかも知れない。
代って今日では、不動産屋に消費者金融、パチンコ店、全国チェーンの居酒屋等のどぎつい看板を身にまといつかせた雑居ビルでなければ、大手開発企業や鉄道会社の主導でつくられた高層の複合駅ビル、それに灰色のコンクリート電柱が駅前の顔でしょうか。
 ところで鉄道は、敷設初期にはできるだけ平坦なレベルを通すのが筋でしょうから、崖とは無縁の存在と思われがちですが、起伏の激しい東京の山手ではそうもいかないところがあちこちにある。ビルや看板で覆い尽くされた駅前一帯の上皮を剥いでみれば、そこに出現したのは崖でした、という「駅前崖」の代表選手のひとつはJR東海道本線・京浜東北線大森駅。
川崎・横浜方面側の改札を出て右へ、山王口すなわち西口の階段を●段下って立てば、そこは青物横丁から池上本門寺を結ぶ、江戸時代からの池上道(いけがみみち)。この地点は標高11メートルですが、右手(北側)、大井方面に上り坂となっていて、250メートルほど北の交差点付近の標高は16メートルですから、その差5メートル。タンジェントの原理からこの間の傾斜を計算すると、約1度8分の、比較的緩い坂道。

八 景 向い側の天祖神社に上る石段の側面に、大田区教育委員会の説明板が掛かっていて、それには
「大田区文化財 八景坂(はっけいざか) 今でこそゆるやかな坂であるが、昔は相当な急坂で、あたかも薬草などを刻む薬研(やげん)の溝ようだったところから別名薬研坂と呼ばれた。この坂の上からは、かつて大森の海辺より遠く房総まで一望でき、この風景を愛した人たちにより「笠島夜雨(かさじまやう)、鮫州晴嵐(さめずせいらん)、大森暮雪(おおもりぼせつ)、羽田帰帆(はねだきはん)、六郷夕照(ろくごうゆうしょう)、大井落雁(おおいらくがん)、袖浦秋月(そでがうらしゅうげつ)、池上晩鐘(いけがみばんしょう)」という八勝が選ばれ、八景坂というようになったといわれています。かつて坂上には、源義家が鎧(よろい)をかけたと伝えられる広重らの浮世絵に描かれ、有名であった。」とあり、歌川広重の「八景坂鎧掛松」の絵が添えられています。
 元来中国が本家である「××八景」という景色コレクションは、日本でもやたらと各地に名乗りがあり、江戸の八景にもいろいろあって、当時も今も「両国暮雪(りょうごくぼせつ)、佃嶋帰帆(つくだじまきはん)、高輪秋月(たかなわしゅうげつ)、浅艸夕照(あさくさゆうしょう)、上野晩鐘(うえのばんしょう)、不忍落雁(しのばずらくがん)、洲崎晴嵐(すざきせいらん)、真乳夜雨(まつちやう)」の、「大森」が入らないバージョンのほうが、よほど一般的でしょう。
 ともあれ、「八景坂」。それはこの説明によれば、池上道の一部を言ったものらしい。

歌川広重「八景坂鎧掛松」
歌川広重「八景坂鎧掛松」

広重の絵を見てみると、それは松を描いたものではあるけれども、その松は切り立った崖の縁に生えている。崖下は水田で、その際は白帆が浮かぶ大森海岸(図●)。その脇の池上道が崖上の、というより崖縁を通る岨道(そまみち)であることがわかります。現在の東海道線・京浜東北線はこの崖下を通っている。新橋―横浜間に鉄道が開通した明治5年(1872)9月12日から五年も経たない明治10(1877)年6月19日、アメリカ人動物学者E・S・モースは、横浜から新橋に向う列車が大森を過ぎた直後、崖面に貝の堆積が露出しているのに気が付いた。これが日本考古学・人類学発祥ポイントとして著名な「大森貝塚」ですが、所在地は大森のある大田区ではなくて、品川区大井六丁目、現在の大森貝塚遺跡庭園内に記念碑が置かれています。この庭園は池上道脇につくられていますから、つまりは崖上ですが、元来の大森貝塚は崖面というか崖下にあったのですね。大森貝塚庭園前の池上道の標高が9メートル、崖下は2~3メートルですから、その差7~6メートル。ただし元来はもう少し比高があったと思われますから、約8メートルの崖。広重の浮世絵では、最低十数メートルあるように見えますね。この大森貝塚跡から大森海岸方向へまっすぐ500メートルほど東の第一京浜脇は、江戸時代の鈴ヶ森刑場跡。海が見える位だから、崖上からみれは著名な場所はそれと判ったはずなのに、広重もさすがに鎧掛松と刑場を、一枚の絵に描くわけにはいかなかったのでしょう。八景はそもそもお目出度い方の名所なのですからね。
 

