写真を撮るために、三ノ輪からいまや希少な存在となった路面電車に乗って、荒川区立「あらかわ遊園」まで杖を曳いた。
都電の荒川遊園地前停留所の安全地帯は、保育園か幼稚園の子どもたちでいっぱいだった。
午後4時近くだから、遊園地から帰るところだったのだろう。
撮影対象は、荒川区の「永久水利」施設。
「永久水利」とは、震災などで上水(水道)が利用できない事態に備えた試みのひとつで、隅田川そのものを水源とするための名付けなのだろう。しかし河川水といえども無限ではない。「悠久の自然」は幻想である。地球表面上、変動著しい日本列島においてはなおさらである。
あらかわ遊園スポーツハウス前の説明板
「水利」とは言うものの隅田川の水は、飲用はむろんのこと洗濯、掃除にさえ使える代物ではない。
いかに「処理」されたとしても、そこを流れる水の「雨水と処理希釈された下水の混合水」という本質は変わらない。
ごく一部を除き、都内の都市河川で釣った魚を食べることは不可能である。処理下水臭がきついのである。
だから説明板にあるように、水利とは消防(消火)水利以外ではありえない。しかし木造住宅密集地域を抱えている区にとっては、永久にも見えるありがたい水源なのだろう。
願わくは、肝心の折に川水を汲み上げるポンプの電源がない、といった事態が起こらざることを。
園内の「みずあそび広場」の水流。一見するときれいそうだがよくみると処理下水特有の泡が浮いて流れる。隅田川からポンプアップされた水である。この水流と「永久水利」の関係を問い合わせたが、皆知らなかった
ところで、園内で小学校4年生くらいの男の子が「潮(しお)の匂いがする」と言っていたのには驚いた。
そこに漂うのは、神田川でも隅田川でも多摩川でもおなじみの、下水処理薬品の臭いが主体の「現代都市河川臭」にすぎなかったからである。
プールで泳ぐのがせいぜいの子どもたちは、海の匂いと都市河川の処理下水臭を区別できないのだ。
あるいは大人たちでも「無分別感覚」者が多数派となりつつあるのだろう。まがいものの河川水、まがいものの香りが充満している巨大都市に住む、あるいはそこで育つ不幸を思う。
水処理化学を専攻している人ならば、こうした「都市河川臭」の正体はすぐにわかるのだろうが。
一般に処理下水は、ところどころにこのような「泡溜まり」をつくりだす。「親水公園」など、処理下水応用「清流」施設ではちょっと気をつければどこにでも目にし得る光景である。この泡の正体も明らかにしたいところだ
セーヌ川は最近トライアスロンのコースに利用されることがあるという。
東京23区や多摩東部では考えられないことである。
水泳競技が可能とすれば、隅田川とは比較にならないほどきれいだということである。
それが下水処理技術や処理基準の差にあるのか、(雨水と汚水の)合流式と分流式の違いであるのか、いまのところわからない。
あるいは流域都市人口と工場数の規模、ないしはアジア的密集とヨーロッパ的分散の差異も関与しているかもしれない。
いずれにせよこのようなところにこそ、都市の本質的課題は存在する。
この根本課題の諸元が明らかになって(一般に共有された情報になって)いないとすれば、東京の未来は明るくないというべきだろう。
「ニッポンすごい」「トーキョー世界一」の、はるか手前の課題だからである。
100万都市江戸の隅田川以西を支えたのは、多摩地域の水源(神田上水・玉川上水)であった。それは井戸水すら涵養した。
その時代、下水は汚水ではなかった。
だから隅田川以東、埋立造成地である深川エリアの飲み水は、荒川(隅田川)の比較的上流から汲んで来た水売りの水にたよることができたのである。
隅田川とあらかわ遊園への河川水汲み上げ場所附近。奥に見えるのは小台橋
昨年12月の6日に、仙台第二の地下鉄東西線が開通したこともあって、3・11から5年目の春、市内を歩き回った。
東西線の東のターミナル駅は荒井駅で、津波が全面積の56パーセントに侵入した若林区のほぼ中央、荒井東に位置し、地上3階地下1階の駅舎の1階部分は「せんだい3・11メモリアル交流館」があり、2階では被災関連の展示が行われていた。
