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石名坂 仙台七坂

昨年12月の6日に、仙台第二の地下鉄東西線が開通したこともあって、3・11から5年目の春、市内を歩き回った。
東西線の東のターミナル駅は荒井駅で、津波が全面積の56パーセントに侵入した若林区のほぼ中央、荒井東に位置し、地上3階地下1階の駅舎の1階部分は「せんだい3・11メモリアル交流館」があり、2階では被災関連の展示が行われていた。
仙台平野のどまんなか、沖積地であるから、このあたりに当然「坂」は存在しない。
津波からの逃げ場も、自然地形としては存在しないのだ。

しかし今回はじめて判然としたのは、村田町から仙台市を経て利府町に延びる長さ20キロ以上の活断層帯「長町-利府断層」の断層崖が、仙台市街の沖積地と段丘エリアの空間上の境界線で、同時に時間的な画線でもあったということである。

江戸初期に行われた山城仙台城の整備と、上水(四ツ谷用水)敷設による台地上への城下町建設以降、この長町-利府断層崖から西側の台地が「仙台史」の主舞台に転じた。

つまり、弥生時代から中世までの仙台の歴史は、断層崖東側の沖積地に展開していたのである。
藤原氏が整備したという東大道につながる「東(あづま)街道」は断層線に沿い、その直下を北上して多賀城を目指した。多賀城以前の陸奥国府は東北本線長町駅と太子堂駅の東、広瀬川との間の郡山に存在したし、「陸奥国分寺」「陸奥国分尼寺」も東街道に接してその東である。
陸奥エリア屈指の前方後円墳「遠見塚古墳」や「雷神山古墳」も沖積地に造営された。
今や100万人都市仙台の歓楽街として知られる「国分町」だが、そこに名をとどめる国分氏の本拠地もまた、今日の若林区役所から陸奥国分寺のエリアにあった。国分氏は、陸奥国分寺から姓を仮借したのである。
かくのごとく中世までの仙台の中心地は、地下鉄東西線「連坊」駅以東であった。

征服者は船を用い海から仙台平野に侵入して橋頭堡を築いたのであろうし、また近世の用水以前、台地部に水の便はなかったのである。
仙台平野の歴史を2000年前から追えば、当初の1600年は活断層の東側の沖積地に展開し、最近の400年ほどがその西側を舞台としたわけだ。

よく1100年ほど前の貞観地震が引き合いに出されたが、地質調査によればこのエリアに5年前と同じような規模の大津波が来襲したのは約2000年前の弥生時代だという。
その後一旦は人間の居住跡は途絶えるものの、数百年後の古墳時代には人が集中しはじめる。
人間とは、記憶するとともに忘れもする動物であり、忘れるがゆえに生きていくかなしい動物でもあった。

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図の中央「仙台穀町郵便局」の下に「石名坂」と町名がある。長町―利府断層崖は図の右上の「連坊」(地下鉄駅の記号はあるが路線ルートは描かれていない)から左下「地下鉄南北線」の「線」の文字にかかって、影の表現で示される。

仙台市のサイト(http://www.city.sendai.jp/wakabayashi/c/miryoku_monoshiri.html#330)には「仙台七坂」として、「仙台は河岸段丘の上につくられているだけに、変化に富んだ地形があちらこちらで見られる。坂道が多いのも特徴の一つで、城下を代表する7つの坂は「仙台七坂」として呼びならわされてきた。いまなお、使われている坂の名もある」の説明があり、以下そのひとつひとつ(大坂、扇坂、藤ヶ坂、新坂、元貞坂、茂市ヶ坂、石名坂)に簡略な説明をしているが、この断層崖について言及はない。

留意すべきは、仙台七坂のほかの6坂はすべて段丘エリアに存在するのに対し、唯一「石名坂」だけがこの断層崖にかかる坂、つまり段丘面と沖積地をブリッジする位置にあって、しかもそれは線状の坂の名というより一定の広がりを持った「町名」である、という点である。
また「石名」(石那)が仙台出身元吉原の花魁名に由来するという伝承も、この坂が江戸初期ないし江戸以前にかかるものであることを暗示する。

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仙台市若林区石名坂61にある円福寺境内の石名大夫墓

つまり今では南北の道筋とされる石名坂だが、古くは道が南北東西に交差する+字の坂(東側と南側が低い)であった可能性を否定できないのである。

繰り返せば、仙台七坂のうちほかの六坂は段丘崖にかかり、石名坂のみが断層崖にかかる。
その断層崖は2000年の仙台平野の歴史を二分する界線であった。
したがって、仙台七坂のうち石名坂こそ最古の坂(要路の急傾斜部で、命名され、緩傾斜とされた部分)である、という推論が成り立つのである。

仙台地下鉄南北線が開業したのは1987年、それに交差する東西線は約30年後ミニ地下鉄にスケールダウンしてようやく開通した。
もちろんグーグルマップに南北線のルートは線引きされている。
しかし東西線のそれは、開通4ヶ月を過ぎようとしている今日でも、依然として描かれてはいない。
知識や記述のたぐいは、往々にしてちぐはぐで偏頗なものなのである。

「石名坂」という坂は、藤沢にも日立にも所在する。坂名由来の詮索は、伝説とは別のところに求めなければならない。

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