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江戸の崖 東京の崖 その12

大森駅山王口天祖神社脇石段(旧馬込文士村に向う階段)
大森駅山王口天祖神社脇石段(旧馬込文士村に向う階段)

駅前風景  「三丁目の夕日」ではありませんが、「昭和三〇年代」を代表するイメージは「駅前食堂」や「駅前旅館」の類だと思っているのです。これに丸型のボンネットバスと改札口(改札つまりフダをあらためる、というのだから古風な話ですね)をもった屋根を配すれば、それだけで画面の骨格ほぼ仕上がってしまう。斜めに傾(かし)いだ木製電柱や貸本屋などを付け加えると、ちょいと芸が細かい、ということになるかも知れない。
代って今日では、不動産屋に消費者金融、パチンコ店、全国チェーンの居酒屋等のどぎつい看板を身にまといつかせた雑居ビルでなければ、大手開発企業や鉄道会社の主導でつくられた高層の複合駅ビル、それに灰色のコンクリート電柱が駅前の顔でしょうか。
 ところで鉄道は、敷設初期にはできるだけ平坦なレベルを通すのが筋でしょうから、崖とは無縁の存在と思われがちですが、起伏の激しい東京の山手ではそうもいかないところがあちこちにある。ビルや看板で覆い尽くされた駅前一帯の上皮を剥いでみれば、そこに出現したのは崖でした、という「駅前崖」の代表選手のひとつはJR東海道本線・京浜東北線大森駅。
川崎・横浜方面側の改札を出て右へ、山王口すなわち西口の階段を●段下って立てば、そこは青物横丁から池上本門寺を結ぶ、江戸時代からの池上道(いけがみみち)。この地点は標高11メートルですが、右手(北側)、大井方面に上り坂となっていて、250メートルほど北の交差点付近の標高は16メートルですから、その差5メートル。タンジェントの原理からこの間の傾斜を計算すると、約1度8分の、比較的緩い坂道。

八 景 向い側の天祖神社に上る石段の側面に、大田区教育委員会の説明板が掛かっていて、それには
「大田区文化財 八景坂(はっけいざか) 今でこそゆるやかな坂であるが、昔は相当な急坂で、あたかも薬草などを刻む薬研(やげん)の溝ようだったところから別名薬研坂と呼ばれた。この坂の上からは、かつて大森の海辺より遠く房総まで一望でき、この風景を愛した人たちにより「笠島夜雨(かさじまやう)、鮫州晴嵐(さめずせいらん)、大森暮雪(おおもりぼせつ)、羽田帰帆(はねだきはん)、六郷夕照(ろくごうゆうしょう)、大井落雁(おおいらくがん)、袖浦秋月(そでがうらしゅうげつ)、池上晩鐘(いけがみばんしょう)」という八勝が選ばれ、八景坂というようになったといわれています。かつて坂上には、源義家が鎧(よろい)をかけたと伝えられる広重らの浮世絵に描かれ、有名であった。」とあり、歌川広重の「八景坂鎧掛松」の絵が添えられています。
 元来中国が本家である「××八景」という景色コレクションは、日本でもやたらと各地に名乗りがあり、江戸の八景にもいろいろあって、当時も今も「両国暮雪(りょうごくぼせつ)、佃嶋帰帆(つくだじまきはん)、高輪秋月(たかなわしゅうげつ)、浅艸夕照(あさくさゆうしょう)、上野晩鐘(うえのばんしょう)、不忍落雁(しのばずらくがん)、洲崎晴嵐(すざきせいらん)、真乳夜雨(まつちやう)」の、「大森」が入らないバージョンのほうが、よほど一般的でしょう。
 ともあれ、「八景坂」。それはこの説明によれば、池上道の一部を言ったものらしい。

歌川広重「八景坂鎧掛松」
歌川広重「八景坂鎧掛松」

広重の絵を見てみると、それは松を描いたものではあるけれども、その松は切り立った崖の縁に生えている。崖下は水田で、その際は白帆が浮かぶ大森海岸(図●)。その脇の池上道が崖上の、というより崖縁を通る岨道(そまみち)であることがわかります。現在の東海道線・京浜東北線はこの崖下を通っている。新橋―横浜間に鉄道が開通した明治5年(1872)9月12日から五年も経たない明治10(1877)年6月19日、アメリカ人動物学者E・S・モースは、横浜から新橋に向う列車が大森を過ぎた直後、崖面に貝の堆積が露出しているのに気が付いた。これが日本考古学・人類学発祥ポイントとして著名な「大森貝塚」ですが、所在地は大森のある大田区ではなくて、品川区大井六丁目、現在の大森貝塚遺跡庭園内に記念碑が置かれています。この庭園は池上道脇につくられていますから、つまりは崖上ですが、元来の大森貝塚は崖面というか崖下にあったのですね。大森貝塚庭園前の池上道の標高が9メートル、崖下は2~3メートルですから、その差7~6メートル。ただし元来はもう少し比高があったと思われますから、約8メートルの崖。広重の浮世絵では、最低十数メートルあるように見えますね。この大森貝塚跡から大森海岸方向へまっすぐ500メートルほど東の第一京浜脇は、江戸時代の鈴ヶ森刑場跡。海が見える位だから、崖上からみれは著名な場所はそれと判ったはずなのに、広重もさすがに鎧掛松と刑場を、一枚の絵に描くわけにはいかなかったのでしょう。八景はそもそもお目出度い方の名所なのですからね。
 

大森駅西口正面天祖神社に向う石段
大森駅西口正面天祖神社に向う石段

先にも触れたように現在の池上道は岨道(そまみち)。崖上の道ではあるけれども、実は崖中というか、道脇にさらに高い崖が延びている。だから西口正面天祖神社脇から旧「馬込文士村」に向う石段は、合計62段ある。1段の高さが15センチから16センチ、仮に15センチで計算しても930センチ、すなわち約10メートルの比高がある。都合約20メートルの崖が、かつてここに存在したことになります。刑場を見下ろしていたはずの鎧掛松は、現在の天祖神社あたりだったといわれますから、そうだとすると広重描く「大森の崖」のたたずまいは、たしかにそのようなものだったと言えるでしょう。浮世絵もあながち誇張ばかりではないようです。
 実は「八景」という地名のオリジンは、「ハケ」や「バッケ」と同根の「ハッケ」で、これらは皆現在「ガケ」と呼ばれる「地形」を指す「用語」だったのです。これが中国伝来の名所八景に混入して、崖ならざるものと同列にされ、よくある地名起源パターンに固着してしまったわけですね。地名を吟味するときは、漢字を外してみなければいけないと言われる所以です。そうして現代の「ハッケ坂」は、「八景坂」の説明板の掛かる、天祖神社脇を通る62の石段そのものなのでした。
 駅前八景の外装を外してしまえば、そこにあらわれたのは比高約20メートルの崖でした。駅前崖。実は、大森駅山王口「八景坂」に並行して、さらに石段を数メートル下ったところに「山王小路飲食街」が「昭和飲み屋街」の名残りをとどめているのでした。

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