大森駅西口正面天祖神社に向う石段
大森駅西口正面天祖神社に向う石段

先にも触れたように現在の池上道は岨道(そまみち)。崖上の道ではあるけれども、実は崖中というか、道脇にさらに高い崖が延びている。だから西口正面天祖神社脇から旧「馬込文士村」に向う石段は、合計62段ある。1段の高さが15センチから16センチ、仮に15センチで計算しても930センチ、すなわち約10メートルの比高がある。都合約20メートルの崖が、かつてここに存在したことになります。刑場を見下ろしていたはずの鎧掛松は、現在の天祖神社あたりだったといわれますから、そうだとすると広重描く「大森の崖」のたたずまいは、たしかにそのようなものだったと言えるでしょう。浮世絵もあながち誇張ばかりではないようです。
 実は「八景」という地名のオリジンは、「ハケ」や「バッケ」と同根の「ハッケ」で、これらは皆現在「ガケ」と呼ばれる「地形」を指す「用語」だったのです。これが中国伝来の名所八景に混入して、崖ならざるものと同列にされ、よくある地名起源パターンに固着してしまったわけですね。地名を吟味するときは、漢字を外してみなければいけないと言われる所以です。そうして現代の「ハッケ坂」は、「八景坂」の説明板の掛かる、天祖神社脇を通る62の石段そのものなのでした。
 駅前八景の外装を外してしまえば、そこにあらわれたのは比高約20メートルの崖でした。駅前崖。実は、大森駅山王口「八景坂」に並行して、さらに石段を数メートル下ったところに「山王小路飲食街」が「昭和飲み屋街」の名残りをとどめているのでした。

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江戸の崖 東京の崖 その11

JR中央線・総武線四ツ谷駅ホーム南側の擁壁
JR中央線・総武線四ツ谷駅ホーム南側の擁壁

 江戸の街の範囲は、現在の山手線のほぼ内側とその東、深川や向島など川向う一帯と言われますが、そのうち川向うは新開の埋立地。自然地形としての崖の存在余地はありません。現在の東京湾に割拠するゴミ処理島に積み重なった廃棄物の段差には、あるいは似て非なるものがあるかも知れませんが、それも圧縮されてフラットになるのは時間の問題です。
 東京を23の特別区に限るとすると、そのうち江東六区(台東・荒川・足立・墨田・葛飾・江戸川)から荒川区を別にし、代りに中央区を加えた6区を山手台地に関わりのない区として除き、残り17区に存在する崖ないし擁壁、つまり急斜面が何箇所あるかというと、これが2万2千612件というのですね。この数字は1969(昭和44)年の東京都首都整備局建築指導課の調査によるものですが(中野尊正ほか「東京山手台地におけるがけ・擁壁崩壊危険度の実態調査」『土と基礎』1972年2月号)、そこでは、河川敷地内の護岸、鉄道や公園用地内、道路敷地などの擁壁のうち、一般住宅に直接関係のないものは除外されているのです。
 私たちが日頃、山手線や中央線の駅ホームや走行する車窓に目にする、ほぼ直立コンクリート壁などを除外した数字としても、2万2千箇所以上なのですね。ただし、ほぼ40年前の数字ですから、都市整備も道路が中心で、住宅地の急斜面保護などはまだ十分ではなく、露出した崖は今日より余程多かったと思われます。この調査で「がけ」とは人工的な被覆で保護されていない急斜面を言ったわけですが、今日、東京23区内でそのようなむき出しの「がけ」を目にするのは、特別な場所以外では難しいのです。
 この調査の対象は、「高さ3メートル以上、傾斜30度以上のがけ・擁壁のすべて」とされましたが、ここでは「がけ」と「擁壁」を区別することなく、同様の傾斜、比高のある急斜面をすべて「崖」と呼ぶことにします。
 ところで地質学においては、崖は「垂直または急斜した岩石の面」とされ、その成因にはおもに「変動崖」と「浸(ママ)食崖」の二種類があるとされます(地学団体研究会新版地学事典編集員会編『新版地学事典』1996年)。変動崖とは、断層崖のような地表の運動の結果出現した急斜面を言い、東京23区内でその例をみることはなく、自然の崖はすべてが侵食崖といっていいでしょう。この場合、地形を「しんしょく」するのは、水の作用ばかりではないので(寒暖の差や風、日光の影響も大きい)、「侵食」と表記するのが一般的です。また、一般に崖と言われるものが必ずしも岩石面をさらしているとはかぎらず、都市域で岩石の崖を見ることは稀でしょう。
 さらに成因において、東京の崖には「切通し」などの人工崖がかなりの割合を占めると言っていいのです。もともとは自然の営為がつくりだした急斜面であっても、線路や道路の拡幅ないしは開削のため削りとられ結果あらたに出現した壁面は、いたるところにその例を挙げることができるでしょう。しかし、まっさらな台地の真中を切り裂いたような人工崖は数少ない。
 21世紀初頭、そこここに超高層ビルのそびえ立つ世界都市東京の中心部は、往時とはすっかり趣を異にし、地形すら改変されてしまったところがあちこちにあります。しかしそのような人工都市のなかにも、何万年という時間を単位とするダイナミックな「造化のはたらき」をさぐる手掛かりを見つけ、あるいは推定することは不可能ではありません。
私たちが垣間見んとしているのは、人間の歴史のスケールをはるかに超えた世界の物語なのです。