仙台平野のどまんなか、沖積地であるから、このあたりに当然「坂」は存在しない。
津波からの逃げ場も、自然地形としては存在しないのだ。
しかし今回はじめて判然としたのは、村田町から仙台市を経て利府町に延びる長さ20キロ以上の活断層帯「長町-利府断層」の断層崖が、仙台市街の沖積地と段丘エリアの空間上の境界線で、同時に時間的な画線でもあったということである。
江戸初期に行われた山城仙台城の整備と、上水(四ツ谷用水)敷設による台地上への城下町建設以降、この長町-利府断層崖から西側の台地が「仙台史」の主舞台に転じた。
つまり、弥生時代から中世までの仙台の歴史は、断層崖東側の沖積地に展開していたのである。
藤原氏が整備したという東大道につながる「東(あづま)街道」は断層線に沿い、その直下を北上して多賀城を目指した。多賀城以前の陸奥国府は東北本線長町駅と太子堂駅の東、広瀬川との間の郡山に存在したし、「陸奥国分寺」「陸奥国分尼寺」も東街道に接してその東である。
陸奥エリア屈指の前方後円墳「遠見塚古墳」や「雷神山古墳」も沖積地に造営された。
今や100万人都市仙台の歓楽街として知られる「国分町」だが、そこに名をとどめる国分氏の本拠地もまた、今日の若林区役所から陸奥国分寺のエリアにあった。国分氏は、陸奥国分寺から姓を仮借したのである。
かくのごとく中世までの仙台の中心地は、地下鉄東西線「連坊」駅以東であった。
征服者は船を用い海から仙台平野に侵入して橋頭堡を築いたのであろうし、また近世の用水以前、台地部に水の便はなかったのである。
仙台平野の歴史を2000年前から追えば、当初の1600年は活断層の東側の沖積地に展開し、最近の400年ほどがその西側を舞台としたわけだ。
よく1100年ほど前の貞観地震が引き合いに出されたが、地質調査によればこのエリアに5年前と同じような規模の大津波が来襲したのは約2000年前の弥生時代だという。
その後一旦は人間の居住跡は途絶えるものの、数百年後の古墳時代には人が集中しはじめる。
人間とは、記憶するとともに忘れもする動物であり、忘れるがゆえに生きていくかなしい動物でもあった。
図の中央「仙台穀町郵便局」の下に「石名坂」と町名がある。長町―利府断層崖は図の右上の「連坊」(地下鉄駅の記号はあるが路線ルートは描かれていない)から左下「地下鉄南北線」の「線」の文字にかかって、影の表現で示される。
仙台市のサイト(http://www.city.sendai.jp/wakabayashi/c/miryoku_monoshiri.html#330)には「仙台七坂」として、「仙台は河岸段丘の上につくられているだけに、変化に富んだ地形があちらこちらで見られる。坂道が多いのも特徴の一つで、城下を代表する7つの坂は「仙台七坂」として呼びならわされてきた。いまなお、使われている坂の名もある」の説明があり、以下そのひとつひとつ(大坂、扇坂、藤ヶ坂、新坂、元貞坂、茂市ヶ坂、石名坂)に簡略な説明をしているが、この断層崖について言及はない。
留意すべきは、仙台七坂のほかの6坂はすべて段丘エリアに存在するのに対し、唯一「石名坂」だけがこの断層崖にかかる坂、つまり段丘面と沖積地をブリッジする位置にあって、しかもそれは線状の坂の名というより一定の広がりを持った「町名」である、という点である。
また「石名」(石那)が仙台出身元吉原の花魁名に由来するという伝承も、この坂が江戸初期ないし江戸以前にかかるものであることを暗示する。
仙台市若林区石名坂61にある円福寺境内の石名大夫墓
つまり今では南北の道筋とされる石名坂だが、古くは道が南北東西に交差する+字の坂(東側と南側が低い)であった可能性を否定できないのである。
繰り返せば、仙台七坂のうちほかの六坂は段丘崖にかかり、石名坂のみが断層崖にかかる。
その断層崖は2000年の仙台平野の歴史を二分する界線であった。
したがって、仙台七坂のうち石名坂こそ最古の坂(要路の急傾斜部で、命名され、緩傾斜とされた部分)である、という推論が成り立つのである。
仙台地下鉄南北線が開業したのは1987年、それに交差する東西線は約30年後ミニ地下鉄にスケールダウンしてようやく開通した。