このブックレットのもとになった私の講演は、2008年10月5日、もう2年弱も昔の話です。話が広範囲にわたっていて、折角テープを起こしてくださったのですが、大分書き直してしまいました。この間、地図や行政資料をめぐる日本のそして東京の状況は大きく変化しました。ブックレットの末尾で、私が「地域の資料は、その地域に」と強調しているのは、以下のようなに事柄に直面したためでもあるのです。

調べ物でよく出かけていたのですが、立川市にある都立多摩図書館で、いつものように「○○区史」「××市史」を探したものの、棚にない。
請求しても出てこない。そればかりか、県史や市史の類、そして昭和30年代の1:3000東京都地形図をはじめとして、基本的な地域資料が一切なくなっている。
訊けば地域資料のほとんどは広尾の都立中央図書館に移管され、同一複数の資料は「処分」されるという。
これには驚いた。
暴挙というより、愚行というほかない。

「その地域」にある「地域資料」をわざわざ中央に移管して、あげくの果てに処分するという、まことに素敵な都の「文化行政」には笑ってしまうほかはない。都立図書館の内部事情を知る人の話では、こうした「決定」に対して、「会議」では「反対意見」は発言とみなさない、という前置きがあるのだという。こうなると、「会議」」ということ自体が体をなしていない。都という地方行政の場で、有無を言わせない専制政治が跳梁跋扈しているのですね。そこにあるのは、何よりも「地域」という「分節」(実はこれが「民主主義」の実際的な基盤なのですが)を、できるだけ排除しようという意識、あるいは無意識でしょう。

しかのみならず、近時は港区にある「都立公文書館」一帯が民間に売却され、資料は世田谷区の廃校となった高校に移転することが決定され、その後のことは何も決まっていないのだそうです。こうした行政の現実は「素寒貧」とでも言うほかない。何が素寒貧かというと、自分の職分に対する自覚や倫理が欠落しているのですね。基本的に責を回避する。行政「文書」は出来るだけ隠す、廃棄する、残さない。都合のよいアピールだけを表に出す。

最近では、平成の大合併の挙句に「道州制」が取沙汰されていますが、仮にそうなったとして、その際23区だけは特別行政区となり、多摩地域は他府県と合併される公算が強い。そうなると、多摩地域には基本地域資料(アーカイブ)が存在しないという状況が出現します。果たして、とりあげた資料は返してくれるのでしょうか。多分、すでに廃棄した、と言うのでしょうね。

これは既に各地の「平成の大合併」において、現実におこっている事柄でもあります。アーカイブとはお役所の仕事クズではなくて、行政の証拠書類、つまりは市民が自らの権利をチェックする基本証書であることをあらためて確認しなければなりませんが、我々が一般j常識としてそれを自覚するには、まだだいぶある苦渋の道のりをふまなければならないようです。