もちろんグーグルマップに南北線のルートは線引きされている。
しかし東西線のそれは、開通4ヶ月を過ぎようとしている今日でも、依然として描かれてはいない。
知識や記述のたぐいは、往々にしてちぐはぐで偏頗なものなのである。
「石名坂」という坂は、藤沢にも日立にも所在する。坂名由来の詮索は、伝説とは別のところに求めなければならない。
16年前の4月末に発売された福山雅治のCD「桜坂」は200万枚を超す大ヒットとなったという。
この2月27日、大田区南久が原の昭和のくらし博物館で、「崖・水・くらし ―建築以前のこと」と題して2時間ほど話をしたが、それまで桜坂という坂も知らなければ、福山雅治という名前も、ましてその曲も聴いたことはなかった。
下見で大田区の国分寺崖線地域を歩いていて、結局「桜坂」と「ぬめり坂」に話の焦点をしぼることにして、はじめて十数年前の社会現象を知ったわけだ。
一般的な説明では、国分寺崖線は田園調布あたりまでつづくとされるが、国分寺崖線を「立川段丘の後面段丘崖」(松田磐余)と定義すると、国分寺崖線は大田区鵜の木一丁目の光明寺下までたどることができる。桜坂は中原街道の一部で、国分寺崖線を上下する傾斜部にあたる。
道端に立てられた説明板には、「桜坂 (さくらざか)/ この坂道は,旧中原街道の切り通しで,昔は沼部大坂といい,勾配のきつい坂で荷車の通行などは大変であったという。今ではゆるい傾斜となっているが,坂の両側に旧中原街道のおもかげを残している。坂名は両側に植えられた桜に因む。/昭和五十九年三月大田区」とある。
wikipadiaでもほぼ同様の説明をしているが、実は「桜坂」と「沼部の大坂」とは、空間的にも時間的にも別個のものなのである。
上の画像の2つのブックマーク(ピン)の間が現在の桜坂にあたる部分で、明治期までは平坦な段丘面であった(「東京時層地図」から)
沼部の大坂は丸子の渡しにつづく中原街道の要衝だが、国分寺崖線を開析した小規模な谷の壁をたどる坂道で、私の「坂の5類型」でいえば基本的には第3類型の「谷道坂」にあたり、第4類型の切通坂ではない。
いまや桜坂の象徴のような「赤い橋」も、かつて中原街道の平坦面でそれに交差していた道が切り通しによって分断されたため、その「補償」として戦後に架けられたもの。観光が意識されたわけもない。
「坂の両側に旧中原街道のおもかげを残している」いわば「両脇の急坂」も、新たな切り通し坂による「地域分断への補償」として造作されたのであって、「中原街道の旧道の様子を残しているのは、区内ではこの付近だけである」という「大田区文化財 旧中原街道」の説明板も、ただし書きが必要であろう。
日程 2016年3月27日(日曜日) 午前の部&午後の部
集合 午前の部:10時 国分寺駅改札前
午後の部: 2時 国分寺駅改札前
案内人 芳賀ひらく
コース予定(一部変更可能性あり)
午前の部:国分寺駅北口→野川源流(日立中央研究所南)→伝村上春樹洋子夫妻旧居跡→姿見の池・畠山重忠と遊女夙妻(あさづま)太夫伝説の地→東福寺傾城の墓→鎌倉街道跡→古代官道跡→都立武蔵国分寺公園→国分寺崖線→真姿の池湧水群・真姿の池(玉造小町伝説)→お鷹の道→野川不動橋→池の坂→国分寺駅南口
*昼食は国分寺駅周辺で、各自*
午後の部:国分寺駅南口→都立殿ヶ谷戸庭園→村上春樹・ピーターキャット跡→新次郎池→貫井弁天→野川河川敷→滄浪泉園→質屋坂→小金井小次郎墓→はけの道→はけの森美術館【喫茶部休憩】→大岡昇平『武蔵野夫人』故地富永邸→ムジナ坂→都立武蔵野公園→二枚橋→都立野川公園→多磨霊園北口→【バス】武蔵小金井駅
参加費 500円(資料代 資料:旧版地形図・記録/文学作品抄)
午後の部・午前の部通し参加可(参加費は通しでも500円)
限定20人・要事前申込 問合せ・申込:hiraku@collegio.jp
当日連絡 080-6554-3805(多少の雨天でも行います)
*保険などの用意はありません。事故がないように。万一の場合は基本的に各自で対応をお願いします。
*午後の部終了後、武蔵小金井周辺で春夕小宴予定。